木曾駒ヶ岳(2956m)は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。
95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。
4時間ほどで樹林帯を抜け標高約2600mの稜線に出ますが、ここから先の3時間は風を遮るものがほとんどない稜線の道です。遭難者の多くはこの稜線上で亡くなりました。稜線に出てから1時間ほど歩くと遭難記念碑があり、花が供えられていました。碑の後ろには説明文があります。
『遭難記念碑(聖職の碑)
大正2年(1913)8月26日中箕輪尋常高等小学校の教師,児童,同窓生37名は急変した台風の中を伊那小屋(現宝剣山荘)の破小屋を修理して仮夜を送らんとしたが果たせず,翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ,駒飼ノ池,濃ヶ池,将棊頭にわたり三三伍々に分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死した。この遭難記念碑は上伊那(郡)教育会の主唱によりこの自然石に刻まれた。
往古からの登山は熊笹をかき分け倒木や巨岩を避けて野営を重ね,その困難は計り知れぬものであった。たまたま中箕輪小学校の遭難は内外に大衝撃を与え宿泊施設の建設及び登山道整備が緊急不可欠の要望となった。これらが順次実現すると共に大正の中期からは心身の鍛錬道場として積極的に登山熱は高揚した。 (宮田村誌より)
近年,この遭難が「聖職の碑」として新田次郎氏により小説化された。』
小説「聖職の碑(いしぶみ)」によると当時の長野県の教育界には、白樺派の影響を受けた教師たちによる、生徒の自主性を重んじる理想主義的教育と、明治以来の実践主義教育との対立があり、赤羽校長は実践主義教育の立場から反対を押し切って例年通りの登山を実施します。
計画は周到に進められましたが、飯田測候所も予想できなかった台風による暴風雨にさらされながら、ようやくたどりついた小屋は他の登山者によって焼失しており、11名が遭難死するという悲惨な結末を迎えます。
赤羽校長は自分の防寒シャツを生徒に与えるなど、懸命の努力をしますが、やがて力尽きます。遭難は人知を超えた原因によるものとされ、「聖職の碑」という題名から察せられるとおり、小説は赤羽校長の教育者としての側面に光を当て、彼の行為を肯定的に捉えています。
一方、子を失った父兄の痛みは計り知れず、学校に対する怒りは大きかったようです。しかし事故から12年後、赤羽校長の残した教えを守るべく駒ヶ岳登山は再開され、現在は他の中学校にも広がって登山人数は2000人を超える、と記されています。引率者をはじめ、関係者の努力は並々ならぬものがあったことでしょう。
この遭難は生徒たちの命を奪った悲惨な人為的事故という面と、懸命に救おうとして職に殉じた教師の行動という二つの側面を持っていて、どちらに重点を置くかによって異なる様相を見せます。
また、この事故は教育に伴うリスクという、現代にも通じる問題を投げかけています。世に絶対の安全はないわけで、教育にリスクをどこまで許容すべきかは難しい問題です。近年、リスクに対する許容度が小さくなる傾向が見られますが、許容度が小さくなりすぎると、教育を制約し、後々に問題を残すことになりましょう。
(「聖職の碑」は後年、映画化されました)
95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。
4時間ほどで樹林帯を抜け標高約2600mの稜線に出ますが、ここから先の3時間は風を遮るものがほとんどない稜線の道です。遭難者の多くはこの稜線上で亡くなりました。稜線に出てから1時間ほど歩くと遭難記念碑があり、花が供えられていました。碑の後ろには説明文があります。
『遭難記念碑(聖職の碑)
大正2年(1913)8月26日中箕輪尋常高等小学校の教師,児童,同窓生37名は急変した台風の中を伊那小屋(現宝剣山荘)の破小屋を修理して仮夜を送らんとしたが果たせず,翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ,駒飼ノ池,濃ヶ池,将棊頭にわたり三三伍々に分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死した。この遭難記念碑は上伊那(郡)教育会の主唱によりこの自然石に刻まれた。
往古からの登山は熊笹をかき分け倒木や巨岩を避けて野営を重ね,その困難は計り知れぬものであった。たまたま中箕輪小学校の遭難は内外に大衝撃を与え宿泊施設の建設及び登山道整備が緊急不可欠の要望となった。これらが順次実現すると共に大正の中期からは心身の鍛錬道場として積極的に登山熱は高揚した。 (宮田村誌より)
近年,この遭難が「聖職の碑」として新田次郎氏により小説化された。』
小説「聖職の碑(いしぶみ)」によると当時の長野県の教育界には、白樺派の影響を受けた教師たちによる、生徒の自主性を重んじる理想主義的教育と、明治以来の実践主義教育との対立があり、赤羽校長は実践主義教育の立場から反対を押し切って例年通りの登山を実施します。
計画は周到に進められましたが、飯田測候所も予想できなかった台風による暴風雨にさらされながら、ようやくたどりついた小屋は他の登山者によって焼失しており、11名が遭難死するという悲惨な結末を迎えます。
赤羽校長は自分の防寒シャツを生徒に与えるなど、懸命の努力をしますが、やがて力尽きます。遭難は人知を超えた原因によるものとされ、「聖職の碑」という題名から察せられるとおり、小説は赤羽校長の教育者としての側面に光を当て、彼の行為を肯定的に捉えています。
一方、子を失った父兄の痛みは計り知れず、学校に対する怒りは大きかったようです。しかし事故から12年後、赤羽校長の残した教えを守るべく駒ヶ岳登山は再開され、現在は他の中学校にも広がって登山人数は2000人を超える、と記されています。引率者をはじめ、関係者の努力は並々ならぬものがあったことでしょう。
この遭難は生徒たちの命を奪った悲惨な人為的事故という面と、懸命に救おうとして職に殉じた教師の行動という二つの側面を持っていて、どちらに重点を置くかによって異なる様相を見せます。
また、この事故は教育に伴うリスクという、現代にも通じる問題を投げかけています。世に絶対の安全はないわけで、教育にリスクをどこまで許容すべきかは難しい問題です。近年、リスクに対する許容度が小さくなる傾向が見られますが、許容度が小さくなりすぎると、教育を制約し、後々に問題を残すことになりましょう。
(「聖職の碑」は後年、映画化されました)
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