プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

東田正義

2017-02-20 22:58:42 | 日記
1967年

名古屋から近鉄特急で一時間二十分、そこから車で十分。山のいただきを切り開いたような伊勢市営球場。三重交通の野球チームはいまそこでひっそりと練習している。じみなこのチームで大きな東田はすぐ目立つ。当りは群をぬいている。脚光をあびたのはことしの夏の都市対抗で西濃運輸に補強され、四打数四安打、1ホーマー、3打点の大あばれをしてからだ。その後の産業対抗の鉄道・運輸部門の予選(八月二十九日、対西濃運輸)でも四打数二安打、1ホーマーとよく打った。名乗りをあげたプロは巨人、西鉄、中日。ノンプロ四年目で通算ホームランが十四本の力はプロのスカウトをひきつけるには十分の魅力。中日はまだ直接勧誘の手は打っていないが、巨人は加藤、西鉄は深見スカウトがすでに周囲の説得をはじめている。加藤氏は御所工時代から「攻走守そろった選手」と注目、あまり有名にならないうちに巨人へ、と考えていたらしいが他球団もマークしていた。スカウトの評価は「足が速く、プロのスピードになれれば使える。二十二歳と若いのもいい」(深見スカウト)ただ中堅より右の打球が多く内角に弱いのではないかという心配がある。中日・柴田渉外課長は「右でも左でもスタンドまで運ぶ力はりっぱ」といい、右翼にホームランできる腕っぷしの強さに逆に高い評価を与える。本人は「右方向が多いのは偶然で、左へも引っぱれる」と不服そう。しかし「プロで力をためしたい。チームはどこでもいい」という。弟と二人兄弟。父親・末義さん(43)が胃弱で無職のため、経済的にはあまり恵まれていないようす。円子監督(元南海投手)は、大黒柱を失うのは残念だが、と前置きして「プロでやっていけるだけの馬力はある。力負けすることはない」と推薦する。ただ「すぐでられるチームがいい。下積みが長すぎるとマイナスだから・・・」というあたり西鉄を希望している感じ。南海時代に深見スカウトと知りあいあったこともあり、自由競争のころだったら西鉄有利で局面が展開していたかもしれない。「体力ならだれにも負けない。ただ肩にあまり自信がない」と東田はいっているが、中日・塚越スカウトは「打撃さえよければ、まだ若いから肩や足は鍛えようでどんどん進歩する」と保証していた。大きくてがんじょうな荒けずりの素材。産業対抗の予選(浦和市営球場)には、関東地区相当の各球団スカウトがそろって顔をみせていた。東京・山田スカウトは「三拍子そろった大物ですよ。問題は内角を打てるかどうか、スカウトが集まったのはその品定めですよ」といっていた。(東田正義=ひがしだ・まさよし=、1㍍81、78㌔、右投右打、松阪営業所勤務)
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石黒和弘

2017-02-20 22:07:48 | 日記
1963年

大毎の青木一三チーフスカウトは、八日午後六時三十分、名古屋市大名古屋ビル内の香取で帰省中の慶大石黒和弘遊撃手(22)=名古屋市熱田区尾頭町=と会い、最終的な話し合いをした結果、大毎入りが決定した。石黒選手は中京商時代から攻守に定評があり、慶大では三季連続ベストナイン(ベストテンに通算四度)に選ばれている。身長1㍍72、体重67㌔、右投げ右打ち。
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石井輝比古・井上正晴

2017-02-20 21:52:46 | 日記
1967年

東映の瓜生スカウトは三十日午後二時、福岡・大濠の福岡第一高に都築副校長、平山野球部長、野中監督をたずね、さきのドラフト会議で交渉権を得た石井輝比古投手(18)=1㍍83、75㌔、右投げ右打ち、井上正晴三塁手(18)=1㍍78、73㌔、右投げ右打ち=の両選手とプロ入りの交渉をはじめることについて了解を求めた。両選手は現在、ノンプロの電気化学(新潟)に就職が内定しているが、学校側は「本日たちの気持ちしだいだから、交渉は自由にしてかまわない」と了承した。このため瓜生スカウトは、同日よる福岡市大濠一丁目の石井宅を訪れ、父親の元一氏をはじめ家族と会い、東映入りを要請、さらに同市清川町の井上宅でも父親の正雄さんら家族に入団をすすめた。この日は両選手とも意思表示はしなかったが、ともにプロで働きたい気持ちをもっているところから、プロ入りは時間の問題とみられる。なお瓜生スカウトは一日、鹿児島県で鹿児島鉄道局・末永吉幸遊撃手、二日は熊本で電電九州・田中達生捕手と交渉する予定。
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安木祥二

