今日は、我が家の最初の娘が生まれた日である。26年前、私は25歳と10カ月で第1子を産んだので、私が生まれてから子どもを産むまでの年月と、その子供が生まれてから今日までの年月がだいたい同じになるという特別な誕生日とも言える。それは昭和60年、1985年の今日であり、今日のように天気がよかった。朝から病院に入ってしまった私には、外の気温はわからないが、出産後に窓から差し込む日差しがとても暖かったのを覚えている。今日は、その時生まれた赤ん坊は、婚約者と新居を見に行っていて、新生活への準備に忙しく、夫は仕事にでかけ、次女もどこかに遊びにいっているらしく、何の連絡もない。そこで、私には自由な時間が与えられたので、また車で出かけようかと思ったが、長女の誕生日に事故でも起こしたら大変だと思って、家でおとなしくしていることにした。家事も溜まっていて、家でやるべきことはありあまっている。
とはいえ、家事に専念できる性格でもないため、先週図書館で借りてきたイタリア人作家の小説「動かないで」の残りを読み終えた。
今日読んだ部分の内容は、奇しくも、主人公男性の長女の誕生場面であり、時を同じくしての、恋人の死の場面であった。そんなことから、私も長女が生まれた日の事を思い出し、世の中の夫婦からどのように赤ん坊が生み出されるものかを思い出した。
また、人の死というものがどういうものかも考えさせられた。
埋葬人がいう。「人は生きたように死ぬものです」
それから、若い女の死に際して「わからないですね」「死ぬっていうのは不当なことですよね」「それなのにまちがったことではない」という言葉もあり、そのとおりだと感じた。
この作品では、最初に主人公の男性の15歳の娘が交通事故で瀕死の状態になったところから物語が始まり、その子が生まれるまでの妻や恋人との生活の回想シーンが続くが、現在部分では、娘の病院に駆け込んできた妻の年齢は53歳であり、それは老けたおばあさんみたいな顔の人になっていたと書かれている。主人公自身も、自分が、嫌いな父のような姿になっているという場面があり、事実私たちも同じくらい老けてしまい、年月を経るということは、どうしようもなく、そういうことなのだと思った。人間はみな同じことを繰り返しているのか。
自分の言葉で書くと、何もかもが安っぽい表現になってしまうので、なんだか書きようがないのだが、恋愛だの日常生活だの仕事だの、人が背負って生きて行くものの重みとでもいおうか、とにかく読みごたえのある小説だった。
この小説は、原作者は1961年生まれで、マルガレート・マッツァンティーニという女性である。元は女優をしていたそうだ。この作品(“Non ti muovere”)は小説としては2作目だが、イタリア文学界の最高峰と言われるストレーガ賞をとっている。それだけの事はあると思う。これを原作とした「赤いアモーレ」という映画があるようだ。ぜひ見てみたい。
このような小説をきちんと日本語に翻訳してくれる方(泉典子氏)の役割にも感謝するばかりである。
自分が世の中の役にたつ仕事をしたいとすれば、こういう仕事にあこがれるが、翻訳などというものは外国語の苦手な私にはまったく無理だった話であり、いまさらあこがれたところでどうにもならないから、せっせと翻訳されたものを読むことにする。
意外に、外国文学はいいかもしれない。それは、図書館にいくと日本の現代小説は腐るほどあるが、それだけ篩にかかっていないのだ。なんでもかんでもある。だから、借りてみてがっかりさせられる本も少なくはない。それに対して外国文学の本は、猫も杓子も日本語の単行本になるわけではない。まず選ばれて翻訳されて本になっているのだから、それだけの価値のあるものが本になっているのではないかと思える。
この本に出会えたのも、小学生の時に出会った「ジャンニーノのいたずら日記」が発端だ。
50代にふさわしい本に出会えた運命に感謝する。
とはいえ、家事に専念できる性格でもないため、先週図書館で借りてきたイタリア人作家の小説「動かないで」の残りを読み終えた。
今日読んだ部分の内容は、奇しくも、主人公男性の長女の誕生場面であり、時を同じくしての、恋人の死の場面であった。そんなことから、私も長女が生まれた日の事を思い出し、世の中の夫婦からどのように赤ん坊が生み出されるものかを思い出した。
また、人の死というものがどういうものかも考えさせられた。
埋葬人がいう。「人は生きたように死ぬものです」
それから、若い女の死に際して「わからないですね」「死ぬっていうのは不当なことですよね」「それなのにまちがったことではない」という言葉もあり、そのとおりだと感じた。
この作品では、最初に主人公の男性の15歳の娘が交通事故で瀕死の状態になったところから物語が始まり、その子が生まれるまでの妻や恋人との生活の回想シーンが続くが、現在部分では、娘の病院に駆け込んできた妻の年齢は53歳であり、それは老けたおばあさんみたいな顔の人になっていたと書かれている。主人公自身も、自分が、嫌いな父のような姿になっているという場面があり、事実私たちも同じくらい老けてしまい、年月を経るということは、どうしようもなく、そういうことなのだと思った。人間はみな同じことを繰り返しているのか。
自分の言葉で書くと、何もかもが安っぽい表現になってしまうので、なんだか書きようがないのだが、恋愛だの日常生活だの仕事だの、人が背負って生きて行くものの重みとでもいおうか、とにかく読みごたえのある小説だった。
この小説は、原作者は1961年生まれで、マルガレート・マッツァンティーニという女性である。元は女優をしていたそうだ。この作品(“Non ti muovere”)は小説としては2作目だが、イタリア文学界の最高峰と言われるストレーガ賞をとっている。それだけの事はあると思う。これを原作とした「赤いアモーレ」という映画があるようだ。ぜひ見てみたい。
このような小説をきちんと日本語に翻訳してくれる方(泉典子氏)の役割にも感謝するばかりである。
自分が世の中の役にたつ仕事をしたいとすれば、こういう仕事にあこがれるが、翻訳などというものは外国語の苦手な私にはまったく無理だった話であり、いまさらあこがれたところでどうにもならないから、せっせと翻訳されたものを読むことにする。
意外に、外国文学はいいかもしれない。それは、図書館にいくと日本の現代小説は腐るほどあるが、それだけ篩にかかっていないのだ。なんでもかんでもある。だから、借りてみてがっかりさせられる本も少なくはない。それに対して外国文学の本は、猫も杓子も日本語の単行本になるわけではない。まず選ばれて翻訳されて本になっているのだから、それだけの価値のあるものが本になっているのではないかと思える。
この本に出会えたのも、小学生の時に出会った「ジャンニーノのいたずら日記」が発端だ。
50代にふさわしい本に出会えた運命に感謝する。