長い歴史を持つ宗教は実社会と軋轢が生じないようにさまざまな改良が加えられており、害は比較的少ない。葬式仏教といわれるように、改良しすぎて毒にも薬にもならない、サービス業のようになった宗教もあるが、本来の有益性を持つ宗教もまだある。「迷える子羊」(私自身はこんな風に呼ばれたくないが)に生きる指針を与えたり、社会の価値観になじめない者を独自の価値観をもつ世界に導いてやすらぎを与えたりする。
キリスト教は、富めるものより貧しきものが救われるとし、現実社会の価値の逆転を図った(ニーチェ)。実社会で不幸な者が宗教の世界では幸福になることもあり得る。そして多数の支持を集めた。しかしすべての宗教が無害というわけでは決してない。戦争という最大の害悪の原因にさえもなり得る。
若者は「自分はなぜ存在するのか」とか「どう生きるべきか」などという問いを持つのが普通である。戦前の学生の多くは答えを哲学に求めた。そこに答えが見つかったどうかは知らない。
戦後もしばらくはこの風潮が残った。もっとも哲学は一種のアカデミックなステータスの意味もり、また役に立たない学問ほど高級とする風潮もあった。哲学書を手に持って女にもてようと思ったわけだが、そんなものは役に立つわけがない。私のドイツ哲学の本は中身はきれいなのに、外側はボロボロになった。
やがて哲学や思想が色褪せ、若者は興味を持たなくなる。ところが若者の「問い」はなくならない。一部の宗教やカルトはそこにつけ込む。若者の「問い」に対して、もっともらしい答えを提供する。便利であるが、それは虚の世界である。そして経験や知識に乏しい若者はその不合理さに気づかないことが多い。
アメリカの公立学校では進化論を教えるか、創造説(インテリジェント・デザイン論、ID論などと名前を変えている)を教えるかで、数十年の間、争われてきた。アメリカは宗教の影響が強い特殊な社会なのだ。幸いわが国では進化論を教えるのに障害はない。しかし、進化論が十分理解されているだろうか。
私自身、学校で簡単に習った進化論はあまり印象がない。30年前の、ドーキンスの「利己的遺伝子」以後の修正された進化論に、世界観が変わるほどの刺激を受けた。
自然淘汰(自然選択)が生物界の多様性を作り上げたという進化論は単に生物学の理論にとどまらない。進化論はこの世界が誰かの意思で造られたという考えを明確に否定する。これは神およびその類似物の否定につながる。
進化論を理解すれば、「ヒトは特別の存在ではない」ということがわかるし、「自分はなぜ存在するのか」といった問いの答えはナンセンスだということも分かる。なぜなら、何者かが意図して世界を作ったわけではないからだ。誰がデザインしたわけでもなく、勝手に出来上がった世界なのだ。
ここに神や超越者の入り込む余地はない。進化論をしっかり教育にとりいれて、理解させる努力をすれば、宗教やカルトに取り込まれる若者を少なくできるだろう。また安定した世界観を築くのにも役立つだろう。現在の世界に於いて進化論の持つ意味は大変大きい。それゆえ、進化論は生物の授業だけではなく、社会など他の必須教科でも教え、全員に理解させるべきだと思うのである。
キリスト教は、富めるものより貧しきものが救われるとし、現実社会の価値の逆転を図った(ニーチェ)。実社会で不幸な者が宗教の世界では幸福になることもあり得る。そして多数の支持を集めた。しかしすべての宗教が無害というわけでは決してない。戦争という最大の害悪の原因にさえもなり得る。
若者は「自分はなぜ存在するのか」とか「どう生きるべきか」などという問いを持つのが普通である。戦前の学生の多くは答えを哲学に求めた。そこに答えが見つかったどうかは知らない。
戦後もしばらくはこの風潮が残った。もっとも哲学は一種のアカデミックなステータスの意味もり、また役に立たない学問ほど高級とする風潮もあった。哲学書を手に持って女にもてようと思ったわけだが、そんなものは役に立つわけがない。私のドイツ哲学の本は中身はきれいなのに、外側はボロボロになった。
やがて哲学や思想が色褪せ、若者は興味を持たなくなる。ところが若者の「問い」はなくならない。一部の宗教やカルトはそこにつけ込む。若者の「問い」に対して、もっともらしい答えを提供する。便利であるが、それは虚の世界である。そして経験や知識に乏しい若者はその不合理さに気づかないことが多い。
アメリカの公立学校では進化論を教えるか、創造説(インテリジェント・デザイン論、ID論などと名前を変えている)を教えるかで、数十年の間、争われてきた。アメリカは宗教の影響が強い特殊な社会なのだ。幸いわが国では進化論を教えるのに障害はない。しかし、進化論が十分理解されているだろうか。
私自身、学校で簡単に習った進化論はあまり印象がない。30年前の、ドーキンスの「利己的遺伝子」以後の修正された進化論に、世界観が変わるほどの刺激を受けた。
自然淘汰(自然選択)が生物界の多様性を作り上げたという進化論は単に生物学の理論にとどまらない。進化論はこの世界が誰かの意思で造られたという考えを明確に否定する。これは神およびその類似物の否定につながる。
