プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

竹村一義

2017-02-09 22:41:15 | 日記
1974年

この日の朝、新品のスパイクをはいて初陣のコーチスボックスに立ったヤング阪急の上田監督。「勝敗はどうでもいい」と試合前語っていたが、一方的な大差で大勝するとさすがにうれしそう。「自分の思い通りの野球だった」とその喜びを隠そうとしない。春眠をむさぼるトラを一撃に倒して勇者は覇権奪還へ気迫のスタートだ。阪急は前日の高知キャンプまで若々しさ、ガッツ野球を目ざした。そしてこの初戦に「とにかく元気のある野球」を上田監督は目標にした。選手たちの動きも活発、ベンチの声合戦でも沈黙の阪神とは対照的に大声の連発。あの無口な長池も大声を出して守り、高井も初ホーマーを打ってホームインすると高々と帽子を上げるハッスルぶり。「試合内容はもちろんやが、元気でもうちが勝っとったぜ」-上さんは明るく大声で話す。「試合は当然相手が仕上がっていないのだから勝つと信じていたが、一回の正垣、大橋、中沢の連打による先取点の点の取り方といい、いうところなしや」と話し「やはりきょうは相手の不振とはいえ竹村、新井がよう投げた」と目を細める。その竹村、昨年大洋から阪急入り、たちまち8勝をあげ「ことしは一番期待する」と監督も目をかけている。球場から約1㌔、安芸郡安田町の出身。つい六年前、安芸高時代、甲子園を目ざして猛練習した。そのグラウンドで力一ぱい投げた。3回投げて被安打1、自責点0の文句なし、田淵には直球、シュート、外角カーブで3球三振「大洋時代ベンチから阪神打線を見ていたが、投げるのは初めて。それにしても阪急の紅白ゲームよりこわくない」と不敵に笑う。上田監督も「竹村はスピード、配球とも文句なしや」と単調な仕上がりに首をうなずかせる。がっちりとレギュラー入りの切符を手にした竹村。それにしても上田監督は福本が出るとすかさず二盗、投手には真っ向から勝負させるなど積極的な男らしいさい配ぶり。「ガッツが売り物。ことしは一本勝負で真っ向から突進するぜー」鼻息荒い青年監督だ。
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山田正雄

2017-02-09 22:00:55 | 日記
「今年はボクの再出発の年です」-今シーズン東京オリオンズの期待の星である山田はきっぱりと決意を示す一方自分自身にもいいきかせている。昨年の暮れ(12月2日)に相愛の仲であった藤延紀子さん(24)=青山学院大出=と結ばれ家庭をもった自覚もあろうがプロ入り6年目の昨年、代打が多かったが素質があると認められていた打撃にようやく花咲かせて遅まきながら自信を持ったことが大きい。山田正雄ーその名はまだ大向うなうならせるほど署名ではないが東都のベースボール・ファンならあるいは明治高校の左腕投手としてのご記憶があるかも知れない。それはともかく今春のハワイ・キャンプの当り屋だといわれ今シーズンのオリオンズの成長株で気の早い連中は新しい五番打者誕生!と責めていた。そして濃人監督もオープン戦一戦(対阪神)に彼を五番として起用している。もっともこの試合には快打がみられずなでるようなバッティングにはもの足りなさが感じられた。キャンプではよく打ち練習では馬鹿当たりするが本番になると腕がすくむーこれでは心もとないが彼にとって大切なのは一試合にでも多く試合に出て実戦に役立つバッティングを肌で感じとることだろう。プロ入り七年目ーしかも今年は年男。真価を発揮するためにも条件は揃った。アルトマン、ロペスを加えて久々に優勝をねらう東京オリオンズ。彼にも攻撃部門の一躍をねらうヒーローになってもらいたい。それには山田自身も悲願としている常時出場いかんが問題となってくる。二外人によって活躍の場がちがってくるがこれにつづくのが池辺西田井石得津とライバルも多くその前途は厳しいが彼には2年間の闘病生活も克服した不撓不屈の精神と貴重な体験があり隠れた闘志でこの難関を突破していくことだろう。山田正雄は東京は港区青山5の6の18の現在の家で昭和19年9月6日に誕生した。父仲司さん(64)母千代さん(54)の一人息子。当時は戦争も末期で苦しい状態だったがそれだけに両親は何としてでもこの子を大きく育てあげたい信念でいた。やがて終戦ーミルクも容易に入手できない混乱期であったがその逆境にもめげず一人息子はスクスクと育ち両親をホッとさせたのである。青南小学校から青山中学と山田はスポーツ好きの少年時代を送った。とりわけ野球には目がなく三度のメシよりも大好きという打ちこみようであった。また野球に限らず水泳も得意であったという。父も母も一人息子の可愛さも手伝って彼には好きなことを思いきりさせてやろうという主義であった。青山中学ではピッチャーで四番打者として活躍。3年のときには来日したアメリカの高校チームとの一戦にオール東京の4番バッターとして選ばれている。この当時から二、三の高校から勧誘をうけている。そして高校も野球なしでは考えられず甲子園出場の夢を託して名門明治高校の門をたたいた。明治高は開校50年の歴史を持ち伝統ある野球部があった。難があるといえば都心の学校だけに土地がせまくグラウンドらしいグラウンドもなく結局練習は兄貴分の明大グラウンド(当時杉並区和泉町)を借用してやらなければならなかった。しかし若者たちにとってそうした不便さもあまり苦にならなかったようである。明高の猛練習は全国にその名をとどろかしていた。松田龍太郎監督(当時)の練習法はとても厳しいものであった。正月三が日をのぞいては雨の日も風の日も練習はつづけられた。山田のこの松田式スパルタ練習によってピンチも動ぜぬ強い精神力が養われていったのである。一二年は打球を生かして外野手として3番を打っていたのだがその左腕を惜しんだ。松田監督が投手にコンバートした。2年の秋である。左腕からくり出す速球は東京の高校界では№1といわれるほどだった。投手に転向した2年の秋の新人戦では一試合18三振奪取という快挙もやってのけている。このとき東の山田、西の林といわれるほど中京商から南海入りした林と並んで高校球界屈指の好投手と言われている。しかし最後の夢とたのんだ夏の東京予選ではライバル法政一高に敗れ去って甲子園の道をとざされた。甲子園がだめなら神宮球場でーというのが野球選手の夢である。しかも明高はエスカレーター式に明大に進学できるという特権がある。だが家庭の事情で大学進学をあきらめねばならなくなったとき大毎オリオンズからの誘いになった。最初のうちは苦学してでも大学進学を主張していた山田だったが片岡スカウト(現阪急)の熱意におされてプロ入りを決意し神宮球場への夢をすて去ったのである。37年秋であった。もちろんファームで鍛えられるのは覚悟のうえでほとんどをイースタン・リーグでがんばった。当時の大毎のファームは強力で西田石谷迫田辻野といった若手をどしどし一軍に送りこみその使命を十二分に果たしていた。監督はカイザー・田中氏であった。 天性の素質にめぐまれた山田は着実に伸び研修明けと同時に一軍のベンチ入りしてしばしば好打を放っていた。ところが入団一年目のシーズンが終り秋季練習が行われたころ山田は予期せぬ病魔に襲われて五カ月間の闘病生活を送ることになった。急性肋膜炎の診断であった。体が資本であるプロ選手が胸を病むーこれは致命的なショックだった。彼は暗い毎日を日本女子医大の病床で送っていた。だがその闘病中かれの焦燥を救ってくれたのは一度は三枚目近くまで落ちながら幕内までカムバックした松前山関の敢闘であり、この子は将来性がある。病気が全快するまで絶対クビにしないで欲しい。もう一度チャンスを与えてやってくれと会社に懇願してくれた本堂監督の愛情であった。半年近くの入院、一年半の自宅療養ー冷たいといわれるプロの世界でこれまで球団が面倒をみてくれた例はないのではないがその陰には本堂氏の遺言も効果があったと思うが日ごろの彼の人間性を周囲のだれもが買っていてくれたのではなかろうか。またそれに応えて昨年みごとに再起した。昨年の成績は112打数26安打打率・228であった。開幕もまじかい。今シーズン山田の名がスタメンから聞かれるように彼の両親、愛妻とともに祈ろうではないか。
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ケキッチ

