これだけ多くの人間がいるのだから、アホなことや不合理なことをやって没落、あるいは刑務所に入ったりする者が出るのは仕方がない。しかし集団的、組織的に不合理なことをして周囲に大きな災厄をもたらす例も少なくない。テロは無辜の人々を殺傷するだけでなく、不安や多くの警備費や移動の不自由さをも強いる。
テロを実施したオウム真理教やイスラム過激派はむろんのこと、ナチズムのドイツ、10倍以上の生産力のある米国に戦いを挑んだ日本の行為も現在からみれば不合理な行為であると映る。集団的な行為の場合、集団内には一定方向に引っ張るようなメカニズムが働くのであろう。なぜそのようなことが起きるのか、実に興味ある問題である。1969年、カリフォルニア州パロアルトの平凡な高校で起きた事件はこの疑問にヒントを与えてくれる。ちょっと長くなるが以下、西田 公昭著「マインド・コントロールとは何か」から引用する(孫引き)。
1969年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。
教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
やめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。
この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。
生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
(引用終わり)
経験の浅い若者とはいえ、わずかな時間でこんなにも簡単に集団的な暴走が可能になることにまず驚く。ポルポトによる100万人以上の虐殺、同規模のルワンダの殺戮、数千万人規模と言われるスターリン粛清や毛沢東の紅衛兵運動、最近ではイスラミックステート(IS)などの説明にも有効であろうと思う。この本ではマインドコントロールとして紹介されているが、現実にはこのような強い支配状態だけでなく、もっと緩やかな支配状態は広く存在すると思われる。
イスラム過激派の母体はイスラム教であり、テロや殺人を犯したかつての赤軍派の母体は共産主義である。宗教の一部、強い政治思想をもつマスメディアなどにもこのようなメカニズムが働く可能性がある。9条があれば平和が保たれるというように現状認識が合理性を欠いたり、非現実的な主張をする組織・団体は要注意であろう。憲法で保障される信教の自由はオウムなどの集団暴走の温床でもある。だから廃止すべきというつもりはないが、それを金科玉条にするような憲法崇拝の単純さもまた厄介である。
(この高校の話はドイツで2008年に「ウェーブ」として映画化されている)
テロを実施したオウム真理教やイスラム過激派はむろんのこと、ナチズムのドイツ、10倍以上の生産力のある米国に戦いを挑んだ日本の行為も現在からみれば不合理な行為であると映る。集団的な行為の場合、集団内には一定方向に引っ張るようなメカニズムが働くのであろう。なぜそのようなことが起きるのか、実に興味ある問題である。1969年、カリフォルニア州パロアルトの平凡な高校で起きた事件はこの疑問にヒントを与えてくれる。ちょっと長くなるが以下、西田 公昭著「マインド・コントロールとは何か」から引用する(孫引き)。
1969年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。
教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
やめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。
この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。
生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
(引用終わり)
経験の浅い若者とはいえ、わずかな時間でこんなにも簡単に集団的な暴走が可能になることにまず驚く。ポルポトによる100万人以上の虐殺、同規模のルワンダの殺戮、数千万人規模と言われるスターリン粛清や毛沢東の紅衛兵運動、最近ではイスラミックステート(IS)などの説明にも有効であろうと思う。この本ではマインドコントロールとして紹介されているが、現実にはこのような強い支配状態だけでなく、もっと緩やかな支配状態は広く存在すると思われる。
イスラム過激派の母体はイスラム教であり、テロや殺人を犯したかつての赤軍派の母体は共産主義である。宗教の一部、強い政治思想をもつマスメディアなどにもこのようなメカニズムが働く可能性がある。9条があれば平和が保たれるというように現状認識が合理性を欠いたり、非現実的な主張をする組織・団体は要注意であろう。憲法で保障される信教の自由はオウムなどの集団暴走の温床でもある。だから廃止すべきというつもりはないが、それを金科玉条にするような憲法崇拝の単純さもまた厄介である。
(この高校の話はドイツで2008年に「ウェーブ」として映画化されている)