プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

近藤重雄

2017-02-19 21:09:31 | 日記
1971年

入団発表に現れて近藤投手は、さすがに落ち着いていた。新人の入団発表という若々しい希望にあふれた中にもどこか浮ついているものだが、近藤投手にはそれがまったくない。「ノンプロでは先発完投だったが、プロにはいったらそうもいかないでしょう。打順ひと回り、押えればと思っています」長いサラリーマン生活が自分をわきまえさせるようになった。ロッテが指名獲得したのも「3イニングをピシャリと押えられるし、即戦力になる」(田丸スカウト)と判断したからだ。それを裏づけるように近藤投手はいう。「セ・リーグではち密な野球をやるが、パ・リーグでは少々荒っぽい。私はシュート、スライダーを得意にしているのでパの方が通用すると思います。ロッテでよかった」もし、指名したのがセ・リーグで、先発完投という期待をされたらプロ入りはしなかったという。しかし近藤投手はこのドラフト会議で指名されなかったら、やはりサラリーマンを続けただろう。福島県石川郡の学法石川高から三十六年、日本コロムビアに入社した。それ以後は同チームの主戦投手として活躍。三十九年には夏の都市対抗で久慈賞を受賞したこともあった。だが、ことしにはいって本社が経営不振になり、九月に野球部は休部した。二十五人いた同僚のうち六人以外は転職、近藤投手を含めた六人もちりぢり。近藤投手は、オリオンズにいた山本管理課長の力で川崎工場から本社に転職した。そのころ、会社側は希望退職者を募りだした。「私もそこで考えました。このままでは将来が不安になると思いましてね。就職さがしをはじめたんです」なんとも身につまされる話だが、そのときの月給六万円少々。かほる夫人と圭子ちゃん(三つ)をかかえた生活もある。しかし、好きな野球はやめたくない。一時は軟式でもと思い、話を進めたこともあった。それに、サラリーマンといっても、つまるところやはり野球選手。一年の半分以上は本職の事務はとっていない。「そうかといって、おいそれと野球のできる職はないしと思っていたんです」そんなところへ、ロッテの指名が降ってわいたわけである。だが、近藤投手はまたまた考え込んでしまった。「野球は好きだが、プロとなるとねえ。プロは厳しいですからね。生半可な考えではやっていけないですもの」この入団発表の前日の二十九日、近藤投手の会社日本コロムビアは再建整備のため、約千二百人の希望退職者計画を完了した。同じ日、永田ラッパの大映は遂に解散に追い込まれた。それもこれもドルショックの不況嵐が年末の町を吹き荒れているからだ。厳しい世の中である。サラリーマン世界も負けず劣らずに厳しい。確かに近藤投手は瀬戸際に立たされた。だが、厳しいがプロ野球というはなやかな世界への手がかりをつかむことができた。やはり幸運にめぐり会えたといってもいいのではないだろうか。「これまで女房に苦労させていたし・・・」瀬戸際に立たされた男の度胸が、来季のマウンドでどう出るだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷口勝範・小林誠

2017-02-19 20:14:36 | 日記
1963年

国鉄球団は三十日、つぎの二選手の入団を内定した。

谷口勝範投手(19)=駒場学園卒、身長1㍍81、体重75㌔、右投げ、右打ち。
小林誠外野手(18)=福島県保原高来春卒業、身長1㍍75、体重75㌔、右投げ、右打ち。

なお、谷口投手は高校卒業後、埼玉県川口市のノン・プロ永幸工場で投げていたが、ことしの七月、野球部が解散したため、国鉄のテストを受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福原勝

2017-02-19 20:04:13 | 日記
1965年

近鉄の福原は前半は内、外角低めに速球を散らしてゆさぶり、後半はスライダーをうまく使って東京打線を4安打の散発に押え、さる三十六年五月二日の対大毎4回戦(横浜平和球場)で救援勝ちして以来、四年ぶりの2勝目を初の完封であげた。近鉄は六回矢ノ浦、山本八、小玉が妻島の外角高めのタマを3連打して先取点。八回には二死一、二塁から高木が一塁強襲の二塁打を放ってとどめをさした。

福原が東京十五回戦でプロ入り初の完投勝ち。しかも完封でこの白星を飾った。七年前プロ野球に飛び込んだ福原だが、この間70試合に登板、勝敗はわずか一勝四敗。だからこの日の勝星で二勝目。なにしろ、さる三十六年五月二日の大毎四回戦(横浜平和)で救援の初白星をあげて以来のものだけに「やはりうれしいです」とニッコリしていた。前日、伊藤が二年ぶりに今シーズン初勝利を飾ったが、このところ、伏兵大活躍の近鉄投手陣である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安部和春

