デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



レンブラント「ヨハネス・ユテンボハールトの肖像」(1633)、アムステルダム国立美術館

グロツィウスという法学者の名前をご記憶の方は多いと思う。
私は世界史を習う学科に進まなかったので、グロツィウスの名前も現代社会のテスト対策のために少し覚えた程度だったが、オランダで見た上のユテンボーハールトの肖像と、かつて名前を少しだけ覚えたグロツィウスが深くつながっていたこと、オランダが江戸幕府と貿易を行なっていたこと、幕末の志士たちが国際法に目を向けそれを後ろ盾にして自分たちなりに躍起したことなどを思うと、日本人としてこの絵の前に立つことに意義を覚えるのも決して悪くないように思った。

こちらでオランダが八十年戦争のなかで共和国を樹立させ、新たな独立を勝ち取るうえでの後ろ盾に宗教改革の勢力があったことを述べたが、当時のオランダ国家がほぼ改革派のカルヴァン派であったとはいえ、カルヴァン派のなかで対立がなかったわけではない。当たり前のことだが、同じ宗派とはいえ、カルヴァン派という旗の下の一枚岩ではなかった、とどのつまり宗派を構成しているのが人間である以上、どこの国であろうが対立や摩擦が生れるのである。レンブラント「ヨハネス・ユテンボハールトの肖像」はそのことを考えさせてくれるきっかけにもなる一枚である。
76歳のユテンボハールトの肖像画は1633年に描かれたわけだが、1648年がミュンスターの和約締結なので、肖像画が描かれた頃はまだ八十年戦争が継続中である。
ユテンボハールトはカルヴァン派の著名な説教師で、1625年に総督に就任したフレデリック・ヘンドリックの幼少の頃の家庭教師を務めていた。フレデリック・ヘンドリックの異母兄は総督マウリッツ(オラニエ公)。フレデリック・ヘンドリックは、マウリッツの次に総督に就任する人物である。

肖像画のユテンボーハールトは1610年に改革派内の穏健派の立場であることを表明する『意見書(「異議申し立て」とも)』という宗教的小冊子を発表し、広く知られるようになった。改革派教会内部にはその意見書派と厳格派という二つ派閥が対立していた。どういったことで対立していたかを書くと長くなるので割愛するが、その対立で国が二分されるほどの政治問題に発展した。ちなみに意見書派は厳格派への妥協とカトリックのスペインと平和共存を志向していた。
総督マウリッツは八十年戦争の功労者であり中心的人物であった。そのマウリッツが1610年代に入ってスペインとの戦争を続行し厳格派への支持を明確にすると、意見書派の説教師たちはすべての職を追われてしまう。
ユテンボーハールトはカトリック都市アントウェルペンに亡命して秘密裏に意見書派の組織を立て直す。1625年にマウリッツが没し、フレデリック・ヘンドリックが総督に就任したのを機にユテンボーハールトはデン・ハーグに戻って神学者および改革派教会の政治家という地位を回復したのだった。
肖像画のユテンボーハールトは、いわばごたごたが終わったあとの姿なのである。絵の中で彼はプロテスタントの説教師として誠実な告白を示すポーズに従って左手を心臓の上に置いている。中央右に描かれているのは聖書である。
この絵は何度も模写され大好評を博し、レンブラントによる別のユテンボーハールトが描かれたエッチングでの肖像もつくられた。そのエッチングでの肖像の方には、学校の社会の時間で習う国際法の父グロツィウス(ヒューホー・デ・フロート)によるラテン語の詩が記入されている。グロツィウスは、当時は意見書派の擁護者として有名でユテンボーハールトを称えていたのである。(ちなみにグロツィウスは1618年に終身刑の判決を受けるがフランスへの脱出に成功し、終生その地にとどまった。)

外国の美術館で目立つところに展示されてはいるものの「誰だそれ?」といったことってあるように思うのだ。中心的テーマがはっきりしないようなことを紆余曲折に長々と書いたが、そのような肖像画に描かれた人物の略歴をたどっていくと、思わぬつながりが見出すことができたりする。大方、私の中の勝手なこじつけではあるが(笑)。

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