12月14日付朝日新聞大阪版は社会面トップで知的障害者、精神障害者が裁判員候補者に選ばれた場合の対応を取り上げています。障害自体は裁判員を辞退する理由にならないとした上で、「知的障害の息子に通知が届いた。傷つけずに辞退させる方法はないか」「通知の意味がわかるような状態ではない。辞退したい」「精神障害がある身内の家に通知が届いた。どうしたらいいか」など、寄せられた相談を紹介しています。
記事は「障害によって職務に支障がでないよう、できる限り配慮する」という最高裁の方針、「健常者が気づかないことに気づき、裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ」という仁科豊弁護士の話を載せ、障害者の参加を呼びかける内容です。記事は漢字を読むことを苦手とする人も対象にしているようで、記事全文にふりがなをつけてあります。
国民の8割がなりたくないという裁判員ですが、敢えてここで障害者に参加を呼びかけるのは、裁判員制度は司法に国民主権を実現するものであるという理念を推進する意図があるためだと考えられます。確かに、すべての国民が司法に参加し民主主義を実現するという理念は大変立派なものに見えます。
しかしここにあるのは裁判員制度の理念を実現する形式に対する配慮ばかりで、裁判の最も重要な機能、すなわち公正・公平な裁判ができるのかという視点がまったくありません。また候補に選ばれた障害者が面接に出向いてから外される場合には本人が一層傷つくことも考えられます。参加することに意義があるというのはオリンピックの話です。
最高裁は障害者を裁判官の隣に座らせて補足説明をすることを検討中ということですが、限られた時間を説明に使えば評議が遅れ、審理を尽くさず判決が出される危険が増加します。裁判員制度のモデルケースとして審理を5日間で終えた広島女児殺害事件の一審判決は広島高裁で「一審は審理を尽くしておらず違法」として差し戻されました。説明に時間をかければ審理がさらに不十分になります。そのため被告の利益が損なわれる可能性を無視してよいのでしょうか。
知的障害者、精神障害者と言っても範囲が広く、一概に言うことはできませんが、補足説明によって正確な理解ができるとは限らないと思います。しかし判決は場合によっては被告の命に関わります。また被告は無実かもしれません。裁判員が十分に理解しないまま判決を出すということが現実に起きないと言えるでしょうか。健常者の場合でも理解度には個人差があり、果たして全員が正確に理解できるのかという懸念があります。国民参加という形だけ整えても、正確な理解によって審理を尽くすという機能がおろそかになっては意味がありません。
障害者の参加によって裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ、という仁科豊弁護士の話ですが、逆に、障害者の参加によって真実から遠ざかることもあり得るのではないでしょうか。いずれにせよ実際には6名の中に障害者が含まれるかどうかはクジによる偶然であり、被告は偶然性に左右されることになります(もともと裁判員制度は選ばれる6名のばらつきによる偶然性を無視しています)。知的障害者、精神障害者は約300万人であり、6名の中に含まれる可能性は無視できるレベルではありません。
裁判は被告の心理や人間関係など、背景の理解をも要求される高度に知的な作業です。漢字が読めない人にとっては負担が大き過ぎる場合もあるでしょう。この記事などによって参加を煽られながら、実際には選任をほとんど拒否されることになっても問題です。
障害者の裁判員としての参加は様々な問題が予想され、この記事のように単純に推し進めてよいものか疑問です。記事は裁判員制度の理念ばかりを重視し、他の視点を欠いています。裁判そのものより理念が重要という考えはまさに本末転倒です。たいていの理念は不完全なものであり、ひとつの理念を無条件に適用できるというのは子供の考えです。マルクス主義、あるいは旧ソ連や北朝鮮の政治思想に対する認識の誤りも同じような偏狭な思考であったのかもしれません。
朝日は約1年前にも理念に偏った裁判員制度擁護論を掲載しています。朝日には民主主義とか国民主権という理念に抵抗し難い体質があるようです。
記事は「障害によって職務に支障がでないよう、できる限り配慮する」という最高裁の方針、「健常者が気づかないことに気づき、裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ」という仁科豊弁護士の話を載せ、障害者の参加を呼びかける内容です。記事は漢字を読むことを苦手とする人も対象にしているようで、記事全文にふりがなをつけてあります。
国民の8割がなりたくないという裁判員ですが、敢えてここで障害者に参加を呼びかけるのは、裁判員制度は司法に国民主権を実現するものであるという理念を推進する意図があるためだと考えられます。確かに、すべての国民が司法に参加し民主主義を実現するという理念は大変立派なものに見えます。
しかしここにあるのは裁判員制度の理念を実現する形式に対する配慮ばかりで、裁判の最も重要な機能、すなわち公正・公平な裁判ができるのかという視点がまったくありません。また候補に選ばれた障害者が面接に出向いてから外される場合には本人が一層傷つくことも考えられます。参加することに意義があるというのはオリンピックの話です。
最高裁は障害者を裁判官の隣に座らせて補足説明をすることを検討中ということですが、限られた時間を説明に使えば評議が遅れ、審理を尽くさず判決が出される危険が増加します。裁判員制度のモデルケースとして審理を5日間で終えた広島女児殺害事件の一審判決は広島高裁で「一審は審理を尽くしておらず違法」として差し戻されました。説明に時間をかければ審理がさらに不十分になります。そのため被告の利益が損なわれる可能性を無視してよいのでしょうか。
知的障害者、精神障害者と言っても範囲が広く、一概に言うことはできませんが、補足説明によって正確な理解ができるとは限らないと思います。しかし判決は場合によっては被告の命に関わります。また被告は無実かもしれません。裁判員が十分に理解しないまま判決を出すということが現実に起きないと言えるでしょうか。健常者の場合でも理解度には個人差があり、果たして全員が正確に理解できるのかという懸念があります。国民参加という形だけ整えても、正確な理解によって審理を尽くすという機能がおろそかになっては意味がありません。
障害者の参加によって裁判員全体として真実に近づくこともあるはずだ、という仁科豊弁護士の話ですが、逆に、障害者の参加によって真実から遠ざかることもあり得るのではないでしょうか。いずれにせよ実際には6名の中に障害者が含まれるかどうかはクジによる偶然であり、被告は偶然性に左右されることになります(もともと裁判員制度は選ばれる6名のばらつきによる偶然性を無視しています)。知的障害者、精神障害者は約300万人であり、6名の中に含まれる可能性は無視できるレベルではありません。
裁判は被告の心理や人間関係など、背景の理解をも要求される高度に知的な作業です。漢字が読めない人にとっては負担が大き過ぎる場合もあるでしょう。この記事などによって参加を煽られながら、実際には選任をほとんど拒否されることになっても問題です。
障害者の裁判員としての参加は様々な問題が予想され、この記事のように単純に推し進めてよいものか疑問です。記事は裁判員制度の理念ばかりを重視し、他の視点を欠いています。裁判そのものより理念が重要という考えはまさに本末転倒です。たいていの理念は不完全なものであり、ひとつの理念を無条件に適用できるというのは子供の考えです。マルクス主義、あるいは旧ソ連や北朝鮮の政治思想に対する認識の誤りも同じような偏狭な思考であったのかもしれません。
朝日は約1年前にも理念に偏った裁判員制度擁護論を掲載しています。朝日には民主主義とか国民主権という理念に抵抗し難い体質があるようです。
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