2017-02-19 16:12:41 | 日記
1967年

オープン戦とはいえ、同一リーグ、しかも昨年の二位と三位の顔合わせ。公式戦なみのふんいきがあった。この両者、過去二年間の対戦成績は四十年が14勝13敗で阪神、昨年は逆に中日が15勝11敗と勝ち越している。試合前の打撃練習から西沢、藤本両監督の目の色はすでに違っていた。キャンプで鍛えこんだ中日の燃える野球と阪神の機動力に両監督は互いにさぐりを入れた。とくに阪神は昨年このカード10回戦までに、わずか2勝しかできなかった。藤本監督はグラウンドにくるなり、こういった。「中日は前日に先発メンバーを発表したが、うちは手のうちはみせません。メンバーを落とすかもしれん。しかし、負けられん」こういう藤本監督であるが、ことばことばとはウラハラにベストオーダー。やはり負けたくはなかったし、中日の力をしらべてみたかったのだ。試合前になって初めて安部に先発を伝えた。本番でこうした、抜きうち登板があることを安部に予告したのではなかろうか。昨年、安部は中日戦では1勝1敗、防御率が12回1/3で3・50、この1勝も最終戦でやっとつかんだものだった。中日に強い他の投手に投げさせず、あえて安部を起用したのも、中日に一つの自信をつけさせようというふくみが多分にあった。安部は六度目の登板ではじめて6回1/3も投げたが、よかったのは得意のアベボール。風も変化球に有利、阪神に移籍以来、久しぶりに見せたすごい落ちるタマだった。「なるほど、よく落ちる。こんなタマを持っている安部には気をつけないかん」と江藤はアベボールを再認識。代打ホーマーをカッとばした葛城は「落ちるタマはすごいが、昨年と同じようにフォークボールは決まらない。ワシがねらったのはフォークボールだった」とフォークボールのコントロール不足をすばやく見ぬいた。昨年、16回代打に出て5打席連続安打をはじめ6割6分7厘と驚異的な代打率を上げた男。たった一度の打席で安部の長所と欠点を頭にたたきこんでいた。中日は、近鉄から移籍した久保を投げさせた。自ら手のうちを公開する半面、阪神打線を相手に久保がどのようなピッチングをするかを西沢監督はテストしたようだ。阪神は、久保のタマにててこずった。「久保のシュートと落ちるタマはいいネ」西沢監督は収穫はあったといったえみを浮かべた。一方の、藤本監督はムッとしていた。勝つには勝ったが、四番までの上位打者がそろいもそろってノーヒット。腹が立ってしようがない。それを考えると相手のことを調べるひまはなかった。同じように、西沢監督も、阪神の手のうちは見られなかったという。だが、これは外交辞令のように見受けた。試合が終わると両監督は申しあわせたように、自軍のスコアラーになにかを書き込ませていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矢ノ浦国満

2017-02-19 14:55:28 | 日記
1967年

試合後、飯田監督は全員に落第点をつけた。エラーは出る、点はとれない、東都初登場のゲームというのに・・・。そんあかで、たったひとり、矢ノ浦だけが合格点をもらった。六回表、伊藤から左翼席中段へ2号ホーマー、守っても白、大杉のヒット性の当たりを、二度もきれいにさばいた。「右足太ももの痛みがなくなったから、バッティングでも守備でも思い切ったプレーができる。つまり調子がいいってことでしょうね」ヘルメットをいじくりまわしながらテレくさそうに話す。「ホームランしたのは直球、いいタマだった。手ごたえ?あったよ」この日3打数1安打でオープン戦通算は3割7分5厘、八位ベスト10に、アトムズでたったひとり名をつらねている。昨年までの矢ノ浦なら、ホームラン1本で満足したろう。が、ことしは違う。八回表、無死一、二塁で森安から見のがしの三振を食らった。「あのタマ、ほんとうにストライクか。カーブが外角へはずれたと思ったけどなあ。2-3だから、四球になっていれば、試合はどうなっていたか、わからないぜ」勝負への意欲が燃えているようだ。守ってもこの試合の矢ノ浦はピカ一。六回裏には一死一、二塁で二塁走者を矢ノ浦はみごとなカクシダマにひっかけてアウトにした。「青野が下を向いておしゃべりしているから、チャンスだと思ったのさ、二塁手の武上からタマが回ってくるまで、全然考えていなかった。投手が若手の浜口だろ、うまくごまかしてくれるといいがとひやひやしていたヨ」何度思い直しても愉快なのだろう。クスクスとふくみ笑い。長い湯之元キャンプ、それにつづくオープン戦から帰った直後だけにこの日のナインの動きはにぶかった。「オレだって東京に帰ったらバテたヨ。だけどこども(聖ちゃん=(2つ))の顔をみたら元気がでたネ。だってキャンプに出る前とくらべたら、グンと大きくなってたもの」四十日たらず。それほど変化ないはずなのに矢ノ浦は聖ちゃんがかわいくてたまらない。帰りぎわ矢ノ浦はもう一度こういった。「いいおみやげができたヨ。東京の第1号ホーマーだものネ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元産経テスト生