進化論を理解すれば、「ヒトは特別の存在ではない」ということがわかるし、「自分はなぜ存在するのか」といった問いの答えはナンセンスだということも分かる。なぜなら、何者かが意図して世界を作ったわけではないからだ。誰がデザインしたわけでもなく、勝手に出来上がった世界なのだ。
ここに神や超越者の入り込む余地はない。進化論をしっかり教育にとりいれて、理解させる努力をすれば、宗教やカルトに取り込まれる若者を少なくできるだろう。また安定した世界観を築くのにも役立つだろう。現在の世界に於いて進化論の持つ意味は大変大きい。それゆえ、進化論は生物の授業だけではなく、社会など他の必須教科でも教え、全員に理解させるべきだと思うのである。
象の鼻が長くなったり、キリンの首が長くなったりする様な変異は理解できますが、種の壁を超えた変異が理論の根幹を成す進化論は、ちょっと理解し難いからです。
そんなダーウィンの進化論が、約150年経った今でも支持されているのは、他に人類の起源を説明できる理論がなかったからです。
しかし最近、クローン技術で生命を創造することができるようになり、新たに知的設計論という新たな理論が台頭するきっかけになりました。
そんな中、「クローン人間は倫理的に問題である」という団体をよくみかけます。しかし、よく考えてみると、私達の祖先がクローン技術で地球に誕生したというのに、それを倫理的に問題というのはちょっと本末転倒という気がします。
ダーウィンの進化論が発表されて150周年の節目の年を迎える2009年に、人類の起源を巡る理論についての新しい動きがあるのではないでしょうか。
ドーキンスの「遺伝子の川」はこの問題の答になると思います。読んでから相当時間が経つので、厳密ではありませんが。
知的設計論(インテリジェントデザイン、ID)は昔からの創造説の名前を現代的に変えただけで中身は変わらないという評価をされています。デザイナーは神です。
それと宗教についてですが、一神教のグループであるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3兄弟は、現在に至るまで人と人が殺し合う大きな要因となってきました。多くの人を救ったのも事実でしょうが、それに匹敵するくらいの人が宗教の名の下に死んでいます。人類がこの「病」を乗り越えられなければ必ず衰退すると思います。宗教が進化したかどうかは、科学をどれほど取り込むことができるかにかかっているのではないでしょうか。現時点ではとても進化したとは言えないように見えます。宗教指導者にとっては自分の立場と矛盾するので死活問題となるでしょうから。この問題を考えていると、多神教である我々の方が進歩しているのだと思えてきます。
でも現在まで進化論を根底から否定する事実は発見されていませんし、これからも多分発見されないだろうと私は思っています。
宗教の影響力を減らすには教育の普及が効果的だと思いますが、宗教側の抵抗は根強く、政権を倒す以上に難しく、長い時間が必要でしょう。
最近、ドーキンスは宗教に正面から攻撃しています。ご参考までに下記のインタビュー記事をご覧下さい。彼の勇敢さはたいしたものです。
http://return0.dyndns.org/d/2006/10/17#s1
引用のご紹介ありがとうございました。勉強になります。意識についての上記意見が非常に重要だと思いました。19世紀、人間機械論が出たとき、生物の構造が機械的に説明できるという幻想が生まれましたが、それが打ち砕かれ神秘主義がはびこりました。コンピュータが開発されたときも人間の意識が電気信号で説明できるのではないかという期待がありましたが、それほど単純なものではないことが明らかになりつつあります。しかし、これらの未解決の問題と宗教は全く別の範疇の話であり、科学の否定は宗教の肯定にはなりません。「なぜ宗教が説明できるのか」という根本的な問いが発せられるべきと思います。
ただし、宗教を否定すると感性や倫理さらには文化一般の低下が生じるのではないか、という疑問がよく示されます。実際には、一神教三兄弟がなくなれば人間社会の文化・モラルは一気にレベルアップすると確信していますが、拠り所がなくなる危険性を感じる人は多いはずです(皆がニーチェというわけにはいかないので)。そこで、ある限定をつけるとすれば、知性の面における宗教の否定ということになるのではないでしょうか。知性はあくまでも科学的な考え方を拠り所にし、迷信(宗教)を排除するということです。
一方、人間は合理性のみで生きていくことはできないとも思います。芸術や自然に対する感性は科学的に説明する必要がない領域と思うのです。これは一種の合理性です。例えば、人間の勘に頼った物づくりや芸術創造行為などは、それを残しておいた方が効率が良いし、精神衛生上健全な範囲だろうと思うわけです。この辺はバランス感覚ではないでしょうか。
そのためには、肯定にせよ否定にせよ宗教に基づいた西洋哲学の系譜ではなく、科学に対応した新しい哲学が必要になってくるかもしれません。感性と知性の領域を人間が生きる上でより自然に、より合理的に、より楽しく説明しうる体系です。
話がずれてしまいましてすみません。これからも興味深い記事を楽しみしております。