2017-02-20 20:48:38 | 日記
1969年

待ちかねたように、別所監督がダグアウトから飛び出していった。握手をし、手をたたき自分が勝利投手になったよりもうれしそう。「安木には、あとをまかせたんだ。ベンチに残っている投手は、渋谷しかいないんだから・・・」別所監督の声が、ダグアウトの裏にはね返る。汗みどろになり、ナインの祝福に頭を下げる安木に、岡嶋コーチがカミナリを落とした。「なにがありがとうだ。サインの見落としをしておきながら・・・。罰金ものだぞ」決勝の中前安打になった十一回表の打席。カウント1-3からファウルとしたが、実はこのタマが待てだったわけ。「ぜんぜん知らなかった。打席にはいる前、監督から軽くミートっして打てーといわれていたもんで」と頭をかいた。決勝の中前安打は安木にとってはプロ入り二本目の安打。2打数2安打の10割。アトムズでは安木、松岡などこの試合で登板予定の投手はみっちり打撃練習をしている。東京・杉並の合宿ではバットの素振りをかかさない。「投手も打てなくては・・・」という別所監督の方針が、勝利に結びついた。こんどの名古屋、九州遠征に出る前、安木は別所監督から秘密命令をうけている。緒方、浅野とともに、毎試合救援に出ることに決められていた。だから九回に村田を救援してマウンドに上がったときも心の準備はできていた。左打者の千原にぶっつけた策もうまくいった。「巨人戦で王、広島戦で山本一と左バッターは完ぺきに押えているから、かならずうまくやってくれると思った」と別所監督の信頼はあつい。千原への投球は得意のカーブ。スリークォーターから一度浮き上がるようにしてグイと落ちるカーブは、安木の最大の武器。球質が大洋のファイヤーマン平岡に似ているところからON封じの秘密兵器と期待されている。低めのシュートも威力があり、左打者へのワンポイント・リリーフにはうってつけ。当分は救援専門でいくが、いずれは先発投手に成長させたいのが首脳陣の考えだ。
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矢頭高雄・戸梶正夫

2017-02-20 20:24:46 | 日記
1967年

東京オリオンズは十一日、矢頭高雄外野手(33)、戸梶正夫捕手(28)が退団したと発表した。矢頭選手は同日午後八時三十分から、東京・恵比寿の青木チーフスカウト宅で、青木一三チーフスカウトと話し合った。この結果、同選手は現役引退を決意、今後は同球団のスカウトに転向する。戸梶捕手はすでに球団に退団を申し入れていたが、この日、球団側が正式に辞表を受理したと本人に通告した。戸梶は自由契約選手になるが、本人は今後、ユニホームを着る意思はなく、神戸・三ノ宮で食堂を経営する。
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野球選手 その後

2017-02-20 20:00:29 | 日記
1969年

家業をつぐものは多種多彩だ。生活に密着している食料品店からはじまって八百屋(南海・永本氏)カマボコ店(阪神・辻邦氏)から阪急・斎藤芳氏のように材木店まで。また、西鉄、広島、南海と渡り歩いた大和田氏のように食べ物店の経営を計画している人もいる。野球への愛着を捨て、サラリーマンとして再出発する考えを持たない選手のほとんどは家業を継ぐか、家事の手伝いだ。数年前、巨人・長島の恋人といわれ、長島の調整台になった近藤氏のように、百姓に専念するといい切った選手はない。が、テスト入団やプロ生活一年で消えていく選手の中には、近藤氏のように野で働く人がいないことはない。野球選手とは違うが、同じ野球界で生き抜いた老兵国友審判員(セ・リーグ)も、ことしで審判生活から引退した。国友さんは、いま長い審判生活で疲れたからだをいやしながら回想にふけっている。「野球のことは忘れられないでしょうから、のんびり暮らす。スタンドから野球をみてみたい」半生を野球にかけた人だけに、若い人たちと違って野球には強い愛着を持っている。来シーズン、スタンドでくつろぐ国友さんの姿がしばしばみられるだろう。
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田中由郎

