山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

マルメタピオカガエル

2008-09-13 21:52:18 | 日記
さらに、引き続き、愉快な仲間をご紹介します。
っても、ブログってのは、後で書いたのが上に載っているから、見る順番が逆になってしまいますけどね。

水族館にカエルがいろいろいました。
あっ、そうか、カエルってのは「水」に棲んでるんだな。
ちなみに、水族館は、池袋のサンシャイン水族館です。

このカエルだけは、一生懸命名前を覚えてきました。
マルメ、丸める?何かを丸める?じゃなくて「丸目」目が丸いのか?
タピオカ? ああ、あの食べ物のタピオカ?タピオカは結構好きだよ。
とまあ、そうやって、やっと「マルメタピオカ蛙」と覚えました。

ちょっと妙だけど可愛いです。
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ナマズ

2008-09-13 21:17:55 | 日記
コリドラスみたいな魚に引続き
こいつもまた、ひげがあって黒い、ナマズ~~~

このヒトも、あんまり動かなかったので、モデルになってくれました。
せっかくの好意なので、掲載しておきます。
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コリドラスみたいな魚

2008-09-13 21:09:09 | 日記
このブログの題名である「コリドラス」ですが、これは、ヒゲがあって、だいたい水底に棲んでいて、藻や苔を食しているお魚らしいです。
「らしい」なんてのも、ずいぶんとあやふやなことですが、私は実際にコリドラスを飼ったこともないし、コリドラスについてちゃんとした知識を持っているわけではありません。
そんなことでいいのかな~

ところで、今日は「水族館」に行ってきたのです。
友人に誘われて行ったんですが、私はひそかにコリドラスに会えるんじゃないかと期待していました。
でも、水槽に記された名前の中に「コリドラス」ってのはありませんでした。
コリドラスの仲間らしき魚はいたんですけど、小さかったりして写真に撮るのは無理でした。

そんな中で、ちょっと似ているのかなあ~と思ったのが、写真の魚です。
これは、結構大きかったですね。20cmくらいありました。コリドラスは、10cm以下というので、コリドラスではありません。
あんまり動かないから、性能の悪いケイタイのカメラで写すことができました。
シャッタースピードが異様に遅くて、普通の魚はみんなピンボケになっちゃうんですよね。
あんまり動かないってのは、怠慢な私のようでもありますね。

コリドラス風の魚で、赤くてきれいなのもいたんですよ。本当はそれを撮りたかったんですが、そいつは結構速く泳ぎまわっていて撮れませんでした。
そのほかにも、コリドラスってのは、地味な色でも水玉みたいのや、ちょっとした模様のあるのがあって、それなりにおもしろいヤツもいるようですが、こんな真っ黒なヤツしかいませんでした。

まあ、なんかの縁かと思うので、掲載しておきます。
このお魚の本当の名前は何かな~ お魚さん、知らなくてごめんね。
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誤解はつきもの

2008-09-13 20:23:12 | 日記
人に自分が思っているとおりのように理解してもらうというのは難しいものである。
私は、よく知人に、いかに昼ごはんの外食を安く済ませるかというようなことを話したりしている。
それで、サイゼリアだのガストだのマクドナルドなどの名前を出している。
1000円もかかっちゃうと高いというようなことも言っている。
しかし、それはあくまでも、平日の会社の昼休みの話であって、休日にどこかに出かけて食べる昼ごはんのことではないのだ。
そういうときは、1500~2000円くらいは当然かかるし、むしろ、そのくらいかけなければ雰囲気のよい店でおいしいものを食べることはできないだろう。
だが、休日に一緒に出かけた友人は、「この店はおいしいけど高いのよ。このくらいの金額だすことできる?」と店の前で聞いてきたのだ。
その店のランチは1600円だった。
その人が貧乏だからそう聞いたわけではない。そのひとは私が毎日の外食代を低く抑えているから、その程度の金額は予算を超えてるかな?と思ったようだった。
はは~ん?1600円高いか?普通じゃないの?
私が毎日5~600円くらいで昼ごはんをおさめようとしているから、1600円じゃ高すぎるかなって、気をきかせてくれたんだね。
でも、昼休みってのはぜんぜん別物なんだよ。昼休みは店まで行って、そして食べて、帰ってきて、仕事にかかるまでが、最長で1時間しかない。12時ちょうどに仕事に区切りがつかなくて、10分くらい短くなることもあるわけだ。
料理はさっと出てきてくれなきゃしょうがないし、あんまり量が多いと午後の仕事が眠くなってしまう。だから、安くて早くて軽いものでいいのだ。そして、日常繰り返されることだから、チリも積もって昼食代が加算していくのである。
その金額を抑えることは、休日にゆっくりと食事を楽しむことに使う予算とは全く別物である。同じ食事にしても価値観が違うわけである。
昼休みの食事を安く押さえたいと言っていたから、全ての食事を安く抑えようとしている人だと誤解されたりしてしまうんだね。
本当に、考えや物事を人に正しく伝えるのは難しいよね。

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“なみすけ”ってかわいい!

