プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

橋詰文男

2017-02-27 22:39:47 | 日記
1966年

昨年暮れ、東映を自由契約になった橋詰文男投手(29)=身長1㍍77、体重72㌔、左投げ左打ち=が、サンケイアトムズの秋季練習に、十一日からテスト生として参加した。約一年間、大阪で兄さんの会社を手伝っていたが、ユニホームへの愛着が断ちがたく、こんどテストをうけることになったもの。飯田監督、中原ヘッドコーチらにこってりしぼられた橋詰は「トレーニングをしていなかったから、ヘバった」といっていた。アトムズでは、投手としての力量をみることになっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋詰文男

2017-02-27 22:32:39 | 日記
1964年

一口にリリーフといっても、大きく分けると、ロングとショートの二つに分かれます。そのうちボクには、ショートのほうが適しています。なぜか? となると、説明しにくいのですが、プロ入り以来そうした使われ方をしてきたから、慣れ切ったせいかもしれません。学生時代は、もちろん「完投主義」でしたが、カーブさえ投げていればまず大丈夫だったからです。ところがプロは、そんな具合に簡単にいきません。目先きをかえて、いろいろな球を投げるわけです。それでもボクの球が、もっとスピードがあれば、ロング・リリーフか、完投も夢ではなくなるのです。がなにせスピードが足りないのです。しかも無理してスピードを出そうとすると、手ごろになったり、球のキレがかえって悪くなります。そこでロング・リリーフは、よほど好調でない限り、うまくゆかないのです。やっぱり好きなのはショート・リリーフです。このショート・リリーフの中にも、①ワン・ポイント、と②このイニングのケースと、③2イニングの場合があります。しかしこれなら、どちらでも十分いける自信を持っています。あらかじめ監督から指示が出ますが、かりに指示がなくても、ブルペンにいて三つのうちのどのケースかは、状況次第ですぐわかります。というのは、ボクの場合は「左打者用のリリーフ」が多いから、このときの左打者だけか、それとも次に右がいて、また左がいる場合はそこまでとか、すぐピーンときます。以上のような関係から、ボクは重点的に左打者(関根、榎本、ブルーム、杉山さんなど)を、研究することになります。初球からよく打ってくるひと、杉山さんのように、なかなか打たないひと、打ち気のときは表情が違う関根さん、カーブばかりをよく狙ってくるひと・・・など、十分知っておかねばならない材料です。案外左打者に、カーブを打たれているのは、打者がシュートを捨ててカーブを狙っているか、それともカーブの数が、シュートや落ちる球より、多いせいかもしれません。ところで、登板時機は、大抵ランナーがいるピンチです。だからブルペンの準備も、圧倒的にセット・ポジションです。捕手にも、投球のキャッチボールがすんだら、すぐ構えてもらって、ただちに変化球の練習に入ります。大抵20球ほどの練習で、準備OKです。最初にお話した通り、学生時代はこんなふうでなかったのですから、習慣さえつければ、大抵のひとが少ないウォーミング・アップでいけるようになるはずです。しかし問題は、過不足なしの練習量が、一番大切です。だから試合の状況判断が、肝心な要素です。待ちくたびれては精神的にイライラするし、実際肩も冷えます。あくまで、グッド・タイミングの選定が、成功のカギともいえましょう。更にもう一つは、第一球(またはファースト・ストライク)が勝負の半分をにぎる、ということです。そこで、バッターが極端に打ち気にきているときは別にして、まずストライクをとって、打者を追い込む自信を持つことです。しかも、そのストライクは、どんな変化球でもとれてこそ、効果が大きいのです。こうして打者より気分的に優位に立つと、失点を妨げて、火消しの役が務まることが多いのです。ことしもボクは、リリーフで頑張ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東条文博

