プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

藤井信行

2017-02-11 21:42:31 | 日記
1974年

実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。ある日、青木専務は担当コーチに質問した。いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。答えは「同じようなものです」だった。「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。チームの連敗は5で食いとめることが出来た。そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。堂々たるものだ。「あいつはまじめな男。野球に取り組む姿勢がいい。十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。「代打ではタマを見ている余裕がない。その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。
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市原稔

2017-02-11 20:39:00 | 日記
1970年

南海・新山代表は二十六日午後、大阪・浪速区蔵前町の大阪球団内事務所に市原稔内野手(22)を呼び、整理をいい渡したあと球団職員になるよう要請、市原もこれを了承した。同選手は来シーズン東京駐在の職員として、イースタン・リーグをみてトレード会議用の資料作成をするほか、将来外人との渉外関係を担当するため球団の費用で英会話の勉強をすることになった。
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田辺修

2017-02-11 20:32:32 | 日記
1969年

中日は近鉄の田辺修投手(25)=1㍍76、75㌔、右投げ右打ち、美馬商工出身、七年目=の獲得に成功した。中日は手薄な投手陣を補強するため、各方面を打診していたが二十七日、佐藤(アトムズ)に続く第二弾として、田辺を金銭トレードで受け入れることにしたものである。田辺は昭和三十八年近鉄に入団。四十年に5勝、四十一年に4勝をあげ、通算成績は133試合10勝21敗。フォームはやや変型だが、オーバースローの全力投球型で、そのピッチングにはかなりのスピードがある。難をいえば性格が過熱型なことと、コントロールが時折り不安定になるため、エキサイトすると一本調子になりやすいことだ。しかし、まだ一度も肩ヒジの故障を経験してないのは大きな強み。
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安藤元博

2017-02-11 16:21:52 | 日記
1963年

「安藤(元)はスピードがなかったから勝利投手になった」試合後妙な感心をしたのは負けた中西監督である。「いつもならもっとスピードをのせた変化球を投げている。彼はうちが大振りしてくるとみると、スピードのない球よりもうひとつスピードのない球を使った。それで本来のスピードのない球が威力のある球に錯覚してみえる。うちの打者はまんまとそのテクニックにひっかかったのだ。ふつうの投手よりゴロになる事の多い安藤(元)に内野ゴロがわずか二つしかなかったのもタイミングがひとつおくれている証拠だ」安藤(元)が答える。「肩も痛いしヒジも痛い。なんとか投げられるかなと思ったのは三回コントロールがよくなってきたからだ。どうにかこうにかもったという感じだな。それにしても西鉄はフライが多かったね。オレにはそう思えんが、胸もとでホップしていたんだろう」いつものオトボケは最後にちょっぴり出ただけ。苦しそうな表情だった。安藤(順)も苦しいリードぶりをいう。「スピードがないからね。外角へ逃げて逃げて逃げまくった。気味悪いほど向こうがそれにうまくひっかかったんだ」水原監督も「六回ヒジが痛みはじめたからといってきたのは事実だ。いつでもかえる用意はしていた」といった。ネット裏で見ていた岩本章良氏も安藤(元)の勝利ではなく、西鉄打線の敗戦だという見方をする。「安藤(元)は一、二回カーブのコントロールに苦しんだが、三回から西鉄打者の腰の開きをみて内角球はボールで遊び、スピードで落としたカーブでタイミングをくるわし、外角への速球で勝負するかたにはまった配球で、最後まで押した。それなのに西鉄打線でボックスの位置をかえ一切うしろに立って打ったのはウィルソンだけ。みんなアウト・ステップして手だけで打っていた。さほどスピードのない下手投げの安藤(元)に対しボックスの位置を一番前か、うしろにとってねらい、球をきめて打ち込むか、アウト・ステップを防ぐためスタンスを広くとってノー・ステップで向かっていくか方法はあるんだ」安藤(元)はヒジの痛みと西鉄打線の無策で勝ったのである。
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安藤治久