2008-09-12 23:51:24 | 日記
「なみすけ」のブログを発見しました。これを見ると、なみすけのことがわかるし、遠くの人で、本物のなみすけに出会えない人にも魅力が伝わりそうなので、ご紹介します。

てくてくなみすけ

「なみすけ」に初めて出会ったのは、杉並区内の地下道に展示してあるポスター(?)だった。
かわいいなあ~と思った。
この「なみすけ」はいったい何の動物なのか?よくわかんない。(ちょっと虫みただけど、恐竜みたいなもんか?)でも、とにかくかわいいと思う。
そして、先日セブンイレブンで「なみすけパン」に出会った。
ちょうどオリンピックをやっていた時期で、最初はパンダのパンかなと思ったのだが、ちょっと違う。なみすけの顔のパンだった。それを買ってみたところ、カスタードクリームとリンゴが入っていてなかなかおいしかった。りんごがさわやかな感じで、また買ってもいいなと思う。
そんなことから、この地域キャラ「なみすけ」はただモンではないのでは?と思った。

地域キャラクターで有名なのは彦根市の「ひこにゃん」だ。
これが有名になったのは、作った人の原案と違うひこにゃんが出回って問題になったからでもあるが、ひこにゃんの人気はは強そうだ。
そのほかに、最近では、小金井市のキャラクターで、金太郎みたいなのがある。あれは、宮崎駿が作ったから話題になっているが、それほどかわいいとは思えない。
なみすけは公募なのだそうだ。
なみすけは断然かわいい!
このブログによると、杉並区ではかなりの人気のようだが、今まで杉並区の人から、なみすけの話を聞いたことはなかった。
今度、区役所に行ってみようかと思う。



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アスファルトから始まって

2008-09-12 22:44:31 | 日記
石田衣良の「傷つきやすくなった世界で」というエッセイを読んでいて、R25という雑誌にのった記事だということを知り、そのときは、R25っていうのは、25歳くらいの人に向けた雑誌かと思っていました。しかし、そうではなく、25歳以上ってことらしいです。そして、25歳から30代くらいをターゲットにしているようです。
そうですよね。対象が25歳だけだったら、あまりにも幅がせますぎますよね。
それで、このR25がインターネットでも読めるということを最近知りました。

今日、その中で私が関心をもったのは雑学「アスファルト」の記事です。
アスファルトとはいったい何なのか?というと、
この記事によると、「アスファルトは、原油から採取される粘着性のある物質で、高温では液体、常温では固体になります。舗装された道路に使われているものは、正確には、熱したアスファルトに砂や砕石などの『骨材』を混ぜた『アスファルト混合物』と呼ばれるものです」(道路会社である株式会社佐藤渡辺の担当者)とのことです。

だいたいこのようなものだとは、みんな知っていることでしょう。道路を舗装している現場を通ったりすると、ローラーで表面を平らに均していますが、もうもうと煙みたいな湯気みたいなものが出ています。それでも、だいたい固まっていて、そのあとすぐにその上に乗っても、そうかんたんにへこんだりはしません。

それで、話は移りますが、
私が住んでいるおんぼろ公営住宅で、数年前に駐輪所付近の通路を舗装したときは、コンクリートだったのです。それが、今年、ある人が自分の通り道の舗装を頼んだところ、ある日突然工事の人がやってきて、あっという間にアスファルト舗装を終えて帰っていきました。
コンクリートの時には完成するまでに何日かかかったようですが、今度の工事のあまりの素早さにはびっくりでした。
そのとき、建て替え間近の住宅の敷地を舗装するなんてもったいないし、電気のスイッチ1つ直してくれないのに、どうして舗装工事はホイ来たとやってくれるのかと不思議だったのです。
そして、何で以前はコンクリートなのに今度はアスファルトなのか?というのも疑問で、いったいアスファルトとはいくらぐらいするものなのかなとネットで調べたりもしてみたのでした。値段のほうは実面積がわからないので計算できませんでしたが、アスファルトの厚さにもよるらしく、駐車場などにする場合は、自動車の重さや振動に耐えるためにある程度の厚さが必要だとのことでした。
ということは、自転車しか通らないような団地の敷地内の場合、おそらく厚さは最低の厚さで大丈夫なのだろうと思いました。
また、アスファルトは10年ぐらいしかもたないとのことですが、そこから考えても、建て替えを控えている団地なら、もう、1~2年でも持てばよいという簡易舗装に違いありなく、妙に納得しました。自転車を移動したりする必要もなく、工事は終了でした。
便利なものですね。

ところで、話はまた移りますが、私の趣味は絵画鑑賞です。
ずっと若い頃、「池田20世紀美術館」という美術館に行ったことがあります。この美術館は、伊豆の一碧湖という湖の近くにありますが、何か大きなピカソの絵を見た記憶があり、今度また行ってみたいなと思っていました。
その美術館をネットで調べていたところ、これは「ニチレキ株式会社」っていう会社の創設者の池田氏の所蔵品が寄付されてできたものだとのことです。
伊豆のような田舎にしては、かなり立派な美術館のようです。以前、どっかの会社で作った美術館だということは聞いたことがありましたが、それがどういう会社かということは知りませんでした。
「ニチレキ」って会社は、道路の舗装をする会社らしいです。道路を舗装している会社が美術館をやっているとは意外でしたし、道路の舗装をしている会社というものに関心を持ったこともありませんでした。