2017-02-27 21:34:43 | 日記
1969年

昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人兄弟(兄五人、姉一人)の末っ子という甚だ恵まれない環境に育ったのである。御多分にもれず幼い頃からの野球好きであったが鹿児島に帰ってからも当時のわが家計からはとてもボクのグローブを買う余裕なんてなかった。そこで小学校の先生にたのみこみやっとボクの小さな願いがかなえられた。もちろんスパイクなんて代物は金があろうはずもなく素足のトレーニングである。下伊集院小学校から東市来(いちき)中学校に進んだボクはなんのためらいもなく野球部に入った。練習にあけくれてとても勉強どころではなかった。中学二年のときには「野球でメシを食う」決心をし野球好きの三番目の兄貴は大いに後押ししてくれたが両親は猛反対。けっきょく兄弟力を合わせて両親を説得することに成功した。中学時代は投手をやり年間六つの大会のうち五回は優勝するという好成績を残した。そんなボクであるから授業中は睡眠にこれ務めて放課後のトレーニングのスタミナを十二分に貯えていた。ある日苦手中の苦手であった数学の先生にこっぴどく叱られた。「大事な授業に眠っているようじゃプロで通用なんかせんぞ!」この怒りがかえってボクをふるい立たせたのである。人間ちょっとしたキッカケで運命がかわるものである。名門・鹿児島実業から「ゼヒわが野球部に・・・」という願ってもない勧誘にボクは喜びいさんだ。「これでプロ野球への足がかりが出来るかも・・・」と内心ではずいぶん欲張っていた。ところが一年間で肩を痛めてしまいサードにコンバート。三年のときに南海の九州地区担当の石川スカウト(現コーチ)からプロ入りの話があり即座にOK。広島からも誘いがあったが優勝の可能性ということから考えてボクは南海を選んだ。三年目にファームの成績が良かったので待望の一軍入りをはたし前途のかすかな光明に自己満足していた。しかしながらその年蔭山さんの死それに南海のチーム事情がからんで岡本、中原両コーチそれにボクと無徒がサンケイ(現アトムズ)にトレードされることになった。正直いってプロ生活にようやく自分の生きがいを見いだした矢先だけにショックであった。それから四年たった現在トレードされた後悔はミジンもない。ザルといわれた内野守備にも自信がついてきた。どんどん打ちまくるだけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊川昭二郎

2017-02-27 20:51:13 | 日記
1974年

九回裏、中前にサヨナラ打を放った菊川は、うれしさを隠そうともしない。「無死だったので、気分的には楽だった。皆川はあまりよく知らないが、カーブが甘いようなので、カーブにヤマを張った」という。無死満塁、フルカウントからの6球目にすべてをかけた菊川の読みは当たった。「見逃せばボールだった。でもアウトコース低めの好きなコースに、思ったとおりのカーブ。思い切って振ってやったよ。押し出しして勝つよりも、ヒットしたほうがカッコいいからね」-。貯金ゼロの太平洋を救った菊川の表情はさわやか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊川昭二郎

2017-02-27 20:45:59 | 日記
1973年

この日、稲尾監督は打線に手を入れた。ビュフォードを三塁にコンバートするなど、やりくりして東田を三番、福富を六番に置いた。太平洋にしてみれば基を負傷で欠いたとはいえ「最上級のオーダー」(関口コーチ)これで華々しく打ち勝つ計算だったろうが、皮肉にも打の主役になったのは下位の七番を打った菊川だった。復調になった江本にやや押され気味の太平洋。四回までわずかに1安打とサッパリ。そんなところで三塁側の歓声がドッと沸いたのが五回。二死後1-1から菊川の一打は左翼席にはずんでいた。「まさか」そんな表情で打球を見送った江本。「失投だ。ナメてかかっていたのがいけなかった。畜生ッ」南海の大黒柱に地団駄踏ませる菊川の一発だった。すがすがしい顔でベンチに引き揚げてきた菊川は「内角の速球でした。ねらったって?冗談じゃない。ワンヒットするつもりでした。でも最近ポイントが合っているのは確かです。いつもヒットコースに打球が飛んでいるからね。ウフフ」今季初ホーマーにやはりうれしさを隠せない。八回には左前打の福富を置いて、こんどは西岡から一、二塁間安打と巧打者ぶりを披露。「エンドランはサインどおり桜井が二塁カバーに入る気配だったので流し打った。しかも外角にスライダーがきたのでもっけの幸いで振った」とまくし立てながら目は左翼席のほうをジッと見ていた。ホーマーの味を確かめるようだった。「いい風だったネ。打った瞬間手首に感じたもんネ」打撃30傑とただ一人。ノー本塁打だった菊川は「これで何とか格好がついたナ」顔は笑いで照れっぱなしだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする