ひとりの高校生の自殺事件をきっかけに、体罰に対する意識が大きく変わりつつあるようです。くすぶっていたこの問題に油を注いだのは橋下市長ですが、それを大火事にしたのはマスメディアでしょう。人々の意識に対するマスメディアの影響力の大きさを見せつけられた気がします。
いままでは体罰を受けても諦めるしかないといった風潮があったと思われます。おそらく学校に訴えても、教育委員会に訴えても、うまく隠蔽されて表沙汰にはならない、という諦めがあったのでしょう。しかし今では体罰は絶好のニュースネタであり、体罰を行っていた先生方は心穏やかならざる日々をお送りのことでしょう。誰もが体罰に対してセンシティブになったと思います。
短期間に人々の意識を変えるのはなかなか大変なことですが、メディアがスクラムを組めば可能であることが示されました。体罰がスポーツ界に残っていたのは、上層部が強い権限をもつ、有無を言わせぬ支配体制であったことと関係があるのでしょう。
数年前に書いたことですが、スポーツ界の体質を表す話があります。日経の「私の履歴書」に載ったプロスキーヤーの三浦雄一郎氏のエピソードです。
「1959年のことだ。三浦氏は青森県の代表として全日本に出場する筈であった。当時青森県は代表枠が4人であったにもかかわらず、出場者を2人に絞る方針であったことに対し、三浦氏は『せっかくだから、あと2人出したらどうですか』と要望した。会場では後ろの方から『ろくでもない役員が全部県の負担でぞろぞろ選手よりも余計に行くくせに、どうして選手を出せないんだ。役員といったって酒飲みに行くだけじゃないか』との発言。 だが他方の役員席からは『選手失格だ』の声が上がり、三浦氏はアマチュア資格剥奪、永久追放となった」
まるで時が停止したような世界です。こんなところで批判や抗議するのは大変な勇気がいることでしょう。とても洗練された先進国とは思えません。まあそれはともかく、野蛮な趣のある体罰がなくなることは喜ばしいことです。
ただ今回の集中報道の動機という点から言えば、教育界やスポーツ界から体罰を一掃したいという気持ちだけでなく、体罰などの不祥事を秘密裏に処理してきた隠蔽体質を暴いて楽しむという動機が多分にあったように感じます。都合の悪い事実を次々とバラし、威張っていた連中を吊るし上げて楽しむという動機です。
逆に言うと隠蔽がなかったならば、この体罰問題はこれほどまでに大きく報道されなかったでしょうし、そうであれば意識の改革はもっと弱いものに留まったと思われます。皮肉にもメディアの純粋とは言えない動機が体罰に対する意識を変えるのに役立ったわけです。
かつての不二家に対するメディアの暴走に於いても、皆で吊るし上げて楽しむという邪(よこしま)な動機が強く働いていたと考えられます。不二家の僅かな過失を針小棒大に報じるばかりか、床に落ちたチョコレートを拾って製品に混ぜたという話まで捏造したことはこのような動機の存在を強く示唆します。これらの報道は読者・視聴者にカタルシスをもたらすものであり、中世の魔女狩りと通じるところがあります。しかしあまりよい趣味とは言えません。
今回の体罰報道は体罰をなくすという良い結果をもたらしましたが、不二家事件を始めとする食品企業に対する執拗なバッシングでは過剰な安全意識をもたらし、膨大な廃棄食品を生み出す仕組みを築き上げることになりました。これはバッシングを効果的に見せるために基準を必要以上に厳しく解釈したための副産物でしょう。食品のリコールも不二家事件以後急増し、現在では年間約1000件に達し、その中には安全上必要のないものが多数含まれ、リコール倒産なんて言葉もできたそうです。このときの意識改革では利益よりも不利益の方がずっと大きかったと思われます。
儲けを気にしなくてもよい公共放送のNHKをも含めて、このようなメディアスクラムが起きる根底には魔女狩り願望があるのではないでしょうか。それは読者・視聴者にもあるもので、メディアはその願望を煽るリーダーなのでしょう。あまり格好良くありませんけどね。