そういえば、企業がやっている美術館って、この間行ったのは「出光美術館」で、これは石油の会社ですね。アスファルトの原料を輸入販売しているわけでしょう。
そして、そのほかに有名な美術館といえば「ブリヂストン美術館」がありますね。これはタイヤの会社ですね。タイヤも石油からできているのかな?タイヤは合成ゴムと補強剤のカーボンでできているようです。この間、テレビで、どうしてタイヤは黒いのか?ってのをやってましたが、カーボンが黒い物質だからとのことでした。
それはさておき、この3つの美術館は、石油つながりということで共通点があるなあ~と思いました。

というわけで、エッセイと公営住宅と石油化学と芸術と・・・
今日は日頃関心を持っていることの融合でした。


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また見てしまった

2008-09-12 00:28:07 | 日記
この間の「悪夢」の系統の夢。悪夢ってほどじゃないけど、ちょっと不安な夢。
何か、人間がいっぱい非難している。民族の大移動みたいな感じ。
この前、アメリカでハリケーンが来るということで、広範囲にわたる圏内の住民が安全な地域にぞくぞくと避難していたけど、そういう感じだろうか。
ただ、今にも危険がやってくるというのではなく、なにか、もうその場所で暮らしていると、その土地は安全ではないから、人々がみんな移動しているというふうだった。
そして、私もその中の一人だった。
私はバスに乗っていた。そのバスには小さな窓があり、そこから外が見えた。窓とは言っても小さなガラスがはめ込まれているだけで、開きはしない。そしてそこから他のバスや車や人間が左前方に、ずっと続いているのが見えた。
バスの中は窮屈というほどの人混みではなかったが、ほぼ満員で、私は窓に向かって立っていた。バスの中は狭く、そしてバスは舗装もしていないようなでこぼこ道をゆっくり走り続けている。どこか遠くの安全なところに到着しないかぎり、決して降りることはできないのだった。
ただ、ここに乗っていさえすれば、どこかにつれてってくれるんだから、大丈夫だ、と自分に言い聞かせていた。そのバスは運転手さんが運転してくれていて、そのことをありがたく思った。そして、ガソリンもちゃんと入っていて、どこか遠くの移住の地までちゃんと到着できるようになっているんだと思った。

バスの中は今にも狭所恐怖症を起こしそうだったが、そこで耐えることが自分の命を救うことなんだ、と思った夢だった。

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脳の老化

2008-09-11 22:50:44 | 日記
「途方に暮れて、人生論」(保坂和志)を読んでいたら、「老いることに抗わない」というエッセイがあった。
年をとると、子どものような暗記力や計算力がなくなり、パズルを解いたり、実生活と関係のない物事を単純に暗記することができなくなってくる。いや、そういうことに大量の時間を費やせばまだできなくはないのかもしれないが、だいたいそんなことをしたからといって何の役に立つわけでもないから、大部分の人間はそんなことに取り組みはしない。もっと別のことを考える。一部分の人間が頭の体操であるとか、脳の老化防止として、そういうことに熱心に取り組んだりしているが、いくら老化防止でも、そのためだけに多大な時間を使うのはもったいない。もっと別の意義のあることをしたほうがいい。
とざっとまあ、こんな感じのことが書いてあった。

たしかにそうである。
今、私はこんな年になって、化学だの物理だのを放送大学で勉強していて、それは、仕事のために仕方がないからやっているのだが、全く頭に入らない。
どう考えても、若い頃、自分はこんなにバカではなかったと思うのだが、どうにも面倒くさいし、たまに気が向いて取り組んだとしても、数日するとざるのように何も残っていないのだ。
それで、この前ふと気がついたのは、だいたい中学・高校のころは、どんだけその勉強に時間を費やしていたかということだ。ちょっと考えてみても、毎日授業があって、数学なんかでも、理解したあとで必ず練習問題などをいくつも解かされていたはずだ。英語なんかも毎時間単語テストなどをやっていた。それに比べたら、今では、せいぜい週に1回くらい教科書を開き、ざっと内容を読んで理解する程度である。わかったとおもったところで、練習問題なんかをいくつもといてアタマにすり込むということはない。だから、定着するはずがないわけだ。
それで、普通の理系の大学ならば、文系と違って遊ぶ暇なく勉強に取り組まなければ卒業できないと言われている。毎日学校に通い、実験などし、どっぷりとそういう環境に入り込んで勉強にとりくんでいるはずである。それを、通信でやろうとすれば、勉強に関わる毎日の密度から考えて、卒業までに何倍もの月日が必要なのはあたりまえである。というか、おそらく普通の大学生の10分の1も勉強していないと思うので、4×10だったら40年もかかるということになってしまうわけだ。しかも時間をかければいいというものではなく、忘れる量のほうが多いということになるだろう。

どうにもこうにも、効率の悪いことに取り組んでいるとしか言いようがない。
今、ちょうど学費を納めなければならず、6万円近くのお金を自分の口座から下ろしてきたところだが、夫いわく、金を捨ててるだけで意味がないから、もうやめたらどうか、とのことだった。確かに、単位を取得する割合が低すぎるだろう。
放送大学は、中年をすぎてやるなら、生活や福祉などに根ざしたものがいいかもしれない。
やはり、理系はきついなあと思う。
しかし、私の場合、やはり仕事に関連するので、多少でもそういうものに接していることは必要かと思っている、ただし、できなくて当然と思うことにした。

ところで、このエッセイの中に、夏目漱石が享年49歳で亡くなっているということが書いてあった。へえ~~~~~。
そういえば、そうだったか。若くしてなくなったのだなあ。
そして、自分ももうそんな年に近づいてきて、近い将来、夏目漱石より年上になってしまうわけだ。
夏目漱石は偉大な人だと思っていた。人間のことを深く考えて、人生の達人のようにさえ感じていた。しかし、漱石はやはり悩んで考えはしたが、自分自身が人生を快適に過ごした人ではなかった。つまり、人生の達人とは生き方がうまい人ではなく、むしろ下手なゆえにいろいろ苦悩したり、他人以上に人間とは何かを考えたりする人だということだろう。

夏目漱石はやはりどうしたって偉大だ。80歳まで生きた人でも、漱石を未熟だなどとは思わないだろう。しかし、自分は本当に漱石よりも長く生きて行くんだなあ、と思う。
生きてきた長さから考えて、今後自分は漱石よりももっと大人になってしまうんだから、もっと大人らしくしっかりと物事を考えて生きていかなくちゃいけない。
いつまでも、漱石先生教えてください、みたいな姿勢ではいけないわけだ。

保坂和志氏のエッセイはいろんなことに気付かせてくれるので、面白い。
これからは、脳の老化に対抗するのではなく、脳の老化にうまく適応した物事にも取り組んでいこう。


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毎日を楽しく暮らそう

2008-09-11 00:38:16 | 日記
どうしても、何か目標をもって、それに向かわなくてはいけないというような潜在意識がある。
だから、目標を失うと、自分の人生はこれではいけないのだと思ってしまう。
どうして、そういう観念に縛られているのかよくわからない。
よくよく考えてみると、富よりも名声を求めていると思う。
もし、富を求めているのならば、お金さえあればいいのであって、それで贅沢をして楽しめば満足のはずだ。
ということは、今現在、そんな「富」はないものの、食べるのに困るわけではないのだから、できる範囲で贅沢をしたり楽しんだりして、ある程度の満足が得られるはずである。
だが、持っているお金で衣類や装飾品を買ったり、豪華な食事をしたり、娯楽をして楽しんだりするということには、あんまり関心がない。そういうことをしても、面白いとか毎日が楽しいとか思えないのだ。
やはり、それよりも、資格試験にひとつ合格したなどということのほうが嬉しい。会社で給料が上がるのは嬉しいことだが、それは生活が楽になるからというよりも、自分自身の価値が上がったように感じるからだろう。

でも、そんなものを求めて生きているのは、ほんとうはひどく馬鹿なことかもしれない。
むしろ、何か楽しい時間を持つことが人間の幸せであるべきはずだ。
まるで、何か目標があるかのように、馬車馬のごとく走る生活は、本当は無味乾燥なのだ。忙しいから食事もいいかげんなものしか作らないし、毎日上の空ですごしているのだ。

もっと身近なことを考えようよ。明日何を食べようか?おいしいものを作ろう、とか、家族でどこかに出かけようとか、そういう小さなことを一つ一つ実行するのを目標にしたほうがいい。
毎日、何か遠い目標に向って突進するのではなく、眼の前のことを充実させることを目的としたらどうだろう。
遠くをみつめて、まるですばらしいものに向かって突進しているかのように見えても、毎日を考えると何もしていない。後になって振り返ると、子どものことも夫のこともまるで見ていなかったなと思うに違いない。ろくな食事も作らないうちに、娘は嫁いじゃったなんてことになってしまうだろう。

小さな楽しみをいっぱい実行すること。
それが大切なことだって、世の中のみんなはもうとうに知っていて、実行しているのかもしれないけど、とにかく、私は今頃になってそのことに気がつき始めたんだ。
でも、習慣はなかなか消えるもんじゃないけどね。

とりあえず、今夜は明日の朝ごはんのおかず、きんぴらごぼうを作りました。



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同感覚は家族のみ

2008-09-10 00:57:34 | 日記
同じ体験をして、ほぼ同じようなことを感じることができるのは、やはり生計をともにしている家族かなと思う。
子どもが大きくなると、それぞれの予定があるので、なかなか家族そろって外食なんかできないが、それでもたまには家族そろって外食にいったりする。
長女は自活しているが、長年生計をともにしていたし、今も高収入ではないので、金銭感覚は同じだ。
それで、この夏は夫と私と子どもたちと中華料理を食べに行ったり、焼肉を食べに行ったりした。
ようし、今日は節約とかそういうことは考えないで、食べたいものをどんどん食べようね
ってな具合で、気合を入れてたらふく食べた。
そして、いざ会計!となったときに、意外に「1万2千円です」程度のことが多かった。
ああ、もうお腹いっぱいだ、これ以上は食べられないよ~
という段階で、合計して4人で1万2千円ってことは、1人3000円だ。
う~ん、なかなか3千円以上のものを食べることは不可能だな~と思った。
どんなに贅沢したって、普通の人間は大食いではないから、5000円も食べられないもんだね、もし5千円食べろなんていわれたら、もう苦しいだけだよ。という家族の結論だった。

あるとき、友人に、どんなにがんばって食べても3000円が限界で、それ以上食べるのは無理なもんだという話をしたところ、
かなり軽蔑の目で見られてしまった。
そんなことはない、たとえば、よく有名人が行くような焼肉屋では、肉が1枚あたり1000円以上もするとのことだ。だからカルビ3枚食べただけで3000円だから、1万円食べても全然お腹いっぱいにはならないそうだ。最低3万円くらい食べないと一食にならないという。だから、3000円以上は食べられるもんじゃないというあなたの意見にはまるで同感できない、とのことだった。
すし屋に言っても、その人の場合は安いネタはキライなので、好きなものばかり食べると、1人最低1万円は食べてしまうから、家族で行ったら5万くらいはかかってしまうのだとかいう。
そして、いったいどんな焼肉屋に行ったのか?などと言う話になり、
いや、普通の焼肉屋で、確かに特上ロースとか特上カルビとかいう高めのものもあったけど、おすすめカルビだの人気盛り合わせだの、そういう安物の肉を中心に食べたんだ、などということを口ごもりながら説明するはめになった。
すし屋に行ったとしても、我が家では無意識の習慣により、なんとなくカニ蒲鉾や納豆巻きなどを織り交ぜつつ、最後にトロでしめるというふうなことになっている。
最初から、トロだのウニだの、本当のカニなどをばんばん食べたりはしないのだった。
う~む、確かに大食いではないにしても、本当に大好きな高級なものばかりを選んで食べていたら、きっと1人アタマ3000円なんて金額は簡単に超過するかもしれない。
本能的にそういう食べ方ができないんだよね、貧乏人は。

夫曰く、人には正直な感想などを言わないほうがいいぞとのこと。
どこの家も自分の家と同じようだと思ったら大間違いだということだ。
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同窓会について

2008-09-09 22:46:53 | 日記
なんだか、ひがみっぽいことばかり書いているようだけど、
ふと、同窓会のことを思い出した。

というのは、保坂和志の「途方にくれて人生論」を読んでいたところ、同窓会のことが書いてあったからだ。この人は私より3学年くらい年上だが、この文がちょうど3年位前のことを書いてあって、高校卒業後30周年の同窓会のことが書かれていた。
だから、それはちょうど私の今年と同じことになるわけだった。

同窓会っていうのは、なんか複雑だ。とても懐かしいのだけど、負の記憶ってのも再現される。そして、結局、あのころイヤだったことは何も変わってないということに気がついたりする。
たとえば、あんたなんか友達じゃないわよ、みたいな感じの空気がなんとなくただよっていて、高校時代には言葉も交わさなかったような人がいる。別に敵対していたわけではいが、タイプが違うって言うか、属するグループが違っていた人だ。
そういう人でも、同じクラスだったから、ちょっと話しかけてみたりする。
この間も、ちょうど駅から同窓会会場であるホテルまでの送迎バスが同じだった人たちがいた。そこである人にでくわし、その人が特に親しくはなかったが同じクラスだったという記憶があった。そこで、「あっ、○○さん、1年のとき同じクラスでしたよね」と声をかけると、「はあ」みたいなそっけない返事で、私はあなたに関わる気はないわ、のような無関心な態度のまま、上の空で自分の友人が来るのを待っているふうであった。一方、もともと名前も知らないが顔は見たことがあるような同窓生が、「○高の同窓会に行くんですよね、何組でした?私は○○です。」などと親しく接してくれたりしたものだ。そういうのは嬉しいのだが、そっけなくされた傷は後々までのこる、というか、そのときはあまり感じないものの、後になってじわじわと痛んできたりする。

そして、同窓会会場で、今何をしてますか、などとステージに呼び上げられた人が近況報告などを始める。これは友達が友達を呼んでいくので、活発な感じの同じ系統の人間が続いていく。
この間は、2次会で、その近況報告をもっとやろうではないか、という要望があり、今度は座っている順にマイクが回ってきた。
みんなそれぞれに話などしているので、聞いていない人も多い。
それでも、当時羽振りをきかせていたような類の人は何か話すことが多かった。一度ステージで話したのにまた同じようなことをしっかりと話す人さえいる。そして、マイクはいろいろな人にまわって行ったが、その中には何も言わずにマイクを次の人に渡してしまう人も多くなった。それは、聞いていない人も多いし、特に言うことはないとか、自分のようなものがなんか言っても誰も聞きたくはないだろう、などと考えるからである。そして、私の仲間たちや私にもマイクは回ってきたが、やっぱり黙って何も言わずに渡してしまった。どうしても控えめなんだよなあ。
だから、高校時代からずっと存在感がないんだよね。
私は友人にマイクを向けて、「ここにいるのは元○部の○○さんです。○○さん、今何をしてますか?」なんてやればよかったな、と後になって思ったけど、やっぱりそういうことをする柄じゃないんだな、私たちは。
ここにも、人間がいるんだよ、小さな花をさかせてるんだよって、自己PRも必要だよな、と反省しました。
きっと、こういうふうだから、「同じクラスでしたよね」って言ったときに、「あっ、○組でしょ?そうそう。一緒に行きましょ。」なんていう反応が得られないんでしょうね。
だから、次回の同窓会には、マイクが回ってきたらパスしないで、何か発言しようと思ったりもするのだが、一方でもう同窓会に行くのはよそうかな、なんて思ったりもするのだった。
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改善をめざす人