2017-02-11 15:30:39 | 日記
1963年

グルリとまわりを取りかこんだ報道陣。カメラのフラッシュ。その真ん中で安藤はノンビリ立っていた。鼻の頭に吹き出る汗をふこうともしない。「五回の二塁打?あれはまっすぐ。初球からねらっていたんですよ。ピッチャーは追い込まれると打てませんからね」ボソボソとした返事に、広がっていた軸がグンと小さくなった。「ええ、七回の1点、あれで勝てると思いました。あの犠打、大きかったでしょう。あれが抜けていたら・・・いい当たりだったな」最後の方はひとりごとのようにボツリといい、打球のとんでいった中堅方面をじっとみつめた。「投打の活躍で気持ちがいいでしょう」という質問に「さあ、久しぶりだしシャットアウトしたかったな」五月二十五日大阪球場で南海を完封して以来四十一日ぶりの勝ち星というのに、表情一つかえない。「一番のピンチは?」と聞かれると「六回青野を歩かせて張本とあたったとき。でも二死だったしね。きょうはシュートがよく切れました。球も速かったですよ。直球がのびていたから前半はストレート、後半はカーブでカウントをかせいでシュートで勝負しました」これだけ一気にいう間にゼスチャアはグローブを二、三度両手でひっくり返しただけ。鼻の頭がポトリと胸もとに落ちるとあわてて人さし指でピンと鼻の汗をはじきとばした。「笑って下さい、ニッコリと」カメラマンが注文すると「そんなにうまく笑えないよ」とまじめくさって答えながらしぶしぶ笑顔をみせた。小さく安藤を取りかこんでいた輪もこれで解散。バスに向かう安藤は「笑えたって・・あれ営業用だよ」とまだ最後の笑顔にこだわっていた。
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渡会純男

2017-02-11 15:10:07 | 日記
1963年

意外なことが重なって思いがけないヒーローが生まれた。その第一は皆川のホームラン。投手ではバッティングのいい皆川だが、最近十試合で8三振。「どうせ打てないんならはなばなしく三振してやろうと第一打席からブリブリ振りまわしていたら、運よくジャスト・ミートしたんだ」第一打席は全部力いっぱいのから振りで三振。ホームランも二度大げさにから振りしてからだった。第二の意外は、それまで西鉄を四安打に押えていた皆川が九回二死2-0からロイに打たれたホームラン。「勝負を急ぐな。タイミングをはずせ」ベンチから鶴岡監督が大声を出し、野村が腰を浮かしたはずすつもりのボールだった。「左足を踏み出した瞬間、大きくインステップしすぎて足首が内側にキュッとまがってしまった。アッと足に気をとられたらスナップがおかしくなって棒球になってしまった。あんなこと一年に一度くらしかない」めったにない左足の奇妙な動きがなかったらロイのホームランは出なかっただろう。そのころ渡会はベンチの一番うしろでのんびり観戦中だった。九回裏若生が出てきたとき、まるで関係ない顔をしていた渡会に声をかけたのが岡本だった。「出る用意をしておいた方がいいぞ」下手投げ投手対左打者。島原を使ってもう左は渡会だけだった。二年前まではコーチと選手の間がらだった岡本と渡会。岡本のカンは当たり、渡会は岡本の言葉を監督命令のように聞いた。「岡本さんにいわれてそうかなあと思って、バットを振って待っていた。打った球はカーブかスライダーかわからんな。今シーズン代打で三打席目。いままでは安打と四球、失敗はなかったからね。きょうもうまくいくとは思っていたけど・・・」杉浦が名づけ親でナインやミッキー・ルーニーと呼んでいる。戦前からアメリカの青春映画の主役で有名な童顔の俳優だ。小さな顔に丸い目をキョロキョロ動かしてテれる渡会は、最後までベンチに残って道具をかたづけていた。
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三宅秀史

2017-02-11 15:00:01 | 日記
1963年

八回阪神が6-1とリードして、なお二死二塁、代打三宅(秀)が出たとき三塁スタンドの女学生の群れがキャーキャー声をあげた。三宅(秀)がちらっと見あげると約七か月ぶりの打席に立った。外角低目のストライクを見のがしてからつづけて3球内角のボールをこわそうによけた。五球目、また内角の直球。瞬間オープン・スタンスに切りかえて右前へライナーではじきとばした。「いやあ、恥しいな。三振するつもりだったのがヒットになるんだから」ひとりでテレたが、左目のことにはふれたがらない。視力についてはこんな答え方をした。「毎日二、三十本打っているが、まだほんとうのカンがつかめない。とくに外角の見きわめはむずかしい。きょうの第一球だっててっきりボールだと思っていた。まだ練習がたりない」問題は視力でなく練習量というわけ。「目のことより足、腰を慣らすことの方が大事なんだ。だから当分二軍といっしょにやる。一軍では遠慮せんといかんし、いまのオレは忘れられた存在だからな」さびしそうな言葉をうしろから梶岡コーチが大声で打ち消した。「ウエスタンでどんどん出てもらう。はじめは代打。半月もしたらスタメンで二、三回。一か月後には四番を打ってもらって・・・」三宅(秀)は笑った。「オレもヒットを打った日ぐらいでかいことをいうかな。すぐホームランだって打てるぜ」
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堀本律雄

