噛みつき評論 ブログ版

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人の心と性善説・性悪説

2019-12-29 22:01:34 | コラム


 性善説は孟子の「人間が生まれ持った本性は善である」に、性悪説は荀子の「人の性は悪なり その善なるものは偽なり」に由来するとされる。それぞれ、解釈はいろいろあるようだが、ここでは単純に文字通りの意味とする。つまり人は生まれつき善なのか、生まれつき悪なのか、である。

 むろんこの認識はどちらも現実的ではない。両極端を述べているのだが、現実にそんな人はまずどちらも実在しない。たいていの人は善と悪の混合物であると考えるのが妥当だろう。善と悪について述べると大変なのでここでは単に利他的なもの、利己的なものと考えればよい。

 世の中には性善説を信じる人がいる一方、性悪説を信じる人がいる。どちらも極論なので、現実には性善説に近いとか、性悪説に近いという人が多数だろうと思われるが、なぜ性善説または性悪説を信じるに至ったのかという理由の方が興味深い。

 運よく善人に囲まれて暮らす人は性善説に傾くであろうし、悪人ばかりと付き合ってきた人は性悪説に傾くであろうことは容易に想像がつく。しかしもうひとつ重要な理由がある。それは自分の心を観察した結果である。

 他人の心は言葉や行動で推し量るしかないが、嘘をつくかも知れず、正確に捉えるのは至難である。これに対して自分の心を知るのは比較的容易だ。そして多くの人の心は一定の範囲に収まるものという常識があるので、自分の心は人間の代表であると思いがちである。つまり性善説を信じる者は自分の善良な心の反映としてそれを信じ、性悪説を信じる者は自分の邪悪な心の反映として信じる、ということになる。このような観点から自分の周囲を見回してみると、あいつは腹黒いからきっと性悪説を信じている筈だ、などと思いあたったりする。

 では検察官はどうだろう。日常的に犯罪者と向き合っているのだから性悪説に傾くのは自然かもしれない。裁判官や弁護士も犯罪者に向き合うのが商売だから同様だろう。まさに「人を見れば泥棒と思え」の心をお持ちなのかもしれない。ま、人を疑う心がなくては商売が成り立たないのも確かである。

 護憲を主張する左派メディアは日本政府が戦争をやりたがっていると深く疑っている。また政府のすることを疑い、ことごとく反対の姿勢を見せる。政府は国民が選んだものであるのにである。とにかく極めて疑い深い性格があるようだ。とすればこれは性悪説の立場だと言える。そして彼らがきれいごとを言うのは偽善ということになる。彼らの腹の中はいったいどんな色であろうか、気になる(これは少しこじつけ気味であることを認めるが)。

 というわけで、性悪説を信じる人間は他の人間の本姓をも悪と見ているだけでなく、本人の心も悪に傾いている可能性が高い。できれば性善説を信じる人と付き合いたいものである。