2008-09-09 20:00:57 | 日記
このごろ、ちょっとしたことを発見した。
低層人間の不満を理解し、それを改善しようとする人は、低層人間ではなく、むしろ上の層の人間かもしれないということだ。

このごろ、時たまフラストレーションを感じることに、
たとえば、パートタイマーはこんなにも働いているのに給料が安いんだ、とか
こぼした場合、
私と同じような低層な人間の反応として、
それはしかたがないパートなんだから。
どこの職場もパートはそんなもんよ。
そんなことを希望するほうがもともとおかしい。
そんなことを会社側に訴えるのはあなたがまちがってるんじゃない?
パートはパートらしく控えめにしなさいよ。
などということだった。

自分たちは低層人間なんだから、低層人間らしくあきらめろという意見だ。
あきらめのできない人間こそが見苦しいというかのようでもある。分不相応な希望を持ってはいけないのだそうだ。
その人たちは、自らの境遇を改善しようとする人間を軽蔑するかのような態度を露骨にあらわす。嘲笑さえする。
たとえば、有給休暇が取れないなどということを訴えた場合にも、「有給なんか取れないのはあたりまえよ。なにをたわけたこと言っているの」などという反応が返ってきてしまうわけだ。
「一日千円で暮らさなきゃならない」などというと、「千円あれば充分生きて行けるでしょ」などという返事さえ起こりかねない。
自分だって苦労している、あなただけ改善されるのは許せないわ。あなたもずっと苦労し続けなさいよ、ってなもんだ。私も地を這ってるんだからあなたも地を這い続けろよってことだ。

ところが、これがもっと上層のしかも善良な人に訴えた場合はどうなるか。
えっ、そんなに給料が安いんですか、それでは何にも買えないわね、とか、有給も取れないんじゃ、旅行にも行けないし、何の楽しみもないわねえ、本当に大変な境遇だわ、そんな生活は人間の生活とはいえないわ。なんとかしなくちゃいけないわねえ。
という反応になるわけだ。

だから、低層人間にはなんら救いの糸口はなく、むしろ立場の違う上層の人間に訴えたほうがいいのだ。
おい、パートの給料をもっとあげてやりなさい、てなことになるわけだ。

やっぱり、だめもとで訴えてみたほうがいいよ。

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悪夢

2008-09-09 15:58:51 | 日記
悪夢なんて書くと大げさだけど、このごろ立て続けに似たような夢を見た。
まず、最初に見た夢は、風船のようなものの中に人間が2人ずつ入っているのだ。
そのうちの1人は自分であって、そこはとても狭く、やっと2人の人間が横たわれる大きさであり、息苦しく、明らかに閉じ込められていて出る方法がない。
色のついた半透明のビニールの繭の中に入っているような感じだ。
なんで、こんな夢みたのかと思ったら、このあいだ24時間テレビで、ヘリウムの中に入ると音が変わるか、という実験をやっていて、楽団がまるごと大きな風船みたいなものの中に入っていた。実験結果は弦楽器の音は変わらず、管楽器の音だけ人間の声の変化と同様に異様に高くなっていたようだったが、それはともかく、その時に、あんな密閉空間に入るのはいやだなと思った。
ヘリウムガスというのは害もなく、あれは出入自由でもっとずっと大きいわけだったが、人が出してくれなければ出られないようなものの中に入るのはまっぴらごめんである。怪獣のかぶりものをかぶって、人がファスナーを開けてくれなければ脱げないなんてのも絶対いやだ。
たまにテレビ番組でそんなふうに人が狭いものの中にいれられるようなことをやっていたりするが、自分が入ってるときに何かあって、みんなが逃げちゃったらどうするのかと思う。

風船の中に自分が入っている夢の後に見た夢は、階段かなんかを上がって行くんだけど、出た先の天井が異様に低いのだ。いや、これはもうその階というよりも、戸棚の中という感じだろうか。屋根裏か天袋みたいな感じなんだが、まず、廊下に出ることができない。
つまり、その高さが人間の頭の幅よりもさらに低いのだ。昔よくあった便所の履き出し窓くらいの高さしかないわけだ。だからはいつくばってなんとかそこをくぐり、その後もずっとはっていかなくてはいけないわけだが、それがどこまで続くかも想像がつかない。
この圧迫感をこらえて耐えて何メートルか這っていけば、そこに広い空間があると知っているなら進めるだろう。しかし、そういう見込みは特にない。しかも、やっぱり最初のその履き出し窓くらいの高さの枠を通り抜けることは到底無理だと思い、それ以上進むことを断念したのだ。かといって戻ることもできそうもなく、もうそのままそこにいるしかないと思い、なんともいえない陰鬱な気分になったところで、目がさめた。

