中欧の風光明媚な場所に行くと、ブラームスの足跡をしばしば見かける。百年以上前にブラームスがヴァカンスを過ごして作曲に集中した場所の多くは今でも滞在型の旅行者の目的地や高級別荘地となっている。その一つミュンヘン郊外のシュタウンベルガーゼーは、ドイツの裕福な層が居を構えるところとして最も有名である。ブラームスは、1880年にミュンヘンにヴァーグナー楽劇の観劇の際、この湖を訪れて思っていた以上に気に入り、三年後に再びやって来て夏の間の四ヶ月近くをここで過ごす。そしてこうした人脈がルートヴィヒ二世から名誉を授かる切っ掛けとなった。現在も二階に間借りしたその建物は湖畔に残り、湖畔に石碑が建てられている。
そこでは三曲が作曲されたとあるが、ハ短調とイ長調の二曲の弦楽四重奏曲の各々作品51-1,2を完成して、歌曲作品59を作曲後にそこの湖に突き出るパビリオンで初演した。ハイドンの主題による連弾曲作品56bも作曲完成した。第一番の四重奏曲は長年にわたって試みていただけあって、ミュンヘンの宮廷劇場のメンバーが試演する中で完成したとあり、作曲と云うよりも校正に近かったかもしれない。交響曲第一番ハ短調の生みの苦しみの先例である。作品51の両曲とも友人でヴィーンの皇帝付き医師テオドール・ビルロート博士に献呈されている。しかし、このイ長調の曲の主題には、ヴァイオリニスト・ヨアヒムのFAEと自身のFAFと云う「自由しかし孤高」と「自由しかし喜ばしい」の音名が与えられており、明らかに途中で心変わりをしたようである。
ヴィオラを弾くビルロート博士にブラームスが書いた手紙には、「君が夜な夜な想像力を羽ばたかせようと云うならば、二つ目の曲の方が良いだろう。」と記した。このイ長調の曲は、ハ短調のものとは打って変わって、同じ作曲家の初めの二つの交響曲に相当するような気分の違いがある。この曲において、この作曲家の一般的で殆んど俗な気分は、ここではファンタジーと云う言葉で示されるような「明白に定義された情緒」となって、あくまでも認知された閉じた世界として描かれている。その音楽の歩みには、知らない町外れまで散歩しに行っても、必ずや湖畔の道に沿って戻ってくると云う様にオリエンテーリングに欠く事が無い。そして結構な水を湛えた湖が横に広がり、遥かに続く 有 限 の風景を写し出している。この認知を危うくしない作曲手法や様式が新古典主義と云うものであろう。
嘗てのビルロート博士の夏季の邸宅などに泊まりブラームスの訪れた世界を辿ると、それは、その音楽の風景のように風景画家であろうとも決して容易に切り取り出す事の出来ない情景であり、風景が作曲家に投影された感興であって、その作曲技法に反射する造形である事が知れる。あえて云えば、そこの雰囲気は、ヴォルフガングゼーやテュナーゼーやシュタウンベルガーゼーの湖面に時折反射する対岸の緑や青い空そして高嶺に反射する雪である。それらは、紛れも無く作曲家の心の鏡に映し出されて固定されている。しかしそれが歴史の中で心象風景と云うような閉じたものにならず、今でも一般性を持ちえているのがこの作曲家の作品の魅力である。
参照:影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23
そこでは三曲が作曲されたとあるが、ハ短調とイ長調の二曲の弦楽四重奏曲の各々作品51-1,2を完成して、歌曲作品59を作曲後にそこの湖に突き出るパビリオンで初演した。ハイドンの主題による連弾曲作品56bも作曲完成した。第一番の四重奏曲は長年にわたって試みていただけあって、ミュンヘンの宮廷劇場のメンバーが試演する中で完成したとあり、作曲と云うよりも校正に近かったかもしれない。交響曲第一番ハ短調の生みの苦しみの先例である。作品51の両曲とも友人でヴィーンの皇帝付き医師テオドール・ビルロート博士に献呈されている。しかし、このイ長調の曲の主題には、ヴァイオリニスト・ヨアヒムのFAEと自身のFAFと云う「自由しかし孤高」と「自由しかし喜ばしい」の音名が与えられており、明らかに途中で心変わりをしたようである。
ヴィオラを弾くビルロート博士にブラームスが書いた手紙には、「君が夜な夜な想像力を羽ばたかせようと云うならば、二つ目の曲の方が良いだろう。」と記した。このイ長調の曲は、ハ短調のものとは打って変わって、同じ作曲家の初めの二つの交響曲に相当するような気分の違いがある。この曲において、この作曲家の一般的で殆んど俗な気分は、ここではファンタジーと云う言葉で示されるような「明白に定義された情緒」となって、あくまでも認知された閉じた世界として描かれている。その音楽の歩みには、知らない町外れまで散歩しに行っても、必ずや湖畔の道に沿って戻ってくると云う様にオリエンテーリングに欠く事が無い。そして結構な水を湛えた湖が横に広がり、遥かに続く 有 限 の風景を写し出している。この認知を危うくしない作曲手法や様式が新古典主義と云うものであろう。
