プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

門野利治

2017-02-26 23:33:26 | 日記
1967年

近鉄バファローズは、三十日午後三時から、大阪市東区森之宮の球団事務所で、芥田球団社長、須古球団部長、父親久吉さん(61)立ち会いのもとに、平安高・門野利治投手(18)=身長1㍍78、体重70、左投げ右打ち=の入団発表を行った。背番号は「18」。門野投手は二月一日からの明石キャンプに参加する。門野投手は平安高のエースとして、昨年の春、夏と連続甲子園のマウンドを踏んだ。夏の大会の地区予選では、対堀川高戦にノーヒット・ノーランを記録したほか、昨年五月五日の大阪学院との試合では江夏(阪神)と延長16回を投げ合い、26三振を奪うなど左腕の本格派投手。近鉄は昨年十一月八日の第二回新人選択会議で第一位にランクして交渉権を獲得。一度は進学に傾いていた門野を、二ヶ月にわたる熱心な勧誘が実って入団にこぎつけた。近鉄では、ことし獲得した加藤英夫(中京商)加藤英治(PL学園)とともに、将来を背負って立つ投手として期待している。

芥田球団社長の話 「これで今シーズンの補強はすべて完了した。とくに若い有望な投手が入団してくれたので投手王国をつくるだけのコマはそろった。かれらには順調にのびてくれることを期待している。とくに門野君は左腕であり、鈴木とともに、左打線封じに活躍してもらいたい」

ープロ入りに踏み切った理由は。また、近鉄について予備知識は・・。
門野 いろいろ考えましたが、最後は父親の意見に従いました。しかし、自分でも一度プロでやりたいとは思っていました。近鉄についてはなにも知りませんが、みんな若そうですし、いいチームだと思います。
ーキャンプには、いつから参加するか。不安はないか。
門野 最初から参加します。でも、はたして自分の力でやっていけるだろうかという不安でいっぱいです。
ートレーニングはしていたか。
門野 ことしになって、五日から毎日支度近くの山で約5㌔くらい走っていたのですが、最近は試験のため軽くやっていただけです。
ーどういうタイプの投手になりたいか。
門野 チームから信頼される投手になることです。目標は金田さん(巨人)です。
ーどんなタマを覚えたいか。
門野 高校時代は直球、カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを投げていました。プロでは、もっとスピードを増し、正確なコントロールをつけたい。
ー自分のピッチングをどう思うか。
門野 立ちあがりさえいいピッチングができれば、あとはその調子で投げられるんですが、欠点は打たれたら投球のテンポが速くなることです。この点を改めたい。
ーライバルは・・・。
門野 同期の両加藤くんだけには負けたくありません。
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坂井勝二

2017-02-26 21:39:34 | 日記
1966年

ネット裏で観戦していた成田が「坂井さんのスライダーは、ものすごい。あんなピッチングじゃ、近鉄さん、1点がとれるカナ。ぼくも、あんなスライダーを早くマスターしたい」とさかんに感心していた。内角に鋭いシュート、外角にはスライダーを配し、近鉄を3安打散発に押え、今シーズン二度目の完封をマークしてロッカー・ルームにひきあげてきた坂井は「はじめはボールが走らず苦労した。でも、六回に1点取ってくれてからは、ゆとりがでた。そうしたら、急にタマが走りだし、終わったから完封してた」とひとごとのような口ぶり。ビンちゃんのニックネームもこんな、のんびりムードからくる顔つきがマンガのビンちゃんに似ているので生まれたもの。こののんびりムードが、わざわいしてか、今シーズンの出足は悪かった。初白星は、六度目に登板した五月四日の近鉄戦。しかも、それまでに3敗を喫していた。それからも調子の波に乗れず、前半戦を5勝10敗で折り返した。それなのに、この夜、10勝目を完封で飾っても、うれしそうな表情は全然見せない。中西ピッチング・コーチ、田丸監督らに「ナイスピッチング」と背中をたたかれても「どうも」という軽い返事だけ。小山と並んで二本柱と大きな期待をかけられながら、終盤戦にきて、やっと到達した10勝ライン。それだけに、本気になって喜べないのかもしれない。「完封できたのは、ピッチングにゆとりがでたからだ。このリラックスさが前半戦にでておったら・・・」という。入団八年目を迎えベテランと呼ばれる男が、しみじみともらす。前半戦でのつまずきが、よほど骨身にこたえているのだろう。ネット裏でボールペンを走らせていた三宅スコアラーは「前半戦の不振は、シュートの切れと、外角に投げたストレートに伸びがなかったからだ。だが、きょうのピッチングは満点だ。外角のストレートはスライダーがかかり、シュートは内角を鋭くえぐっていた。完封は当然だヨ」という。ぶっちょうヅラで、10勝目のインタビューをつづけていた坂井だが、人垣がとけたところで「10勝じゃネ。あと5勝はしなくちゃ・・・」と真剣な表情。ビンちゃんとはぜんぜん別人だった。
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宮崎昭二・山崎武昭

2017-02-26 19:17:06 | 日記
1974年

捨てる神ありゃ、拾う神もまた健在・・・といってはちょっと失礼だが、阪神入りが決まった宮崎をはじめ、日ハムをクビ(自由契約)になった選手が、他球団に飛ぶように売れている。すでに山崎がロッテに決まり、森中は太平洋に・・・。「けっこうなことですヨ。そのための自由契約ですから」日ハム・三原社長は胸を張るが、戦力アップをはからなければならないどん尻がポンポンクビに、それを上位球団が拾うのは、おかしな話で・・・。

「地獄に仏とはこのことです。大阪に骨を埋めるつもりでがんばりますよ」引っ越しの家財道具の山の中から、宮崎は笑顔をのぞかせた。つい、二週間前、宮崎は失意のどん底にいた。「十三年間もプレーしてきたのに、球団から事前に何の連絡もないとは・・・」チームメートの契約更改が報道されているのに、自分のところには何の連絡もない。不思議に思って球団に出かけると「自由契約にしたからご自由に」と返事が返ってきた。「野球をやめて国(佐賀)に帰ろう」と決心しかけた時、阪神からのラブ・コール。「長田社長にこういわれたんです。小山君(投手コーチ)が君にぞっこんなんだ。低めに変化するタマはセ・リーグ向きで、ロッテ時代から君に目をつけていたというんです。大杉のトレード話の時も宮崎もつけてくれと申し込んでいたというんです。ボク自身も低めのタマには自信がある。感激しましたよ。年棒なんて問題じゃないです」宮崎の意気込みは、もう大変なものだ。山崎も、左腕だけにカネやんをホクホクさせている。「うちはちゃんとオーバーホールして使いまっせ。いまどき、素材のいい左腕は貴重品や」と、クビにした日ハムがふしぎでしようがないというニュアンス。山崎も「1勝しただけではクビもやむを得ないけど、今度は日ハムからご恩返しの勝ち星をいただきます」森中の場合は異色。日ごろ「日本には適任の投手コーチは数少ない」と発言をしている三原社長のおメガネにかない、二軍コーチを要請されたが、これを断っての自由契約。「現役でやりたい」という希望は太平洋でかなえられそうな雲行きだ。今季、日ハムをクビになった選手は全部で七人。そのうち自由契約の三人は売約済みの赤札がプラリ。「使える選手は自由契約にしてやるのが当然です。選手の生活権まで奪うつもりはありませんから」と三原社長。三人を任意引退にして身柄をしばらなかったのは温情あふれる措置というところか。それにしても、うち二人は、来年から日ハム戦にも登板してくる。大杉を放出し、他球団が欲しがる選手をクビにするあたり、来シーズンの戦力によほど自信があるようだが・・。
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高垣義広

2017-02-26 18:19:40 | 日記
1972年

試合開始とともに、激しい雨が降り出した。だが、審判は中段のそぶりもみせない。なんとか五回までやって試合を成立させようというわけだ。その雨の中で、高垣が懸命に投げた。立ち上がりは、雨のためコントロールに苦しみ、先頭の西田に2-2から高めのカーブを左前打され、バントの失策で無死一、二塁のピンチを招いたが、菱川をカーブで二ゴロ併殺にうち取り、二回からはねらったコースへ小気味よく投げ込んだ。二回の三人を、全部遊ゴロに仕とめたのは、カーブに落差があった証拠でもあろう。三回までの予定だったのに「調子がいいからもったいない」と、五回まで投げさせられた。五回、大島に2-3から高めの直球を左前に打たれ、2本目の安打を許したあとも、飯田を遊ゴロ併殺にうち取った。中日に調子が出ていないとはいえ、上々のスタートだった。試合前の高垣は、思いつめていた。「なんとか好投して、認めてもらわねば」-竹村に先を越され、鵜沢、間柴ら若手にも追い抜かれそうになっていることを、ひしひしと感じているのだ。「ことしの高垣は精神的に大きく成長した。若いピッチャーが伸びてきたのが、彼の刺激になったのだろう」と鈴木コーチはいう。例年、この段階での評判はいい。四十二年大洋に入団したときも、キャンプでは「拾いもの」といわれた。だが五年間の勝ち星は、新人のときの1勝だけ。公式戦にはいるとキャンプでの評価はいつも消えてしまう。そのたびに精神面の甘さを指摘されたものだ。「自分でいうのもおかしいがことしのキャンプは、息を抜かずにがん張った。球威、制球力とも自信がついたので、公式戦でもやれそうな気がする」心に期した緒戦に、好投できたので、高垣の表情は明るかった。「球威が増したし、変化球の切れが良くなった。野村が抜けたアナを彼が埋めるのだから、やってくれなくては困る」と鈴木コーチの期待も大きい。春先は、低めに変化球を投げていればそれほど打たれはしない。しかし、これからは打者が低めについてくるようになる。このとき高垣は、精神的な成長をバックに、どんな武器で対抗するか、これが春先返上のカギである。
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菅原勝矢

2017-02-26 17:25:37 | 日記
1974年

巨人・菅原が、十八日、退団届けを球団に出した。三年前の阪神戦(札幌・円山)で左目に打球を受け、完治しかかった翌年に、今度は練習で同じ左目にタマを当てた。二重の不運でとうとう、引退までに追い込まれたものだ。「体には自信があるんですが、もうこれ以上苦しむのは・・・」と菅原。今後の身の振り方は球団に一任することになったが、それにしても、直径約70㍉の小さな白球は、あまりにも菅原に非情な結果を招いた。球団本部の応接室。菅原は佐伯常務に医者からもらってきた診断書を差し出した。その後、小声で「野球をやめます」とつけ足した。言葉にすればたった一息だったが、この言葉をいうために、どれだけ苦しみ、悩んだかしれない。「ときどき、夢を見るんですヨ。マウンドで投げている姿を・・・」途中で目がさめて、何度もくちびるをかんだ。順天堂病院に始まって慶應病院、東京労災、慈恵医大・・・。人から「あの病院がいい」と聞くと、幾つもの病院を訪ねた。しかし、どの病院でも「野球をやっているかぎり・・・」と冷たい宣告を受けた。「ことしの夏ごろ、吐き気とめまいで一人で歩けなかった。そのころ、もう野球はダメだとあきらめました」不運といえばあまりにも不運だった。三年前の夏、札幌・円山球場で阪神・安藤の打球を左目に受けた。そのままだったら、野球生命も断たれなかっただろう。それが翌年、また左目・・・。「二度目のタマが当たらなければ・・・」と菅原は嘆く。視力は右目が1・5。左目は裸眼で0・3。なんとか視力は回復しているが、目につながっている神経を痛めたのが、引退につながった。東京・阿佐谷の自宅には、美代子夫人と一粒種の真美ちゃん(三つ)がいる。左目を痛めていらい、家族三人の苦しみが始まった。「女房にどれだけ迷惑をかけたか・・。こどもにパパお仕事は?と聞かれるのが一番辛かった」本もテレビも新聞も見られない二年半。一時、左目が回復、ことしの宮崎キャンプで一軍入りしたとき、菅原は目にいっぱい涙をためて喜んだ。しかし、それもほんのつかのまの喜びだった。捕手の出すサインがダブって見えた。そのことをコーチに内証にしていた。どうしても、もう一度、マウンドにあがりたかったからだ。「41年にサンケイ(現ヤクルト)戦で初先発、初完封をしたのが一番思い出に残っています。三年前のあれがなければ」どうしても、一つのボールが頭から離れない。プロ入り13勝をあげ、さあ、これからというときのアクシデントだからなおさらだ。「今後の身の振り方は球団にお願いしてきました。なんとくれると思うんですが・・・」球団側では正力オーナー、佐伯常務が話し合って、いまのところ球団職員で採用する予定だ。選手契約でもらっていた年棒三百十万円(推定)も、十二月で切れる。「給料のほどんどは治療費で消えました。本当に神にすがりたい気持ちです」-。引退届を出した菅原の言葉は弱々しかった。
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鬼頭洋