これが夢でよかった。
狭いところに閉じ込められるのは恐怖だ。
ぜったいに、ものの下敷きになったり閉じ込められて死ぬのはいやだ。
発狂してしまうだろう。
そういうときは、どうするのだろうか。冷静を保つのにはどうするのだろうか。
あきらめるか、それとも静かに神に祈るか。
そういうことが、地震のときなんかに実際に起こっているわけだ。
想像をするだに恐ろしい。

そして、目を覚まして、ふとウサギのケージを見ると、ウサギが閉じ込められているのだ。
私が閉じ込めているのだ。
このウサギは一生この中にいなくてはならない。ウサギは絶望にかられているのではなかろうか。一生同類の仲間にも会えず、こんなところに閉じ込められて、人間からもらう餌を食べてくらしている。人生を悲観しているかもしれない。
いや、動物は何にも考えていないかもしれない。
うん、たぶん、考えていない。ここから出られないと思って発狂しそうになんてなっていない。
なぜなら、あんなに食欲があるし、食べることを楽しみにしているではないか。
自分にはウサギという仲間がいることすら、考えたこともないだろう。
小さいとき他のウサギと一緒にいたことがあるはずだが、それを記憶として覚えているわけでもないだろう。
ケージの大きさは多少の余裕があるから、中で動き回ることもできる。
外に出して散歩をさせても、少し経つとケージを見上げて戻りたいな~って顔をするのだ。
あそこが、あの子にとっては住み慣れた安らぎの場所なんだ。

もし、私がこの家から出られないとしたらどうだろう。
一生、ここから一歩も出られないとしたら、どうか。
それでも、食べ物が届けられ、生命を脅かすものさえなければ、発狂まではしないだろう。
もし、そうとなれば家中の書物を隅から隅まで読んだりして時間をつぶすこともできる。
そうやって、何か知識を得たり楽しんだりできれば、それが自分の人生としてそれで満足できるのかもしれない。
だから、極端に狭い空間に不自然に閉じ込められない限りは、大丈夫だろうと思う。

目の前のウサギが苦痛そうだったら、私も苦痛だが、きっと苦痛ではないのだという結論に至った。
そして、とにかく、極端に狭いところに閉じ込められるような想像はしないことにした。
そんなことは忘れよう。

でも、なんでそんな夢ばかり見るのか。
何か打破できない精神状態を象徴しているのかもしれない。

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誰を選びたい?

2008-09-09 10:13:30 | 日記
今日は、用事があって会社を休みにしました。
昨日は仕事が少なくて、ずっとパソコンで資料をまとめていたから、ほとほとうんざりしました。今週忙しかったらどうしようかと思ったのですが、そんなわけで、仕事がすっからかんの状態で休めたのはラッキーでした。でも、昨日仕事が少なかったということは、今日は多いかもしれません。まあ、同僚に任せます。

このごろ話題になっているのは、やはり自民党の次期首相のことです。
私ははっきり言って、政治のことはよくわかりません。新聞なんかも読んでないので、何がどうのとか、詳しいことは書けません。でも、やっぱり気になるなあ。

候補者
1 麻生太郎 (幹事長)67 
2 与謝野馨 (経済財政担当相)70
3 小池百合子(元防衛相)56
4 石原伸晃(元政調会長)51
5 石破茂 (前防衛相)51
6 山本一太(前副外相)50
7 棚橋泰文(元科学技術担当相)45

最初は麻生さんでほぼ決まりかと思っていたのが、こんなにいっぱい出てくると、麻生さんにはなって欲しくない人が自民党の中にも結構いるようだ。
与謝野さんが出てきたあたりは、一応対抗馬を出して選挙を盛り上げるくらいな感じだったらしいが、若手の人たちは、古い人に任せてはおけないと出てきたのだろうか。