2017-02-09 20:48:44 | 日記
1974年

「まだとても興奮している」来日初勝利を完投で飾ったケキッチは、突き出されたマイクに声をはずませた。投球数157。三振11、四球6つも荒れたピッチングではあったが、球威は最後まで落ちなかった。基にやや気を抜いた半速球をホームランされたものの、あとはつまった当たりの右前打と、内野安打3本。力でねじ伏せた完投だった。このケキッチ、初先発した南海戦では、日本の蒸し暑さにやられて「体中の塩がみんな出てしまった」の珍妙なせりふを残して降板したが、この夜は涼しさに助けられて、あまり汗もかかずにさっぱりした表情。「きょうは塩はいらなかった。でも最終回、足にちょっとこむら返りが起こって痛かった。イタイネ」と、覚えたての日本語で愛きょうをふりまいた。アメリカから日本にくるまで、二週間ほど実戦から遠ざかっていたため、調子はいま一つだそうだが「これから投げ込めばもっとよくなる。そうすればワンサイドで勝つことも出来るよ」と自信たっぷり。初勝利の喜びに加えて、十九日にはマリリン夫人と、二人の子供たちが日本にやってくる。ヤンキース在籍時代の一昨年、同僚のピーターソン投手とのスワッピングで話題になった夫人と子供たちだ。「昨年、ベネズエラ、コロンビアと南米に行ったときには、家族をアメリカに置いたままだった。今度は家族と一緒に日本を見れる。ベリー・ハッピーね」と優しい気遣いを見せていた。
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ケキッチ

2017-02-09 20:35:22 | 日記
1974年

貧打の続く後期の太平洋。初対面のスワップ野郎。ケキッチにもあっさりギブアップだった。初回二死から2四球を選んだが竹之内三振。二回は基、菊川、楠城のバットが連続で空を切る。三回は伊原の安打から3四死球で押し出し点ーとにかくノーワインドアップから投げ込む球にはコントロールのリズムがない。つまりストライクが続くかと思うと突如ボールが並ぶ、荒れるかと思うとストライクがはいる、そしてタマは「ズシンと重い」(福浦スコアラー)。ライオンズの選手たちは的がしぼれないままボールにも手を出した。「日本の投手とはタイプが違うね。みんなシュート回転してくるし重い。速いという感じはないが適当に荒れるから打ちづらいよ」後期六試合でまだノーヒットの竹之内は完全にお手上げのゼスチャア。つまった当たりの多い打球の中でただひとりスタンドアーチをかけた基はちょっと違う見方をしていた。「そう重い感じはなかった。シュートがいい、あの球にだまされるんだ」それはともかく157球を投げたケキッチに11三振も奪われて稲尾監督はおかんむり。ベンチでは前半ストライクをとられるまで待球主義の作戦を取ったり、あれやこれやと手は打ったが、結局はあれだけに幻惑されてしまったようだ。「日本に来た外人投手は来日当初で比べると一段といいようだ。スタンカやバッキーは日本でうまくなったからな、まあまずまずの投手だよ、しかしああ敵に協力しちゃ勝てんよ」つまりライオンズの選手がみなボールに手を出してケキッチを助けたというわけだ。「的をしぼりにくいこともあるが今度あったら絶対打ち崩さないかんな。いや打ち消すよ」となかば自分に言い聞かせるような口ぶり。神部、鈴木と近鉄左腕と苦手とする太平洋、またひとりのいやなやつが出て来たものだ。
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井上善夫

2017-02-09 20:11:16 | 日記
1969年

西鉄から巨人に移った昨年、四試合に登板して5イニング投げただけ、以後はバッティング投手になりさがっていた井上善が好投した。第二試合の四回、2-1と広島が逆転したところでリリーフに出て、その後を1安打2四球に押え、1点差を守り切った。近鉄でコーチをしていた根本監督には西鉄のエースとしてのイメージがある。「この男はまだまだ使える」と見込み、キャンプではコーチよりも監督がつきっきりで指導、下がっていた腕をスリークォーターに戻した。広島が最後の野球生活という井上善は、監督の期待にこたえるべくフォーム固めに取り組み、一日四百ー五百球のノルマにも耐えた。体重はキャンプ・イン数日で七㌔も減った。しかし、オープン戦の中盤ごろでは、復調の見通しはまだまだ暗いものだった。十五日の阪急戦に2イニング、二十五日の南海戦に4イニング投げてともに無失点だったが被安打は6。リリーフしたばかりの五回、先頭浜村を2-2からカーブで、村上も同じカウントから内角直球でいずれも三振に仕止め、九回までをピタリと押えたのである。井上善は「インコースへ思い切って投げたのが成功したが、捕手の田中さんのリードもよかった」と新人のようにけんそんしていたが、根本監督は「まだフォームに気を使っている。もっとスピードが出るはず」と欲の深いことを言いながらも「内角で勝負できるようになったのは本物」と目を細める。第一試合で完投勝ちした安仁屋とともに広島の守りの野球にまた一つの柱ができたといえそうだ。
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