1968年
「プロ野球選手の手本」と、大洋の別当監督が手放しにほめる男がいる。島田源太郎、28歳。三十五件に完全試合を演じ、その年は19勝、大洋の初勝利に大きく貢献した投手だ。その後、肩の故障がたたって二軍落ち。プロ入り十年目の昨年暮れの契約更改期には「首になりかかった」(球団関係者の話)が、今シーズン前半を終わったときには、土つかずの9連勝。よみがえった右腕、愛称源さんの苦労のあとを振り返ってみるとー。「あのころは速球とカーブだけ。力で押しまくる投球で面白いように勝てた」-源さんは三十五年の絶頂期をこう語る。宮城県の気仙沼高からテストを受けて大洋に入団してから三年目のことである。「大洋の成績は島田の出来次第」とマスコミにはやされ「球団からは、こわいものにさわるように大切に扱われた」という時代であった。それがどうだろう。翌三十六年は9勝、三十七年は6勝、三十八年は4勝と、成績は急カーブで落ちていった。「プロを甘くみてコンディションの調整に失敗した。開幕からつまづき、すっかり焦って自分のペースを取戻せなかったからだ」という。悪いことは重なるものだ。当時の三原監督(現近鉄)から「変化球を覚えないと勝てないぞ」といわれ、ナックル、フォークボール、シュート・・・と球種を増やすことに没頭したのがいけなかった。野球選手、とくに投手の生命でもある肩を痛めた。三十八年の春のキャンプでは腕もあげられないほど悪化した。それでもなんとかシーズンを乗り切ったところへ別所ヘッドコーチ(現サンケイ監督)が就任。「秋から冬にかけての練習で調子の悪いものは、来年の公式戦では使わない」という方針が打出された。源さんは無理を承知で寒い中で投球練習にはげんだから、肩はますます悪くなるばかり。翌三十九年は僅かに1勝。四十年から二軍に落ちた。完全試合までやりとげた栄光の投手が二軍に落とされる気持。源さんは「まさに奈落の底に落とされたみたいだった。その気持は口ではとてもいい表せない」といった。まわりの人たちから「さっさと足を洗って商売がえしたら・・・」といわれ、一時は真剣に考えたのもこのときだ。源さんは、「肩は回復するか、どうか」の診察を受けるため、病院めぐりした。「大丈夫」と数件目の医師が太鼓判を押してくれた。「よし、もう一度大観衆の前で王、長島と対決してみせるぞ」-それから二年間、泥と汗にまみれる努力がつづく。朝早く病院に行く。その足で多摩川にある二軍の練習場へ。思い切り投げ、打つ若い選手を横目に、黙々と走りまくった。多摩川べりには楽しく遊ぶ若い人の姿がいやでも目につく。一人住まいのアパートへ帰ると、ナイター実況放送の花やいだアナウンサーの声とファンの歓声が耳にはいる。若い頭の中を屈辱感と焦燥感がごちゃまぜになってかけ巡った。「こうまでしてプロ野球にへばりついてるのはみっともないことではないか」と思ったこともあった。そんな源さんを勇気づけたのは当時「大投手の稲尾さん(西鉄)金田さん(巨人)でさえ二軍で苦しんでいる」ことだった。源さんは自分にいいきかせた。「オレは肩が痛くて野球ができないだけではないか。世の中にはもっと苦しんでいる人もいる。たかが野球であっても、努力することが人生の成功なんだ。自暴自棄になってはいけない」と。同僚の松原内野手は「サウナぶろに入った時でも、熱心に体操をやり、投球フォームの研究をする島田さんを見て、ああいう人こそカムバックしてほしいと思った」と、その努力を讃える。数か月後、肩は直った。「俺はもう投げられる」と思わず叫んだ。が、三原監督は使ってくれなかった。はやり気持ちを押えながらの、さらに一年間は二軍生活は一段とまた苦しかった。妻弓子さん(27)との結婚は「投げられるのに投げられないつらさ」を味わっていた昨年の一月。ことしの三月には長男の大(まさる)ちゃんが生まれた。源さんには心の支えができ「野球一筋に生きる決意はさらに固まった」という。それがカムバックの自信につながった。もしここで諦めていたら、完全試合を樹立しながら寂しく球界から消えていった宮地(国鉄)森滝(国鉄)西村(西鉄)と同じ運命をたどったに違いない。待ちに待ったチャンスがきた。五月一日。「納屋からホコリだらけで出てきた男」(別当監督)源さんは見事にサンケイを1点に押え、いきなり完投勝ちを収めた。「逆境を乗り切り、何ものにも動じなくなった」という信念。八年前より球速は落ちたが、別当監督も秋山コーチも「綿密なコントロールと打者の心理を読んでのうまいかけひき」に感嘆し、人間島田の成長と同時に、ピッチングの「変革」をたたえている。「二年間の二軍生活は、今になってつくづく貴重だったと思う。どんな社会に飛び込んでもやれる自信がついた」という源さん。その表情はとても明るい。
「プロ野球選手の手本」と、大洋の別当監督が手放しにほめる男がいる。島田源太郎、28歳。三十五件に完全試合を演じ、その年は19勝、大洋の初勝利に大きく貢献した投手だ。その後、肩の故障がたたって二軍落ち。プロ入り十年目の昨年暮れの契約更改期には「首になりかかった」(球団関係者の話)が、今シーズン前半を終わったときには、土つかずの9連勝。よみがえった右腕、愛称源さんの苦労のあとを振り返ってみるとー。「あのころは速球とカーブだけ。力で押しまくる投球で面白いように勝てた」-源さんは三十五年の絶頂期をこう語る。宮城県の気仙沼高からテストを受けて大洋に入団してから三年目のことである。「大洋の成績は島田の出来次第」とマスコミにはやされ「球団からは、こわいものにさわるように大切に扱われた」という時代であった。それがどうだろう。翌三十六年は9勝、三十七年は6勝、三十八年は4勝と、成績は急カーブで落ちていった。「プロを甘くみてコンディションの調整に失敗した。開幕からつまづき、すっかり焦って自分のペースを取戻せなかったからだ」という。悪いことは重なるものだ。当時の三原監督(現近鉄)から「変化球を覚えないと勝てないぞ」といわれ、ナックル、フォークボール、シュート・・・と球種を増やすことに没頭したのがいけなかった。野球選手、とくに投手の生命でもある肩を痛めた。三十八年の春のキャンプでは腕もあげられないほど悪化した。それでもなんとかシーズンを乗り切ったところへ別所ヘッドコーチ(現サンケイ監督)が就任。「秋から冬にかけての練習で調子の悪いものは、来年の公式戦では使わない」という方針が打出された。源さんは無理を承知で寒い中で投球練習にはげんだから、肩はますます悪くなるばかり。翌三十九年は僅かに1勝。四十年から二軍に落ちた。完全試合までやりとげた栄光の投手が二軍に落とされる気持。源さんは「まさに奈落の底に落とされたみたいだった。その気持は口ではとてもいい表せない」といった。まわりの人たちから「さっさと足を洗って商売がえしたら・・・」といわれ、一時は真剣に考えたのもこのときだ。源さんは、「肩は回復するか、どうか」の診察を受けるため、病院めぐりした。「大丈夫」と数件目の医師が太鼓判を押してくれた。「よし、もう一度大観衆の前で王、長島と対決してみせるぞ」-それから二年間、泥と汗にまみれる努力がつづく。朝早く病院に行く。その足で多摩川にある二軍の練習場へ。思い切り投げ、打つ若い選手を横目に、黙々と走りまくった。多摩川べりには楽しく遊ぶ若い人の姿がいやでも目につく。一人住まいのアパートへ帰ると、ナイター実況放送の花やいだアナウンサーの声とファンの歓声が耳にはいる。若い頭の中を屈辱感と焦燥感がごちゃまぜになってかけ巡った。「こうまでしてプロ野球にへばりついてるのはみっともないことではないか」と思ったこともあった。そんな源さんを勇気づけたのは当時「大投手の稲尾さん(西鉄)金田さん(巨人)でさえ二軍で苦しんでいる」ことだった。源さんは自分にいいきかせた。「オレは肩が痛くて野球ができないだけではないか。世の中にはもっと苦しんでいる人もいる。たかが野球であっても、努力することが人生の成功なんだ。自暴自棄になってはいけない」と。同僚の松原内野手は「サウナぶろに入った時でも、熱心に体操をやり、投球フォームの研究をする島田さんを見て、ああいう人こそカムバックしてほしいと思った」と、その努力を讃える。数か月後、肩は直った。「俺はもう投げられる」と思わず叫んだ。が、三原監督は使ってくれなかった。はやり気持ちを押えながらの、さらに一年間は二軍生活は一段とまた苦しかった。妻弓子さん(27)との結婚は「投げられるのに投げられないつらさ」を味わっていた昨年の一月。ことしの三月には長男の大(まさる)ちゃんが生まれた。源さんには心の支えができ「野球一筋に生きる決意はさらに固まった」という。それがカムバックの自信につながった。もしここで諦めていたら、完全試合を樹立しながら寂しく球界から消えていった宮地(国鉄)森滝(国鉄)西村(西鉄)と同じ運命をたどったに違いない。待ちに待ったチャンスがきた。五月一日。「納屋からホコリだらけで出てきた男」(別当監督)源さんは見事にサンケイを1点に押え、いきなり完投勝ちを収めた。「逆境を乗り切り、何ものにも動じなくなった」という信念。八年前より球速は落ちたが、別当監督も秋山コーチも「綿密なコントロールと打者の心理を読んでのうまいかけひき」に感嘆し、人間島田の成長と同時に、ピッチングの「変革」をたたえている。「二年間の二軍生活は、今になってつくづく貴重だったと思う。どんな社会に飛び込んでもやれる自信がついた」という源さん。その表情はとても明るい。