2017-02-26 12:36:01 | 日記
1967年

試合前のベンチ。三番手のリリーフに予定されていた森中(前南海)が、ニヤニヤしながら先発の及川と二番目の鬼頭をつかまえて、あつかましいことをいっていた。「センジ(及川)は、にらみのきいた顔で5回はもつし、つぎはメダマ(鬼頭の愛称)でほうるから、きょうはオレの出番はなしヤ。たのんだぜ」-これには二人ともニガ笑いするばかり。森中の自分勝手な予想?は、回数が逆に出たが、鬼頭は5イニングを全力で飛ばした。打者十七人にヒット1、三振1、四球2、失点0。首脳陣が「今シーズンはぜひとも左の先発に育てたい」という期待にこたえた力投だった。だが、立ち上がりは速球が上へ浮いてボールを連発。これには大洋ベンチもハラハラのしどおし。「風があったから、風を利用してビュンビュンいってやろうとしたのが失敗でした。ついリキんじゃって・・・」代わったばかりの五回はこのため白、青野ら打者四人に23球も投げてヒヤ汗をかいた。しかし、秋山コーチから「バックスイングに力がはいりすぎるとるゾ。もっと軽くいけ」と注意されてから、とたんに本来のピッチングにかえった。六回からの投球数は6球、10球、20球、5球。ノビのいいスピードボールを低めへ集めてやっと落ちついた。「十九日の紅白戦(四回で被安打1)のときよりボールはおそかったと思うんです。でも七回ごろからやっと自分のピッチングができました。最初からストレートで押すつもりでしたから、直球とカーブの割り合いは7-3ぐらい。フォークも投げましたがスッポ抜けが1球だけ」特徴のある大きな目をうれしそうにクルクル動かした。名古屋商大を中退して、ことしでプロ入り三年目。過去、痛めたことのない左腕と、タテ21㌢もある大きな手を持ちながら、昨年まではもっぱらイースタン専門。一軍では昨秋の巨人とのオープン戦(銚子)で貴重な1勝があるだけ。毎シーズン「ことしこそは」といわれながらキャンプ男に甘んじていた鬼頭だった。しかし、今シーズンはちょっとばかりの中身が違ってきたようだ。「一番ダメだったコントロールに自信が持てるし、シュートもよく切れる。ことしはボク自身なにかやれそうな気がするんです」と鬼頭はいっている。こんごの一番大きな問題は、リキみながらボールを連発して自滅しないことだろう。昨年までのこの欠点さえなくなればタマそのものは、とにかくすばらしいものを持っている。切れのいい速球とカーブ、シュート。それに急角度に沈むフォークボールで左の一番手にのし上がれる可能性はじゅうぶんだ。秋山コーチはいう。「きょうはシリ上がりによくなってきたが、まだまだ、リキむ一方でいい点はやれない。しかし、ことしはなんとか先発でノビてほしいんだ。三年目のことし、精いっぱいやってダメなら、あきらめろと鬼頭にはいってある」それはともかく小野、平岡ら左投手が力不足の大洋には鬼頭のこれからの成長ぶりが楽しみだ。
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