プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

島田源太郎

2017-02-03 21:22:55 | 日記
1968年

「プロ野球選手の手本」と、大洋の別当監督が手放しにほめる男がいる。島田源太郎、28歳。三十五件に完全試合を演じ、その年は19勝、大洋の初勝利に大きく貢献した投手だ。その後、肩の故障がたたって二軍落ち。プロ入り十年目の昨年暮れの契約更改期には「首になりかかった」(球団関係者の話)が、今シーズン前半を終わったときには、土つかずの9連勝。よみがえった右腕、愛称源さんの苦労のあとを振り返ってみるとー。「あのころは速球とカーブだけ。力で押しまくる投球で面白いように勝てた」-源さんは三十五年の絶頂期をこう語る。宮城県の気仙沼高からテストを受けて大洋に入団してから三年目のことである。「大洋の成績は島田の出来次第」とマスコミにはやされ「球団からは、こわいものにさわるように大切に扱われた」という時代であった。それがどうだろう。翌三十六年は9勝、三十七年は6勝、三十八年は4勝と、成績は急カーブで落ちていった。「プロを甘くみてコンディションの調整に失敗した。開幕からつまづき、すっかり焦って自分のペースを取戻せなかったからだ」という。悪いことは重なるものだ。当時の三原監督(現近鉄)から「変化球を覚えないと勝てないぞ」といわれ、ナックル、フォークボール、シュート・・・と球種を増やすことに没頭したのがいけなかった。野球選手、とくに投手の生命でもある肩を痛めた。三十八年の春のキャンプでは腕もあげられないほど悪化した。それでもなんとかシーズンを乗り切ったところへ別所ヘッドコーチ(現サンケイ監督)が就任。「秋から冬にかけての練習で調子の悪いものは、来年の公式戦では使わない」という方針が打出された。源さんは無理を承知で寒い中で投球練習にはげんだから、肩はますます悪くなるばかり。翌三十九年は僅かに1勝。四十年から二軍に落ちた。完全試合までやりとげた栄光の投手が二軍に落とされる気持。源さんは「まさに奈落の底に落とされたみたいだった。その気持は口ではとてもいい表せない」といった。まわりの人たちから「さっさと足を洗って商売がえしたら・・・」といわれ、一時は真剣に考えたのもこのときだ。源さんは、「肩は回復するか、どうか」の診察を受けるため、病院めぐりした。「大丈夫」と数件目の医師が太鼓判を押してくれた。「よし、もう一度大観衆の前で王、長島と対決してみせるぞ」-それから二年間、泥と汗にまみれる努力がつづく。朝早く病院に行く。その足で多摩川にある二軍の練習場へ。思い切り投げ、打つ若い選手を横目に、黙々と走りまくった。多摩川べりには楽しく遊ぶ若い人の姿がいやでも目につく。一人住まいのアパートへ帰ると、ナイター実況放送の花やいだアナウンサーの声とファンの歓声が耳にはいる。若い頭の中を屈辱感と焦燥感がごちゃまぜになってかけ巡った。「こうまでしてプロ野球にへばりついてるのはみっともないことではないか」と思ったこともあった。そんな源さんを勇気づけたのは当時「大投手の稲尾さん(西鉄)金田さん(巨人)でさえ二軍で苦しんでいる」ことだった。源さんは自分にいいきかせた。「オレは肩が痛くて野球ができないだけではないか。世の中にはもっと苦しんでいる人もいる。たかが野球であっても、努力することが人生の成功なんだ。自暴自棄になってはいけない」と。同僚の松原内野手は「サウナぶろに入った時でも、熱心に体操をやり、投球フォームの研究をする島田さんを見て、ああいう人こそカムバックしてほしいと思った」と、その努力を讃える。数か月後、肩は直った。「俺はもう投げられる」と思わず叫んだ。が、三原監督は使ってくれなかった。はやり気持ちを押えながらの、さらに一年間は二軍生活は一段とまた苦しかった。妻弓子さん(27)との結婚は「投げられるのに投げられないつらさ」を味わっていた昨年の一月。ことしの三月には長男の大(まさる)ちゃんが生まれた。源さんには心の支えができ「野球一筋に生きる決意はさらに固まった」という。それがカムバックの自信につながった。もしここで諦めていたら、完全試合を樹立しながら寂しく球界から消えていった宮地(国鉄)森滝(国鉄)西村(西鉄)と同じ運命をたどったに違いない。待ちに待ったチャンスがきた。五月一日。「納屋からホコリだらけで出てきた男」(別当監督)源さんは見事にサンケイを1点に押え、いきなり完投勝ちを収めた。「逆境を乗り切り、何ものにも動じなくなった」という信念。八年前より球速は落ちたが、別当監督も秋山コーチも「綿密なコントロールと打者の心理を読んでのうまいかけひき」に感嘆し、人間島田の成長と同時に、ピッチングの「変革」をたたえている。「二年間の二軍生活は、今になってつくづく貴重だったと思う。どんな社会に飛び込んでもやれる自信がついた」という源さん。その表情はとても明るい。
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嵯峨健四郎

