デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『アンネの日記(増補新訂版)』深町眞理子訳(文藝春秋)を再読した。実のところアンネ・フランクの家に関する一連の記事を書き始めた時点で、かなりの分量を読んでいた。
高校のころに読んだときとは異なり、こんなエピソードあったっけか?と思えるような内容が少なくなかった。それは単に私が『アンネの日記』の内容を忘れているだけのこともある。また当時は前の版(たしか決定版でもなかった)での読書だから、思い出せるはずが無いエピソードを増補新訂版で初めて目にした内容があってもおかしくはない。
「日記」は、13~15歳の感受性が強くて少し大人びていて表現力が豊かな少女の潜行生活の手記であることはいうまでもないが、彼女が将来文筆で身を立てたいという希望を持っていたことを考えると、やはり「日記」もいつか公開される事を見越した創作物として書かれた面があることを看過できないと今回は思った。(尤もこれは多かれ少なかれ、訳文の表現(日本語のそのものの印象)が影響している面もあるかもしれない。)
一般の15歳の少女はアンネではないが、アンネは15歳であったことには変わりない。彼女の葛藤の処理の仕方、自分への自信、自分を見つめ成長する力は、一般の少女が大きくなっていくプロセスの速度とあまり変わりないのかもしれないが、そのプロセスを表現する力はたゆまぬ勉強と観察眼、そして文章を書く上での構成について創造力を常に働かせた結果、非凡なものになったことは否めないであろう。もちろん、ときには支離滅裂な気持ちで書いてしまい前後不覚のような文もある。それはそれで書くという立場にあっての現実感を覚えさせているように思う。
子どもにこんな日記が書けるのか、と疑いの目で「日記」を読む人も少なからずいるかもしれない。しかし、あのマルセル・プルーストだって小学生の頃の作文でかなり老獪な文章を書いていたり、ピカソの子どもの頃に描いた漁師の肖像画のことなどを思い出すと、そこまで「日記」に対し不思議な気持ちを覚えなくなった。若くして大人が驚くようなものをこしらえてしまう人は少なからず存在している、と「日記」を再読し、改めて思った。

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