2017-02-11 14:05:41 | 日記
1963年

最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインがワッととりかこんだ。「おおきに」「おおきに」大きな目をなおいっそう開いて、だれとでも握手をして頭を下げっぱなし。七回二死後、松並を歩かせたあとベンチから伝令がとんだ。だいじょうぶかそう聞く伝令をひとにらみで追いかえしてしまった。「いろいろとデータを調べてパの選手を研究したのだけど、みるとやるとでは大違いだ。じかにハダで感じとらなければ、いくらたんねんいデータを調べてもはじまらないね。一回に3点とられてしまったのは、まだ各打者をじかに知らなかったからだ」なれたらへっちゃらさそんな言葉をぐっとのみ込んだように目を白黒させた。「それにしてもひどいよ。審判の判定が全然なってない」新しいストライク・ゾーンの話になると、ムッとしたように怒りをぶちまける。「わしらは力で押し切るタイプじゃないんだから、コーナーボールをいいかげんに判定されたのではかなわんよ。同じコースがボールだったりストライクだったり・・。そんなあいまいな判定をいつまでもつづけられたのでは商売あがったりだ」そんな不満も初勝利の喜びの方が大きいのか、表情はすぐ笑顔にもどった。「きょうはかなり風があったのでサイドハンドの方がコントロールがつきやすいと思って徹底して横手から投げた。別にフォームをかえたわけじゃない」横手投げを押しとおした理由をこう説明した。五回は米田に同点ホーマーされてくやしそうにグローブをたたきつけた堀本だったが、試合後は「真ん中の直球がスイと高目にはいってしまったんだ。だれでも打てるボールさ」こともなげにそういってのけた。一回三十七球も投げて前途多難を思わせた堀本も、二回以後は例のヒョウヒョウとしたピッチングでスイスイ阪急の各打者を凡退させた。「一回は初登板ということもあってちょっと警戒しすぎていたようだ。二回以後は各打者の心理をのみ込んだ堀本らしい人をくったピッチングにもどって、すっかり阪急打線をケムに巻いてしまった。五回米田にど真ん中のボールを無造作に投げてホームランされたが、その悪いクセがでないかぎりかなりやるだろう」評論家の吉田正男氏のからい点は、かろうじて合格といったところだ。
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伊藤芳明

2017-02-11 13:53:54 | 日記
1963年

伊藤のオッチャンがホームランを打ったーこれはたいへんなことである。五回裏、先頭の伊藤が河村から右翼スタンドへホームランしたとき、巨人ベンチは「おおやったぞ」みんなびっくりして、イスからとびあがった。堀内や藤田が「やられた」「やられた」を連発している。プロ入り五年目で、初めて記録したホーマーだ。初ホーマーどころか、二百四打席目に出たホームランだ。しかも今シーズン初ヒット。去年まで四年間に長打といえば二塁打二本しか打っていない。巨人の投手は、自分たちの仲間がホームランを打つと、そのときベンチにいた連中が一人二千円出し合ってのその投手兼ホームラン打者を表彰することにしている。「やられた」とわめいたいのはこのため。ほかに五人いらから一万円いただきました。ワイフにおみやげ?いやいや、夫のへそくりです。貯金しようかな。しかしホームランというものは気持ちがいい。雲の上を走ったような気分だったね。何年もやってたら一度ぐらい味わわせてもらってもいいでしょう。ことしはまるで打てなくてね、実は心配していたんだ。本腰の調子がよくなると、副業の方はおろそかになるもので・・・。えへへ」本腰のピッチングもすばらしかった。四回までノーヒット、カーブのコントロールがよく、それにもまして低目の球がよくのびていた。今シーズン三度目の完投、二度目のシャットアウト試合だ。投げ終わったあと帽子のひさしが横を向くのがマウンドの伊藤のクセだが、この日は調子がいいのかあまり帽子も横に向かなかった。試合が終わって帰りのバスに向かう伊藤は、報道陣とファンと警備の警官にもみくちゃにされ、ダッグアウトからバスに向かうまでの約十五㍍に十分もかかった。「きょうはカーブがよかったね。初めはシャットアウトできるとは思わなかったのだが、五回藤井にポテン・ヒットを打たれてから気が楽になったよ。スピード?だんだん出てきたからな。広島が大振りしてきたからカーブがよくきいたのかな。それにしても初めはコーナーをねらったのがギリギリできまらず、困ったがね・・・」「オーイ、オッチャン。よくやったな」球場を出たとたん、ファンの人波からそんな声援が送られた。めったにこない金沢にまで伊藤のニックネームは知れ渡っている。たいしたものだ。これも伊藤流にいえば、五年もすれば全国にニックネームぐらいは知られなければ一人前といえないのだろう。城之内、北川、中村のエース級三人を使って負けた富山のアダを伊藤は一人でうった。
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堀本律雄