嘗てのビルロート博士の夏季の邸宅などに泊まりブラームスの訪れた世界を辿ると、それは、その音楽の風景のように風景画家であろうとも決して容易に切り取り出す事の出来ない情景であり、風景が作曲家に投影された感興であって、その作曲技法に反射する造形である事が知れる。あえて云えば、そこの雰囲気は、ヴォルフガングゼーやテュナーゼーやシュタウンベルガーゼーの湖面に時折反射する対岸の緑や青い空そして高嶺に反射する雪である。それらは、紛れも無く作曲家の心の鏡に映し出されて固定されている。しかしそれが歴史の中で心象風景と云うような閉じたものにならず、今でも一般性を持ちえているのがこの作曲家の作品の魅力である。
参照:影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23
感興と云う言葉が適当と気がつきました。そうですね。これらの交響曲も、知らない情景のなかへ遊びに出かけるような感じですね。第一番には無い彷徨がありますね。
湖畔の写真を見ながら思い起こしてみるのもなかなかいいですね。
私も行ってみたいです。
また、作曲家の中年以降の作なので十代の青年には、理解しにくい風情がありますからね。
これはブラームスの本質的部分を言い当てた言葉という気がします。ブラームスは、細部を取り上げると意外なほど大胆な和声法やリズム技法を用いているけれど、全体としては明快な「古典的形式性」を保っている印象を与えるところが神業で、小生はいつもマネ(遠近法の破壊と、色彩による古典的量感維持のぎりぎりのバランス)を思い出します。
個人的にはブラームスの緻密過ぎる書法は息が詰まって小生には高級過ぎ、弦楽四重奏も苦手で、若い時の少し風通しの良い弦楽六重奏1番やピアノ・ソナタの方が好きです。どうも映画音楽に多用される安手のメランコリー節が精緻な書法で隠蔽されているのではという疑いを持っています。
>風景が作曲家に投影された感興であって、その作曲技法に反射する
余り作曲地の風景で作品を説明するのは趣味ではないのですが、行ってみるとなるほどと思うことも多く、やはり楽しいですね。風景が作品の理解に本質的に役に立つと思う唯一の例は、私にはヴェーベルンです。冷たく澄んだ空気の中でキラリと輝くアルプスの切り立った頂きのイメージは、「ダイヤモンド」等の比喩よりも遥かに彼が目指したものを直感的に理解させてくれると思います。
トラウンキルヘンで偶然ヴォルフの滞在場所に出くわした時は、山影・水影のニュアンスと明るい開放感の同居に、何だか納得行くような行かないような奇妙な気分になり考えてしまいました。
何年か前に交響曲の2番を演奏したことがあって、それ以来ブラームスは好きな作曲家の一人です。
いつか私も、ヨーロッパに出かけて、音楽家の足取りを辿る旅がしてみたいです。
それにしても、きれいな所ですね。
簡単に言えば団子になるような演奏が多くて、同じ団子なら皮の層の数が重なった方が美味いと言うことでしょう。反対にバルビローリ指揮の評判の悪いブラームス第二の録音を聞きましたら、まるで和声をかみ合わせることなくブルックナーのように演奏しています。
だから遠近法は、垂直方向だけでなく勿論のこと水平方向の距離感でもあります。シンコペーション付きのメランコリー節を私も苦手で敬遠していたのも、上の両方向へ流れる演奏解釈が災いしていたようです。一時レ・ミュジシャンの演奏がもてはやらされていたのもこの辺に事情がありそうです。「隠蔽」はこの意味で的を獲ていますね。
言葉足らずかもしれませんが、結局はブラームスの人間性は周知の通りですが、当時アカデミズムとか批判された技法は職人芸以上の超一級の芸術であった事が分かります。
ブラームスの少なくとも交響曲、協奏曲や弦楽四重奏曲の二番は、風通しを良くして戸外の情景をイメージさせるのは、遠近法の使い方でしょうか?また新たなパースペクティヴが生まれました。
ヴェーベルンの風景は、書きたい事があるのでまた改めて。ヴォルフとトラウンゼーですか。なるほど。カンマーグートは良いです。
ブラームスと自然は直ぐに結びつかないのですが、風光明媚な場所のハンターです。それも我々が一般に想像するような自然との係わり合いでないのが面白いところです。
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
ここもミュンヘンの郊外とは言え、夏は緑と日差しがあって、作曲家が言うように思いがけず素晴らしいところです。
RSSリーダーに登録しておきましたので、また宜しく。