「人身事故で電車が止まった」
この出来事が、もう日常茶飯事のようになっており、またですかと思って、ただそれだけで、何も感じなくなっている。
電車が動かないと困る、迷惑だ、と思うだけで、それ以上のことは何も考えない。
自分に影響する不便さだけを感じるので、亡くなった人のことを深刻に考えたりしないのだ。
人身事故と言っても、事故を起こした本人が故意に行動した場合ばかりではなく、目の悪い人や、体調の悪い人が運悪く落ちてしまった場合もある。
だから、人の迷惑になるような死に方をするな、などと一概には言えない。
また、鉄道自殺をするような精神状況になってしまった本人は、どれだけ苦しい思いだったのかと思うと、責めることはできないだろう。
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今日、なぜかyou tube に、人身事故の後始末をしている動画が出て来た。もう10年も前のもので、大宮駅の事故だったようだ。コメントによれば、盲目の方が落ちてしまったらしい。
これを見ていたら、先日の人身事故について、私は全く何も考えていなかったなと言うことに気づいた。
ロマンスカーが走らない・・・という自分に影響することだけに思いを馳せていたのである。
でも、おそらく一人の命が消えていて、その後、たくさんの人が事故の処理に当たり、本当に大変だったのだ。電車の運転士さんや車掌さんや、駅員、その電車に乗っていたお客さん、事故現場の近くに居合わせた人々、救急の人、消防士・警察官、等々。 その方の家族・友人・知人等。
そのような人々に比べれば、私なんか何も影響を受けていないようなものである。
でも、これだけのことが起きて、多くの人が影響を受けたにもかかわらず、人身事故を起こした人がどういう経緯でそうなったのかは、まるで知る由もない。
もしかしたら、本当は、それを知るべきではないだろうか。
また、どうしてこういうことになったのか、少なからず影響を受けた人間は知る権利があるのではなかろうか。
その人が、どういう人生を送り、何を悩み、どうしてこの日にこんな行動を起こしてしまったんだろうか。
でも、それは知るよしもなく、ただ電車が数時間止まった、ダイヤが乱れた、ロマンスカーが走らなかった。
おしまい。 ということで済んで行く現代社会の日常である。