2017-02-03 20:25:56 | 日記
1966年

両翼83・82㍍ー90㍍以上ある他球場より極端に狭い大阪球場は本塁打が出やすい。-南海は過去4年間に351本打ち、被安打は247本。自分は打つが、相手に打たせないのが本拠地で強い理由だ。ビジターにすれば、どれだけ本塁打されないかがカギになる。5回戦の九回、野村に2点本塁打され、完封勝ちは逸したが、それまで南海を完全におさえた嵯峨の投球からそのヒミツをのぞいてみる。まず南海の主軸打者野村への投球を追うとー第一打席(一回二死一塁)は①外角へのカーブ(ストライク)②低めスライダー(ストライク)③スライダー(ボール)④ボールのスライダーで一邪飛。第一打席(四回無死無走者)①外角スライダー(ストライク)②低め直球(ストライク)③スライダーをファウル④低めスライダーを腰をおとして振らせ二ゴロ。第三打席(七回無死走者)①沈むタマ(ボール)②外角スライダー(ストライク)③低めスライダー(ファウル)④外角スライダーで二飛。第四打席(九回一死一塁)は①低めスライダー(ファウル)②外角スライダー(ボール)③外角寄り高めスライダー(嵯峨は直球、野村はスライダーという)を中堅本塁打される。九回の野村に対したときは東映が6-0と大量リードを奪っていた。「つい気を抜いてしまった。外角をねらったのが真ん中中寄りにはいった」(嵯峨)「点が開いたので気を抜きよった。高めにスーッとはいってきた。あそこまでいけば完封をめざして慎重にやらないと・・・」(種茂捕手)というように勝負がきまったあとの雑な投球だ。しかし八回まではスピードがないから三振は少ないが、散発の3安打、南海は打てそうで打てなかった。右翼手として出場した南海・杉山はコーチ兼務の立場から嵯峨をみてこういう。「タマの種類をかえ、スピードをかえ、変化球を多く投げてきた。左打者に対するシュートより右打者に対するスライダーがよかった。ベンチでもこの点を選手に注意したが、どうしても打てなかった」はじめの2打席で2ストライクまで見送った野村は「99%までスライダーを投げてきた。ボールだと思うタマがストライクと宣告される。それでついくさいタマに手が出てしまう」とクビをかしげる。南海の各打者ははじめ嵯峨のタマを待った。一回17球、二、三回20球と三回までに嵯峨は57球も投げた。ところが四回8球、五回4球と投球数が減っている。はやくからヒッティングに出ざるをえなくなったのだ。嵯峨は「ストライクからボールになるタマを振ってくれた」と説明する。昨年の日本シリーズのとき巨人の金田投手が「南海になぜ本格的な投手が出ないのか、この球場に立つとその理由がわかる。狭いからこわくて直球などほうれない。つい低めへ変化球を投げる心理になってしまうんだろう」といったことがある。正確なコントロールと低めへの変化球ー。それをこなせる投手が多くなると南海の勝率はかなり低下するだろう。
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