プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中島弘美

2017-02-17 00:31:20 | 日記
1973年

アメリカ帰りの左腕中島がデビューした。田中のあとを受けて八回だけの登板だったが、先頭打者の相羽を見事カラ振りの三振に打ちとるなど安定したピッチング。ネット裏の南海・渡会スコアラーら関係者は「制球がよい。見た目よりタマにも伸びがあるようだ。将来有望」と話していた。初登板は中島にとって意外だった。メガネの奥でキラキラさせながら「田中さんが救援していたし、自分には出る幕があるとは思わなかった。七回表にブルペンの練習からベンチに戻ると、稲尾監督からちょっとマッサージを待てと言われて、もしかしたらという気はしました・・・。最初の打者のときちょっと上がったけど、あとは落ち着いて投げられました。最高のときよりもうひとつというところですね」と投球を振り返る。中島はこのほどの京都遠征(ロッテ戦)からベンチ入り。四試合目に晴れの初舞台となったが、同期生の金城はすでにロッテ戦では登板済み。「金城君に先を越されたと思っていたんですよ」というドラフト一位の新人君。加藤初と入れ代わりに一軍入りを果たして、最初の望みはかなった中島だが、金城との競争心をかき立てる。師匠の河村コーチは「最近の若者はおどおどしていないね。落ち着いて投げよった。ブルペンで練習したときより、ねらったところへ決めとる。自分の持ったものを出し切っている」と感心。「これなら、今季先発の可能性もある。中島は先発型で、金城のほうは救援型。うまいことなっとる」試合は九回太平洋の急追で1点差となった。打線がもうひと押しすれば中島に白星がころがり込むところだった。この最後のもようをソワソワして見ていた中島は「登板できただけでもしあわせですよ。このことを父(熊本県本渡市浄南町在住)にさっそく電話したい」と胸を張って引き揚げて行った。
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中島弘美

2017-02-17 00:19:16 | 日記
1973年

アメリカ帰りの中島弘美投手(太平洋ク)が早ければ今度の遠征中に登板する。再起を期待した加藤初が十九日の日拓戦でまだ不振だったため福岡へ追い帰された。代わって中島にチャンスがめぐってきたもので、二十一日に急ぎ京都へやってきて一軍に合流した。中島は昨秋、太平洋がドラフト一位に指名して獲得したホープ。今季は春からアメリカのローダイ・ライオンズに和田コーチらとともに留学して、前期は日本のファンの前に姿を見せなかった。アメリカでは6勝3敗の成績でカリフォルニア・リーグのローダイ・ライオンズを優勝に導き、太平洋の後期に備えて帰国した。同リーグの実力は日本の高校野球に毛が生えていたていどとか。6勝3敗の数字が日本のプロ野球にどのていど通用するかは疑問だが、待ちこがれたファンにとっては左腕中島のピッチングが見れるだけでも大きな喜びではないか。西京極のロッテ戦は二十二日も雨で中止になり、太平洋はこの日午後二時から西宮球場で練習した。都合のいいことに、小雨もやんだ。からだをほぐした中島は、三塁側ブルペンに立って宮寺捕手を相手にピッチングした。「もっと球にスピードがあったように思っていたが・・・」付きっきりで見守っていた河村ピッチング・コーチは最初は不安気な声をもらしていたが、だんだん本調子になってくると、つい身が乗り出して「ウン、決まってきた」と満足そう。稲尾監督も室内練習場から出てきて視線を注ぎ、投球フォームのアドバイスをする。中島は帰国する一週間ほど前の寒い日に、カーブを投げてヒジを痛めた。日本に帰ってからもランニングで体力づくりには汗を流していたが、本格的なピッチング練習を再開したのは八月中旬から。本人は「アメリカでのベストの状態には戻っていない」という。河村コーチも帰国後の中島の練習を見たのはこの日で二回目。「アメリカでどんな練習をしていたか知らない。現在のピッチングもまだわからない。カーブの切れにいまひとつグッとくるものがない。すっぽ抜けると長打を食う危険がある」と一応、注文はつけながらも「素質はいいし、フォームは最初から直すところはなかった。あとは精神力が問題」と楽しみも大きいようだ。さて、中島にいつ登板のチャンスがくるか、監督、コーチ陣は中島の実力がよくわかっていないので、先発させる考えはないが、ゲームが大勝か大敗したら、すぐにでもリリーフでマウンドに上がるのではないか。「自信というほどのものはない。ストライク・ゾーンにしてもアメリカは日本より低いし・・・。向こうでマスターしたのはチェンジアップ。シュートは覚えかけです。とにかく来シーズンですよ」と中島は気の抜けたような返事で、張り詰めたようすは感じさせない。これも自信のうちか。宮寺は「高めの球がいい。これはアメリカ式だろう。日本向きの低めの球はもうひとつだ」と診断していた。
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中島弘美

2017-02-17 00:01:45 | 日記
1973年

アメリカ帰りのルーキー中島が初勝利を飾った。九月二十七日の対南海戦に次いで二度目の登板だが先発は初めて。新人ながら、落ち着いたプレートさばきは来年が大いに楽しめる。「まぐれですが、向こうでの勝利よりやはりうれしい。アメリカではだれも知ってる人はいないが、日本にはたくさんいますからね。きょうは腰が痛くてコンディションはよくなかったが、シュートがよかったと思います。先発ですか?きょう外野でランニングをしているときにいわれました。まさかこんなに早く先発できるとは思いませんでした」ドラフト一位で入団した中島だが、シーズン当初から米国1A、カリフォルニア・リーグのローダイ・ライオンズに野球留学。そこでは13試合に登板して6勝3敗、前期の優勝に大きく貢献した。この経験は大きな自信になっているに違いない。本人も「シュートを覚えたのがこの勝利に役立ちました」といっている。だが、青木専務にいわせると「向こうで投げているときよりスピードがない。ひじを痛めてからちょっと落ちた感じやな。しかしなかなか落ち着いている。のんびりした性格だからあまり緊張せんのやろ」と笑う。そういえば、カリフォルニア州のサリナスでゲーム中、落ちる球を投げたときにひじを痛め、帰国してからも約一ケ月病院通いをしていた。「もう大丈夫」故障は治ったらしいが、持ち前の強心臓のエピソードをちょっと探ってみた。聞くところによれば、ローダイへ行った直後は英語が全然わからず。投手と野手に分かれて練習をするように指示されながら一生懸命ランニングをしていたという。そして、優勝するときは、飛行機の中から何から何まで青木専務のあとに引っついて離れない。知らない土地でもあり、不安なのだろうと思っていたらしいが、同専務が「どうしてオレのあとばかりついているんだ」と聞くと「専務と一緒にいると食事代がいらないから」という返事が返ってきたらしい。「ブルペンでは足を震わせていたらしいが、ヤツはいい心臓しているよ」持ち前の度胸のほうは専務の折り紙つき。稲尾監督は「まあまあやな。初先発なのでもう一つスピードがなかったが上出来だ。まあ徐々に自信をつけさせていく」と期待の大きい若手の台頭に目を細めていた。
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