噛みつき評論 ブログ版

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伝統と前例踏襲

2013-10-07 09:51:30 | マスメディア
 伝統と言えば価値あるもの、守るべきものというように肯定的に受け止められのが普通です。しかしすべてがそうとは限りません。伝統には時代を超える価値があるゆえに長く続くものがある一方、形式的に前例を繰り返しているうちに形骸化し、その意味が失われたものが少なくありません。後者は価値ではなく組織の存続や関係者の利益が主な理由となります。

 また後者は延々と続く前例踏襲の結果です。前例踏襲は役人の「伝統的」な行動指針ですが、その弊害もよく指摘されるところです。同じことを繰り返していれば批判される心配が少ないかわりに、環境の変化に対応できず、徐々に現実との不適合を生じます。伝統の美名の下に、意味があるかどうかの判断から逃げるわけで、アタマを使わなくてもよいことが利点です。

 伊勢神宮の62回式年遷宮が話題になっていますが、その予算は570億円、使われる檜は1万3千本だそうです。千二百年余りの間、20年毎に繰り返されてきました。長く続いた伝統行事だと思う一方で、実に膨大な浪費を続けてきたものだという「感慨」を覚えます。

 社会や国家の中に宗教が大きな位置を占めていた時代においては、伊勢神宮の式年遷宮はそれなりの意味を持っていたのでしょう。しかし現在、宗教の役割は格段に小さくなっている上、明確な教義を持たない神道は宗教と呼ぶのさえもためらわれます。

 多くの神社は実質的に宗教としての意味を失い、形だけを留めているといえます。連綿と前例踏襲を繰り返した結果であり、明確な意味を見出せない式年遷宮はその象徴と言えるでしょう。千年以上やってきたから、というのは理由にはなりません。

 しかしこの式年遷宮に対する表立った批判はほとんどありません。伝統を無条件に肯定するという誤った認識のためか、あるいは批判をすればバチでも当たると思っているためでしょうか。「伝統的」にマスメディアは宗教に対する批判を避けているような観があります。

 式年遷宮が20年ごとに行われる理由ははっきりしないとされています。それは現在において、説得力のある理由がないことを意味します。あるとすれば観光業者や建設業者の利益でしょう。資源の浪費をやめ、これからは法隆寺のように千年以上もたせるようにすることも可能な筈です。

 神社が勝手に寄付を集めてやっていることに口出しは無用という考えもあるでしょうが、これだけの規模になるとそう言い切れるものではないと思います。震災復興を持ち出すまでもなく、一国の資源配分の問題とも言えるからです。膨大な資源消費に見合うだけの意味があるのか、と問う視点が少しはあってもよさそうです。

 宗教活動による収入は非課税という実態に合わなくなった問題も含め「触らぬ神に祟りなし」では困るわけです。