2017-02-11 11:34:13 | 日記
1961年

ゲームの前に堀本のところへ差し入れがあった。大阪にいる上の姉の山本誠子さん(38)からだ。いま流行のアンブル入り栄養剤。堀本はストローでそれをのむと足でダッグアウトの床をたたいた。「ああ、きいてきた」テレビのコマーシャルでよくきくせりふだ。ふつう先発前の投手はソワソワしているものだが、堀本はまるで違う。伊藤が報道陣の望遠鏡で熱心にスタンドをながめているとすかさずひやかした。「オッチャン(伊藤のニックネーム)いやに落ちつかないな。彼女がきてるんと違うか。それともオッチャンの彼女がアベックできてるんかいな。それやったらまずいな」マウンド上の堀本もずうずうしかった。むずかしいコースがボール判定されるとチラッと歯をみせる。球の切れもマウンドの態度も去年の堀本とまったくかわりがなかった。「マウンドで笑っていたかいな。そら気がつかなんだ。しかしきょうは気分がよかったな。球も思うところにいってくれはったし、カーブがよく切れた。この間の広島戦ではじめてシャットアウトしたけど、あのときよりカーブがよかった。カーブがようなればまあまあ安心やね。完投もしたかったけど、そら仕方ない。まだ余力は残ってたけどね」いままでの堀本はいつでも「まだあかん、これからや」といっていたが、ことしはじめてまあまあという言葉を使った。しかしそれ以上に力強いことはいわない。それでも「まだわからない」とか「こんどはKOされるかもしれん」といったあと「リバイバル・ブームに片足のりかけたといったところやな」とちょっぴりカムバックをほのめかした。評論家の天知俊一氏は「シュートがよくなってきたし、カーブも悪くない。あとはカーブのコントロールにもう一つの確実味をつけることだ」といっている。球場を出た堀本がバスへのりかけた。この夜は警戒厳重でファンは遠くから人がきをつくっていたが、堀本の顔をみるとたいへんなヤジがとんだ「堀本や。にくたらしいやっちゃ。アホゥ、こんどはおぼえとれよ」という男の声。最前列にいた女性ファンのはもっとすごかった。「なんや、けったいな顔して。好かんわ」阪神をがっちり1安打におさえ込んだからいいヤジがとぶわけがない。打線の爆発と堀本の復調。阪神には3タテといいことずくめ。巨人ナインのバスはそんなファンをしりめに威勢よくスタートした。
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山本久夫

2017-02-11 11:14:25 | 日記
1961年

東映のスコアラー宮沢氏のメモをみると山本(久)の項にはこんなことが書いてある。「対南海戦では下手投げの投手に注意すること。高目、胸もとに浮き上がる球に弱い。強いコースは低目」七回同点の左中間エンタイトル二塁打も宮沢氏のスコアブックには真ん中寄り低目のシュートとメモしてあった。報道陣にとりかこまれた山本(久)は「シュートです。真ん中の低目かな?」と宮沢スコアラーと相談でもしたような答えをした。12球、2-3後の球を打つまで三塁コーチス・ボックスの水原監督の姿を目で追いつづけていた山本(久)。「監督さんからてっきりバントのサインが出ると思っていたんですよ。それがなんにも出ないんでしょう。ちょっと気になってね」バントのうまいことでは東映一という定評があるだけに、すぐピンときたそうだ。「ずいぶんねばったじゃない?」という質問に「ニガ手の胸もとにくる球ばかりで意識してファウルするような余裕はありませんよ。無我夢中でしたよ」といった。自分でも12球もねばったことが不思議そうな表情。だがこれは山本(久)の報道陣用の返事らしい。六日の対南海戦の試合前、山本(久)はナインとこんなことを話していた。「ぼくは南海より西鉄の方が試合をしていてこわい感じがするな。南海相手の試合には重圧を感じないもの」山本(久)の腹の中にある根性の強さをチラリとみせた言葉だ。カメラマンの注文でもう一人のヒーロー武井と並んだ山本(久)のユニホームは真っ黒。泥と汗がこびりついている。「おととい(6日)からずっと午前十時開始の二軍練習に参加していたんですよ。打てないうえにエラーをしては監督さんやナインに申しわけないですからね」ナイターつづきのこのごろ就寝は午前零時になるというのに二軍選手と午前十時にはグラウンドに出て練習する努力の人でもある。「これくらいあたりまえですよ。エラーをしてがっかりするより、どれだけいいかわからない」というあたりリーグ№1の失策数がだいぶ頭にきているようだ。ベンチの上からのび上がったファンの「久さん、よかったね」という声に二、三歩帰りかけた山本(久)は「たまにはこんなこともあっていいでしょう」といってニッコリ笑った。
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権藤博