2017-02-19 12:37:59 | 日記
1967年

サンケイアトムズは十一日午後四時三十分、東京・有楽町の球団事務所で元広島カープの関根勇捕手らテスト入団者九選手を発表した。残る内定の五選手は、手続き上のつごうで後日発表される。これらのテスト入団者は十一月十九日と二十六日の二度にわたって行われたテストの結果、合格ときまったもので、来年の一月十日にはじまる自主トレーニングから練習に参加する。この日午後三時に球団事務所に集まったテスト合格選手は、会長室で一人ずつ岩佐海蔵常務取締役と対面契約をすませた。あこがれのプロの門をくぐれるとあって、各選手とも緊張した面持ち。それでも発表の席では、みんな胸をはって「早く第一線にでられるようがんばります」と精進を誓っていた。発表された九選手の内わけは投手が五人、捕手一人、内野手三人である。政山投手は神奈川大を中退して、リッカ―ミシンに入社、その後林建設に移った。金城投手は今春の奈良県大会で、奈良商工を相手にノーヒットノーランの怪事をなしとげている。ことしの成績は97イニング投げて奪三振129。連続11三振奪取の記録も持っている。バッティングもすばらしく本塁打7、3割4分9厘の高打率を残している。関根捕手は大阪高からノンプロのPL教団を経て、三十九年広島カープに入団。芽がでず四十年のシーズン終了後退団した。アトムズで新天地を開こうというわけである。

関根捕手の話「二年間のブランクがあるので・・・。自信はまだまだだが、一軍入りできたら何としてもカープとの試合にがんばりたい」

荻原投手の話「まだピンときません。とにかく一生懸命がんばって一軍入りしたい」

関口内野手の話「プロにはいったからには一軍入りが目標だ。悔いのないようにがんばる」

古川内野手の話「野球は大好きで小学校時代からやっていた。一軍入りを目標に一生懸命がんばりたい」

寺沢投手の話「プロでやりたいと思っていた。合格する自信はあったが、通知をもらうまでは心配だった。高校時代から速球には自信を持っている。早く一軍で投げられるようがんばる」

金城投手の話「プロ選手になったという実感はまだわかない。むしろ不安の方が多い。でもきまったからには力いっぱいやりたい」

小松投手の話「中学時代から野球はやっていた。プロにはいれるとは・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

種部儀康

2017-02-19 09:43:58 | 日記
1969年

巨人の種部が南海にトレードされることになった。昭和三十七年に鳥取県の倉吉農高から米子鉄道管理局を経て、巨人入りした。二年間多摩川でファーム暮らしを続け、三十九年には一軍入りを果たし、念願の一勝をマーク。翌四十年には自己最高の四勝をマークした。サイドハンドから繰り出されるコーナーぎりぎりをつくクセ球(とくにシュート)には威力があり、各バッターからは嫌がられるピッチャーとして、活躍したが、その後巨人ではあまり陽の日をみることもなく、もっぱらバッティング投手として巨人打撃陣の縁の下の力持ち的な役割を果たしていた。南海の新監督になった野村は「この貴重な投手を埋もれさせるのは惜しい」と、巨人側がトレード要員にしているのをいち早く察知して、譲渡を申込み、金銭トレードが成立。契約金は二百万(推定)だが「ワンポイントやリリーフに貴重な戦力として期待される」(野村監督)種部である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泉嘉郎

2017-02-19 09:33:11 | 日記
1969年

南海・泉はプロ入り六年目で初勝利をマーク。オープン戦で2勝、成長ぶりが認められて、初先発が開幕投手という栄誉をになったが、緊張しすぎて打ち込まれた。この日のリリーフが二度目の登板。予定にははいっていなかったそうだが、急きょマウンドにあがって、三回から九回まで投げ終えた。若い力の台頭に、ナインは総出で祝福。泉は顔をくしゃくしゃにして頭をさげどおしだった。「シュートがよくきまりました、飯田のホームランはカーブ。無造作に投げる悪いクセです」と反省もしたが、「これで、ますますやる気が出ました」と苦節六年目にめぐってきた春に感無量。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする