プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

奥柿幸雄

2017-02-25 20:38:49 | 日記
1966年

静岡県小笠郡浜岡町ー。遠州灘の荒波が、目の前に迫るような町。そこが奥柿の生まれ故郷だ。プロ野球で名をなした選手には、家が漁業だったというケースが多い。父親の手伝いで、舟に乗り、ろをこいだことが、結果的に強ジンな腰をつくるからだ。だが、奥柿は、そうではない。母親のこうさんの手ひとつで育てられた。八人きょうだいの末っ子。世間一般に通用する甘えん坊なところは小指の先ほどもない。朝は六時に起き出して、近くの病院へ働きにいく母親の姿をみながら、奥柿は浜岡中へかよった。プロ入りを決めたとき、奥柿は「親孝行がしたい」といった。口先だけではない。大地に足をふまえた実感がそこにあった。サンケイ入りしたら「おかあさんといっしょに住みたい」といった裏には、高校生活三年間の下宿生活の愛情飢餓状態とはまるでちがう。加えて、浜岡中は野球では伝統ある学校だった。毎年、静岡商へは、何人かの優秀選手が送りこまれている。静岡商野球部の本間文雄部長は、中学時代の奥柿に目をつけていた。「ピッチャーをしていたが、やはりバッティングが鋭かった。投手より打者でいったほうがいいと思った」という。奥柿は、正直だ。ドラフト会議でサンケイが第一位にランク、交渉権を獲得したとき、奥柿の周囲は進学説で固まっていた。「大学受験の勉強を始めなければ・・・」という声に、奥柿は苦笑してこういった。「オレ、参考書はほとんどないよ。教科書でじゅうぶんだ」野球でもそうだ。今夏の甲子園大会で、金沢商の庄田からホームランを打つと、マスコミは長距離打者ともてはやした。だが、本人は、それを真っ向から否定した。「予選じゃ、本塁打は打っていない。ぼくは中距離バッターです」自信がないのかというと、そうではない。言動すべてに、慎重なのだ。サンケイ入りを決めるときは、三時間も無言の行をつづけたすえOKした。何を考えていたのかと聞いたら、ケロリとしてこういった。「プロ野球でやれるかどうか、自分で自分に問いかけたんです。いいかげんな気持ちではなく、自分に聞いてみて、それでよしという返事が出るまで、考えぬきました」奥柿は、一度、こうと決めたら、あとは、一歩もひかない。堂々と自分の道を進む。高村光太郎の詩に「牛はなかなか一歩を出さない。しかし、出した一歩は絶対に引っこめない」という意味の一筋があった。そういうシンの強さを、奥柿はヒシヒシと感じさせる。入団発表後、飯田監督がこういった。「学帽の校章を、変にかくすようなかぶり方をしない高校生を、久しぶりにみたよ。奥柿って、いいね」
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川畑和人

2017-02-25 19:43:27 | 日記
1970年

プロ入り四年目の初完投。川畑の移籍後初勝利はバックの援護もあって、さっそうたるものだった。立上り山本浩に四球を与えて問題のコントロールは大丈夫かと心配されたが、二回三者三振に倒すなど快速球をビシビシぶち込んでその懸念をすぐ吹き飛ばした。「きょうはタマがよく走っていたし、前半広島が高めのボールを振ってくれたので助かった。後半はさすがにスピードが落ちたが、ボールが低めに決まり出したのでこれもさいわいしました」川畑がこの夜一番の真価を見せたのは四回だった。国貞に四球、山本一に初安打され、味方のエラーで無死二、三塁のピンチ。これを2三振と内野フライでのがれたとき初完投勝利の道がパッと開けた。「最終回も苦しかったけど、やっぱりあそこを乗り切ったことがよしきょうはいけるという自信になりましたね」八回、先頭国貞に「ややコースの甘かった内角まっすぐ」を左翼席にもっていかれ完封勝ちをのがしたのは残念だったが、まだ、二十二歳と若い川畑である。この先何度もチャンスはあるだろう。これで移籍後、10試合目の登板。先発はさる八月五日の広島17回戦につづき二度目だったが、首脳陣もこの夜の川畑に大きな期待をかけていた。田辺、佐藤ー川畑と三人の移籍組のうちまだ勝ち星をあげていないのはこの川畑だけということもあるが、さる二十二日のヤクルト21回戦、二十七日の阪神23回戦でそれぞれロッテ当時のスピードを取り戻して好投しているからだ。川畑は江藤とのトレードで中日にきた。それについて川畑は「もともと江藤さんとは格が違うが、これをきっかけにこんごの活躍で勝負したい」と九州男児(鹿児島生まれ)らしいことばをはいた。川畑は野球選手らしくない色白の顔でひ弱そうに見えるが、シンは強いのだ。初勝利のインタビューを終えたあと、スタンドの少年たちと握手をかわしたり、ロッカールームに戻ってくるとこんどはナイン一人一人に「ありがとうございました」と頭を下げて回った。こんな川畑に大島コーチは「この1勝を飛躍台にググッとのびる投手になってほしい。そのチャンスもどんどん与えたい。コーファックスぐらいの速球投手に育ってくれることを楽しみにしている」と目を細めていた。
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早川実

2017-02-25 00:19:43 | 日記
1975年

早川投手は、中継ぎ投手の人材不足から球団が熱心だった戦力。特に低めにコントロールされたシンカーがすばらしく、プロでもすぐ通用すると各球団の評価も高かった。ことしの都市対抗では一回戦で電電東京を完封。カナダで聞かれた世界選手権(インターコンチネンタル)でもリリーフで活躍、先に社会人野球のベストナイン表彰を受けたばかり。しかし、ノンプロの全日本制覇をねらう西濃運輸にとって早川投手は欠かせないエースとしてプロ入りを踏みとどまるよう強く慰留。これには二番手の宮本好宣投手が同時に日本ハムに指名され(すでに入団決定)大幅な戦力減が懸念されたこともある。球団側はドラフト会議(十一月十八日)直後に、同社へ本人と交渉したいむね了解を求めたが、こうしたいいきさつから正式に承諾が得られないままだった。ところが早川投手は、プロ入りに踏み切るのは年齢的にこれが最後のチャンスだと決断。すでにさる十日、会社へ辞表を提出。田口利正野球部長らが再三にわたって説得したが、本人のプロ入りの情熱は動かなかった。

福岡工大時代は大学選手権に二度出場しているが一回戦で敗退。また家庭の事情で中退したため中央球界では認められるのが遅かった。西濃運輸入社後は徐々に力をつけ一昨年、昨年とエースで都市対抗に出場。いずれも二回戦で敗れているが、ことしはカナダで開催の世界選手権に全日本代表として選ばれ、全部リリーフながら五試合に登板。なかでも対カナダ戦、四回一死満塁のピンチに救援、以後九回まで零封して勝利投手になった。四十八年、四十九年、五十年と三年連続で東海北陸地区の社会人ベストナイン。ことしは初めて全日本のベストナインの栄誉にも輝いた。落ちる球(シンカー)が主武器。
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