私自身の個人的な好みによれば、麻生さんや与謝野さんには、ほとんど興味がない。長年の政治家としての経験や力量はあるのだろうが、なんら魅力を感じない。
麻生さんは庶民感覚とかけ離れていると思うし、秋葉系なんか私は好きじゃない。
与謝野さんは消費税を上げるとか言ってる。貧乏人がこれ以上消費税を上げられては生活が困窮する。
小池百合子はキライ。なんか態度が偉そうだし、わがままそう。以前も防衛省で切れて、ほんなげてたことがあったと思うけど、この人こそ、「やってらんないわ!」「私が悪いんじゃなくて周りがなってない!」って感じでやめちゃいそうな感じだ。この人が首相になってうまくいくことは絶対にないような気がする。なんで、こんな人を祭り上げるのかわからない。
候補者の中では、なぜか麻生さん、与謝野さんに並んで貫禄があるように見えるけど、この人は今までいったいどんな功績があるのだろう。ただ女性だというだけ。首相に女性のメリットなんかない。特に女性だからということで、人気があるのはおかしいが、本人も女性であることを売りにしているのが、さらに変だと思う。
石原伸晃。候補者の中では、私はこの人が一番好きだ。首相になるのはまだ早い気がするが、腹黒くなく、熱意を持って取り組んでくれそうである。この人が、安いコーヒー店(ドトール・ベローチェ等)でお茶を飲んでいたのを目撃したと知人に聞いたことがあり、庶民の感覚に近いのではないかとも思った。
石破茂。落ち着いた感じで、物事をわかりやすく説明してくれるところはいい。人間として印象は悪くないけど、このスローなしゃべり方が少し気になる。ゆっくり話す人は、やることもゆっくりなような気がしてしまう。
山本一太。この人はかなり元気な人だ。個人的には嫌いではない。思ったことをずばずば言う。だから説得力がありインパクトがある。私はそこが好きであり、それがこの人の長所だと思う。しかし、それが逆に鼻につく人もありそうだ。だから嫌いな人は嫌いだろうと思う。出る杭は打たれるみたいな感じ。推薦人が集らなかったそうだが、たぶん、本人も最初から首相になる気はない。解散総選挙を訴えるために出てきたと思う。私もそれには賛成だ。
棚橋泰文。この人は知らない。年齢も若い。第一印象は、政治家じゃなくて学者じゃないかと思ったくらいだ。
「山本一太と棚橋泰文は問題外だ、なんでこんな人まで出てきたのか」というマスコミの批判がある。まあ確かに首相候補としてはちょっと変かなとは思うけど、気持ちと意欲は買いたいと思う。
山本一太さんは、私は本物が街頭で応援演説をしていたのを見たことがある。それは、小泉首相の頃の衆議院議員選挙のときだったと思うが、「今後は小泉さんに続いて安倍さんや石原伸晃さんが活躍する時代」というようなことを言っていたと思った。そうだ、確か「ポスト小泉は石原伸晃」みたいなことを言っていた。
となると、今回は対抗馬として出てきたが、どちらかというと、石原伸晃さんを応援するほうに回ったほうがいいんじゃないかなと思う。やはり石原伸晃さんのほうが政治家として一歩上だろう。まずは自分が候補者としてでて、その後石原さんへ合流という策ではないかと思ったくらいだ。しかし、年齢でみるとほとんど同じだから、山本一太さん自身は同格だと思っているんだろう。そういう人が応援者となったらかなり強力かなとも思うけどどうだろうね。

もし、自分に投票権があるとしたら、石原伸晃さんに入れるかな。
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中国の人

2008-09-08 23:30:17 | 日記
別に中国人について書こうと思っているわけではないので、このタイトルも変なんだけど・・・。
今日、昼休みに一緒にご飯を食べていた人たちが、中国人の知り合いの話を始めたんだ。
その知人が中国のどこそこの人で、どうのこうのって話だ。
中国人に限らず、たとえばアメリカ人でもフランス人でもいいんだけど、こういう話題ってよくあるよね。
そこには、私は皆さんが知らないような異国の人と付き合いがあって、よく知っているのよ、その人はね、こうこうなのよ、それからもう1人の知り合いはこうなのよ、ってな具合だ。すると、また別の人が、私が以前知っていた中国人はこれこれだったわ、などと話し出す。

こういうとき、ふと引いちゃうことがあるよな。
実は、中国人との付き合いは私もいっぱいあるんだよ。
あるからこそ、わざわざ言う気にもならんのだよ。
中国人のことを話すのは、離婚した夫のこととか、別れた恋人のことを話すような感じかもしれないよ。あまりにも知りすぎてるけど、今は他人だから口にはしたくないっていう感じかな。

今日は、中国茶の話なんかも出てきたんだけど、
中国語を習っていた時に、中国人の先生のお宅に通っていて、そこで、いつも高級な中国茶を出してくれて、飲んでいたものだった。いい先生だった。
お茶の話題の中で、私もそのお茶飲んだことある、なんて言ってりゃあいいわけだが、それ以上に、その当時のことが思い出されて、懐かしいというか、哀しいというか、なんか、お茶の話なんかしたくなくなっちゃたよ。
だから知らん振りしてた。

中国人の学生もいっぱい知っている。
日本語を教える以上に深入りしたこともあるし・・・。
中国人の話題は、ちょっと腫れ物に触る気分かもしれない。

でも、ふと空想したりするんだ。
うちの会社に以前中国人が働いていたんだけど、
うちの会社で働くような中国人ってものすごいインテリなんだ。
つまり、専門知識がある上に日本語中国語が堪能ってことだ。
だから、今後、そういう人がまた働くかもしれないんだ。
そのときにね、昔私が日本語学校で日本語を教えた人が、
偶然にも就職してきたらって思ったりする。
あれっ、山本先生じゃないですか!
あらっ、張さんじゃない!
どうしてここにいるんですか?
なんてね。
まあ、そんな人はいないだろうな。
中国や韓国の一流大学を出た後、日本語学校に入って、その後、日本の大学院に入った人も何人かいたな。
今頃何しているかな。

私はもう外国人に日本語を教えてもいないし、
中国語や韓国語も習うのをやめてしまった。
もう、そういうものは過去のものになっちゃった。
だから、もう、中国の人のことを楽しく語る資格もないように思う。
だから、そういう話題に入ることが精神的にできない。
でも、心のどこかに、私のほうが中国人との付き合いが深かった、という気持ちがあることは確かだ。
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