ALS患者の林優里さんは自らの意志によって昨年11月に亡くなった。その直前、林さんは「完全閉じ込め症候群(TLS)」の症状が出ていたという。これは意識や聴覚はあるものの視力を完全に失った状態で、意思表示を視線入力装置に頼っていた彼女は意思表示の手段をすべて失う直前であったという。体のどこかが痛くても、苦しくても、排せつが終わっても、それらのことを伝えることが一切できない。これ以上の地獄があろうか。
「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい」という石原慎太郎氏の発言があった。同感である。だが切腹の際の苦しみは数時間だが、ALSのそれは何年も続く。ALS患者の死の願いを断つことは「介錯」を止めるよりはるかに残酷・非人道的な行為である。
この事件の立件を決めた人たちは数ヶ月も検討したというから、ALSの知識も十分得ていたことと思う。その上での逮捕なのだから、それがALS患者などが地獄の苦しみから逃れる唯一の道を断ってしまうことは分かっていたに違いない。このような事件に関わる検や警察の方々は鬼の心を持たないとできないだろう。
あるいはクソマジメな方々ばかりであったのかもしれない。福島第一原発の事故のときのことである。計器・制御用のバッテリーの残量が少なくなり制御が困難になったとき、急遽、東京で新しいバッテリー1000個が調達され、トラックで福島に向かったところ、高速道路の入り口で危険物だから通せないと足止めを食い、結局24時間遅れることになった。現場は混乱の中、所員のマイカーから多数のバッテリーを集めて対応せざるを得なかった。高速道路への進入を阻止したのは超マジメ人間、原発事故など自分には関係なく、自分はただ規則を守ればいいという人物であったのだろう。重要物資なのだからパトカーの先導なとできなかったのか思うが、そこは民主党の菅政権であったので…。
ALS事件に於いても検察や警察は自分たちは法に従ってクソマジメにやっただけだと思っているかもしれない。メディアの論調もそれを肯定するかのように、犯罪という側面に焦点を当てたものが圧倒的だ。他方、ALS患者の意図的な死については、ALS患者が死にたいと思わなくていいような環境を整えるのが先決、といった死を否定する意見を多く紹介していた。死以外に地獄から逃れる術はないというケースがあることを認めるような報道はなかった。生死を決めるのは苦しんでいる本人ではなく、他人であるという現状に疑義を呈するものは皆無であった。ALS患者の病状、心の状態は様々であり、よく知らない他人が一律に決定する事実は残酷であり、非人道的であり、そして愚かである。
言うまでもないが、法は決して万能ではなく、社会の変化に応じて法も変わっていく必要がある。しかしそのプロセスは面倒が多い。手続きなどで時間がかかるだけでない。逆に法が価値観を固定している側面があるからではないか。憲法を変える国はいくらでもあるのに、日本憲法は70余年変更されなかった。時代は変わり国際環境も変わったにもかかわらずである。法はその時代の価値観を反映して決められる。法が価値観を決めるのではない。残念なことに古い時代に決められた法・憲法の価値観・見識を現代の価値観・見識であると認識している保守的な人々がいる。逆なのである。現実を法に反映すべきなのである。
検察や警察に見て見ぬふりを求めるのはどうだろうか。彼らの裁量に頼る方法である。素早く法の不備を補うのはこれが有効である。しかし彼らに日本のシンドラー、杉原千畝(伝説には異論あり)になってもらうのは無理かもしれない。ただ重要なことは死以外には救う方法のない人がいるとという事実である。いかに少数であっても無視してはならない問題である。全く意思表示ができない「完全閉じ込め症候群」の患者を救済せずともよいのか。みんなで親切に介護して長く生きてもらうことは一見、感動的な話である。しかし本人にとってはどう考えても残酷すぎる仕打ちである。
「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい」という石原慎太郎氏の発言があった。同感である。だが切腹の際の苦しみは数時間だが、ALSのそれは何年も続く。ALS患者の死の願いを断つことは「介錯」を止めるよりはるかに残酷・非人道的な行為である。
この事件の立件を決めた人たちは数ヶ月も検討したというから、ALSの知識も十分得ていたことと思う。その上での逮捕なのだから、それがALS患者などが地獄の苦しみから逃れる唯一の道を断ってしまうことは分かっていたに違いない。このような事件に関わる検や警察の方々は鬼の心を持たないとできないだろう。
あるいはクソマジメな方々ばかりであったのかもしれない。福島第一原発の事故のときのことである。計器・制御用のバッテリーの残量が少なくなり制御が困難になったとき、急遽、東京で新しいバッテリー1000個が調達され、トラックで福島に向かったところ、高速道路の入り口で危険物だから通せないと足止めを食い、結局24時間遅れることになった。現場は混乱の中、所員のマイカーから多数のバッテリーを集めて対応せざるを得なかった。高速道路への進入を阻止したのは超マジメ人間、原発事故など自分には関係なく、自分はただ規則を守ればいいという人物であったのだろう。重要物資なのだからパトカーの先導なとできなかったのか思うが、そこは民主党の菅政権であったので…。
ALS事件に於いても検察や警察は自分たちは法に従ってクソマジメにやっただけだと思っているかもしれない。メディアの論調もそれを肯定するかのように、犯罪という側面に焦点を当てたものが圧倒的だ。他方、ALS患者の意図的な死については、ALS患者が死にたいと思わなくていいような環境を整えるのが先決、といった死を否定する意見を多く紹介していた。死以外に地獄から逃れる術はないというケースがあることを認めるような報道はなかった。生死を決めるのは苦しんでいる本人ではなく、他人であるという現状に疑義を呈するものは皆無であった。ALS患者の病状、心の状態は様々であり、よく知らない他人が一律に決定する事実は残酷であり、非人道的であり、そして愚かである。
言うまでもないが、法は決して万能ではなく、社会の変化に応じて法も変わっていく必要がある。しかしそのプロセスは面倒が多い。手続きなどで時間がかかるだけでない。逆に法が価値観を固定している側面があるからではないか。憲法を変える国はいくらでもあるのに、日本憲法は70余年変更されなかった。時代は変わり国際環境も変わったにもかかわらずである。法はその時代の価値観を反映して決められる。法が価値観を決めるのではない。残念なことに古い時代に決められた法・憲法の価値観・見識を現代の価値観・見識であると認識している保守的な人々がいる。逆なのである。現実を法に反映すべきなのである。
検察や警察に見て見ぬふりを求めるのはどうだろうか。彼らの裁量に頼る方法である。素早く法の不備を補うのはこれが有効である。しかし彼らに日本のシンドラー、杉原千畝(伝説には異論あり)になってもらうのは無理かもしれない。ただ重要なことは死以外には救う方法のない人がいるとという事実である。いかに少数であっても無視してはならない問題である。全く意思表示ができない「完全閉じ込め症候群」の患者を救済せずともよいのか。みんなで親切に介護して長く生きてもらうことは一見、感動的な話である。しかし本人にとってはどう考えても残酷すぎる仕打ちである。