2017-02-11 10:51:25 | 日記
1961年

試合前権藤は報道陣となごやかに話し合っていた。「去年のいまごろはテレビで一生けんめい巨人を応援していたもんですよ。広岡さんの大ファンでね」新人にありがちな無口なところもなくよくしゃべる。石本コーチは「権藤は二日しか休んでいないのでムリは承知だが、きょうはぜひ勝ちたいので投げさせる」といっていた。最後の打者広岡を一ゴロにとりベンチにかえる権藤をナインはもちろん、報道陣やカメラマンがとりまいた。巨人から3勝目、それも連続2試合完封勝ちという新人ばなれした権藤は報道陣の応対になれたもの。ヒタイにうっすらと光る汗を指先でこすりながら「前半はウエートがのらずあまりよくなかった。四回高林、坂崎に打たれたのは真ん中高目に浮いた球でした。だから一、三塁になってから慎重に投げれば点はとられないという自信がありました。長島さんを投ゴロにとった球はまっすぐです。きっと意表をついたからでしょう」とよどみなく答える。「後半はスピードがのって球にのびが出てきた。点をとってくれたから楽でしたね。もう大丈夫だと思ったのは七回ごろ。巨人ですか?さあ、わかりません。とにかく一発屋が多いですね。やはり巨人には力がはいりますよ。最近のピッチングはほとんどストレートです。フォークボールはあまり投げていません」だれかが「いまの調子ならフォークボールも必要ないね」というとニヤッと笑って「そうでもないですよ。どうも・・・」といいながらロッカーへ引きあげていった。
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西尾慈高

2017-02-11 09:46:46 | 日記
1961年

西尾はソデの先がほころびかけているアンダーシャツを宝物でも扱うようにして着こんだ。腕のところがチーム・カラーのエビ茶のなっているほかはなんのかわりもないシャツだが、西尾にとっては大事なものだ。「たくさんアンダーシャツはあるけど、これを着ると不思議に勝つんです。もうきょうまでに4勝しているのかな。魔法のシャツですよ」許した安打はたった3本。しかも6勝無敗という勝ち星だ。ゲームが終ると権藤が西尾の背中につかまってピョンピョンはねあがった。西尾はこの権藤のへんな祝いを受けると捕手の吉沢のところへいってあいさつ。「あぶないところをありがとうございました」きょうの勝ち星はすべて吉沢の好リードのおかげというわけだ。「カーブのコースがあまかったし、あまりよくなかった。うまくリードしてくれたり、バックがよく守ってくれたからシャットアウトできたようなもんですよ。でもことしはコントロールがよくなったことが勝てる原因だと思いますね」ベンチの中はナインがすっかり引きあげてヒッソリしている。話がまだすなまいうちに西尾はソワソワしだした。「もういいでしょうか。みんな待っているから失礼します。なにしろまだ新人なもんですから」新人どころかプロ入り八年目というベテランだが、ほがらかな気ップのせいか、ナインの評判も非常にいい。登板しない日はベンチから秀逸なヤジをとばすことでも有名だ。アンダーシャツのジンクスをかつぐ西尾だが先日あるファンからもらったお守りをつけたらその日のうちにケガをしたそうだ。

西尾は島田(源)との対戦では1点を争うゲームになると考えたのだろう。はじめから全力でとび出した。ドロップの制球力は申し分なかったし、外角ストライク・ゾーンを切るシュートもみごとだった。打者が手を出せば内野ゴロになるか、ファウルになってカウントを不利にする。打者をイン・ザ・ホールに追い込んでしまえば西尾は低目、ヒザから落ちるフォークボールで凡ゴロにしとめるし、自信に満ちた投球ぶりであった。五回黒木に四球を与えてパーフェクトをのがし、七回代打橋本に初安打されてノーヒット・ゲームの夢も破られはしたが、西尾の投球内容はすばらしかった。七回一本打たれてからはやや気落ちした感じで投球はぶつかったけれども、シャットアウトだけはがっちりつかんだ。打者の打つ気をさそって変化球で凡打させるそのタイミングのよさは西尾ならではの感があった。投球数98。これではへばりも出まい。
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土屋正孝

2017-02-11 08:52:28 | 日記
1961年

国鉄に土屋(松本深志高)町田(長野北高)中村(松商学園)と3人の長野出身者がいる。だから国鉄が大変な人気。スタンドにノボリが10本立っていた。「がんばれ土屋」「冴えろ!円月打法」「歓迎土屋」といった土屋のためのノボリが6本と圧倒的だ。ベンチの上からからだをのり出し、黄色い声をはり上げて「土屋さん、土屋さん」とサインをせがむ子供が落っこちそうだ。サラサラとサインしながら土屋はニヤニヤ。「ああ、気分いい」巨人時代の水原監督が「何を考えているのかさっぱりわからん。まるで石の地蔵さんみたいな男だ」といつもいっていた土屋がこんなことをいうのだから、よほどうれしかったのだろう。感激した土屋は大当りした。5打席4安打の5打点。得点の半分をたたき出している。しかも五回には中堅越えにワン・バウンドでたたき込む勝越しの二塁打が含まれている。「おくにでやると緊張しちゃってね。からだがかたくなちゃうんだ」きょうはいいところで一発打ちたい、と試合前に思っていたそうだ。「応援してくれる地元のファンに、声援できる場面をつくってやらなければね。だからこれだけの芝居はぼくにはできすぎですよ。シーズンはじめによくて、だんだんボロが出てきたと思っていたが、まだぼくにもこれだけ打てる力が残っていることがわかったよ」冗談もまじえて声をはずませ土屋の話はつづく。「勝ち越しの二塁打は2-1後の、たしかシュートだったと思う。とにかくあまり打ったんでおぼえられないですよ」どうしてどうして、打った球もカウントもたしかなものだ。サインをねだる知人や子供をかきわけながらバットをベンチにとりにはいった。そしてまた「気持ちいい」とごきげんだった。バスに向かう土屋は「2年前にもここで一発やったですよ。あのときの相手は国鉄・・・。いやいまのウチですよ」といってから「若い投手だったとおぼえているが・・・」笑いでごまかして、だれだったかはいわなかった。
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吉田勝豊

2017-02-11 08:29:41 | 日記
1961年

「しゃくでね、一年生(徳久のこと)に4度もやられたんじゃあはずかしいですよ」ベンチに帰ってきた吉田は、ニコリともしないでいった。九回吉田が打席にはいっているとき土橋はベンチ裏でタバコをくわえながらあっちへいったり、こっちへいったり、ときおり立ちどまっては口の中でブツブツ。しかし吉田の打球がぐんぐんのびてバック・スクリーンにはいると「ヘイホー」と真っ先にとび出していった。東映のナインはホームを踏んだ吉田を、ヘルメットの上からゴツンゴツンとたたき、五連敗からすくったこのとめ男を祝福した。その輪から抜け出しても吉田の顔はなかなかくずれなかった。「本塁打したのは真ん中のストレート。カウントが1-3だったでしょう、とにかくつぎの球をねらった」と手ごたえを思い出したあたりから、ちらっと白い歯をみせた。「もっとも右翼線をと思っていたのが中越になるとは・・・」とサヨナラ・ホーマーはうれしい計算違いだったそうだ。マージャンでもここ一発の勝負に出るなど、その勝負根性は東映きっての持ち主。ロッカーに向かう途中、徳久のようなタイプは、という質問に「好きだとかきらいだとかいっていられませんよ、こんなときは」と大きな目をギョロリ。だがすぐ顔をゆるめて徳久評をやりだした。「いい投手ですよ。外角のスライダーがいいし、それにシュートをまぜるからいっそう効果的だ」と気持ちが落ちついてきたのかいやなヤツを敵ながらあっぱれだとほめていた。
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