人々の意識を変えるという点でメディアの力は恐ろしいものがあります。戦前、国全体が軍国主義に染まりましたが、メディア以外にそんな「大仕事」はできません。しかしその力は良心やまともな識見にしたがって行使されるとは限らないようです。
いままでは体罰を受けても諦めるしかないといった風潮があったと思われます。おそらく学校に訴えても、教育委員会に訴えても、うまく隠蔽されて表沙汰にはならない、という諦めがあったのでしょう。しかし今では体罰は絶好のニュースネタであり、体罰を行っていた先生方は心穏やかならざる日々をお送りのことでしょう。誰もが体罰に対してセンシティブになったと思います。
短期間に人々の意識を変えるのはなかなか大変なことですが、メディアがスクラムを組めば可能であることが示されました。体罰がスポーツ界に残っていたのは、上層部が強い権限をもつ、有無を言わせぬ支配体制であったことと関係があるのでしょう。
数年前に書いたことですが、スポーツ界の体質を表す話があります。日経の「私の履歴書」に載ったプロスキーヤーの三浦雄一郎氏のエピソードです。
「1959年のことだ。三浦氏は青森県の代表として全日本に出場する筈であった。当時青森県は代表枠が4人であったにもかかわらず、出場者を2人に絞る方針であったことに対し、三浦氏は『せっかくだから、あと2人出したらどうですか』と要望した。会場では後ろの方から『ろくでもない役員が全部県の負担でぞろぞろ選手よりも余計に行くくせに、どうして選手を出せないんだ。役員といったって酒飲みに行くだけじゃないか』との発言。 だが他方の役員席からは『選手失格だ』の声が上がり、三浦氏はアマチュア資格剥奪、永久追放となった」
まるで時が停止したような世界です。こんなところで批判や抗議するのは大変な勇気がいることでしょう。とても洗練された先進国とは思えません。まあそれはともかく、野蛮な趣のある体罰がなくなることは喜ばしいことです。
ただ今回の集中報道の動機という点から言えば、教育界やスポーツ界から体罰を一掃したいという気持ちだけでなく、体罰などの不祥事を秘密裏に処理してきた隠蔽体質を暴いて楽しむという動機が多分にあったように感じます。都合の悪い事実を次々とバラし、威張っていた連中を吊るし上げて楽しむという動機です。
逆に言うと隠蔽がなかったならば、この体罰問題はこれほどまでに大きく報道されなかったでしょうし、そうであれば意識の改革はもっと弱いものに留まったと思われます。皮肉にもメディアの純粋とは言えない動機が体罰に対する意識を変えるのに役立ったわけです。
かつての不二家に対するメディアの暴走に於いても、皆で吊るし上げて楽しむという邪(よこしま)な動機が強く働いていたと考えられます。不二家の僅かな過失を針小棒大に報じるばかりか、床に落ちたチョコレートを拾って製品に混ぜたという話まで捏造したことはこのような動機の存在を強く示唆します。これらの報道は読者・視聴者にカタルシスをもたらすものであり、中世の魔女狩りと通じるところがあります。しかしあまりよい趣味とは言えません。
今回の体罰報道は体罰をなくすという良い結果をもたらしましたが、不二家事件を始めとする食品企業に対する執拗なバッシングでは過剰な安全意識をもたらし、膨大な廃棄食品を生み出す仕組みを築き上げることになりました。これはバッシングを効果的に見せるために基準を必要以上に厳しく解釈したための副産物でしょう。食品のリコールも不二家事件以後急増し、現在では年間約1000件に達し、その中には安全上必要のないものが多数含まれ、リコール倒産なんて言葉もできたそうです。このときの意識改革では利益よりも不利益の方がずっと大きかったと思われます。
儲けを気にしなくてもよい公共放送のNHKをも含めて、このようなメディアスクラムが起きる根底には魔女狩り願望があるのではないでしょうか。それは読者・視聴者にもあるもので、メディアはその願望を煽るリーダーなのでしょう。あまり格好良くありませんけどね。
人々の意識を変えるという点でメディアの力は恐ろしいものがあります。戦前、国全体が軍国主義に染まりましたが、メディア以外にそんな「大仕事」はできません。しかしその力は良心やまともな識見にしたがって行使されるとは限らないようです。