2017-02-20 19:21:45 | 日記
1979年
・今シーズンで、4年目を迎える田中由郎投手の「株」が急騰している。ロッテ時代「いの一番」にドラフト指名されながら、精神面の弱さが禍いし鳴かず飛ばず。
当時の濃人スカウト部長は責任をとって退団。「首切り由郎」などという有り難くない異名を頂戴して、本人も昨年は大洋へ放出されてしまった。それが移籍2年目にして、やっとピッチング開眼。「軸足のタメ、粘りをキャンプ中に徹底して山根コーチに教わった」そうで、欠点だったノーコン病も是正された。紅白戦では遠藤と競って一軍入りを果たしたばかりか、近鉄とのオープン戦でも3回を投げ1安打
に抑えた。下手からの速球にカーブ、スライダー、武器のシュート、落ちるシンカーの威力は抜群。その後のシートバッティングでも主力延べ45人と対戦し、山下、田代、松原、長崎、高木、福嶋、中塚ら計13三振を奪い、その力を証明している。「ボールを放すポイントが一定してきたし、この分だと中継ぎどころか先発に使えるぜ」と、山根コーチを喜ばせている。本人もいまは「投げるのが楽しいし、今年ダメならボクを発掘してくれた濃人さんに申し訳が立ちません」と連日、
猛練習に打ち込んでいる。2年目の門田が、出遅れているだけに、この田中の出現は、別当・大洋の「救世主」になれるかも・・。過去2勝8敗の「未完の大器」に
4年目にして遅まきながら春が訪れた感じだ。

・オールスター戦までの、折り返し地点が間近になったが、ここまでの大洋投手陣をカゲで引っ張って行ってるのが、4年目になる田中だろう。敏恵夫人との間に長男が誕生し、父親としての責任感が芽生えた。それに昭和30年生まれの「年男」として同年輩の遠藤が7連勝と活躍。日本海の寒村生まれの男にやっと闘争心、ライバル意識が芽生えたといえる。一時は「首切り由郎」とか、今春のオープン戦で東京都駅構内でコン倒したことから「失神投手」の陰口を叩かれた男にも運がめぐってきた。6月9日のヤクルト8回戦「神宮」で先発・野村が2回半ばでKО。
2番手で登板したところ味方打線が爆発。3点差を逆転し移籍後の初白星。このとき6回2/3イニングを1失点に抑えた実績を買われ、遠藤が肩痛でダウンのあと、先発のチャンスが到来。7月4日の広島戦「横浜」では8回2/3を投げゲームは4-4の引き分け。もし、このゲームを落としていれば大洋は開幕以来、初のBクラス転落のピンチだっただけに、田中の粘りのピッチングが光った。この「朗報」に
現在は広島市東本浦町の故郷に帰っている濃人さんも、63歳の年齢を忘れ
「やっと・・・」と絶句していた。

1980年
・「濃人さん、見ていてください。これがプロ5年目のピッチングです」---。
ロッテから移籍して3年目の田中が惜しいところで大魚を取り逃がした。
6月3日、広島7回戦「広島球場」に田中は1ヶ月ぶりに先発。広島の山根と互角に渡り合って6回まで両軍1安打ずつ。6回表、二死から田中は自らのバットでチーム初安打も放つ。投げてもホームランダービーのトップを行く衣笠をシンカーで連続三振、山本浩も速球と横の揺さぶりを駆使し三振に討ち取るなど「奮投」した。昨年、田中はリリーフ中心で5勝を挙げ「今季こそローテーション入りか」といわれながら、集中力不足で、まだ1勝どまり。2日前の、1日・阪神戦「横浜」では竹内をリリーフして満塁から押し出し四球を与え「今年の田中はいったい」と首脳陣の怒りをかった。そんな中、この日は首位戦線をひた走る広島を、よく抑えた。7回ウラ衣笠の内野安打と、基の手痛いエラーが絡み二死二塁のピンチで降板。「もっと投げたかったんですが、チームの事情ですから」。この後を継いだ
遠藤が連続タイムリーを打たれ田中は負け投手になったものの、自信回復の投球内容だったようだ。

・投打とも好調なチームの中で、ひとりだけ「カヤの外」にいるのが田中である。
4月、阪神5回戦で1勝。5月は「春休み」としゃれ込んだあと6月はヤクルト戦
、連続完投で2勝をマーク。「完全に先発ローテーションに組み込める」の評価を受けたのも束の間だった。6月24日のヤクルト12回戦でパラーゾの打球を左胸部に受けてから、シンカー、シュートの威力が半減してしまった。加えて「ノミの心臓」が顔を出し、逃げまくりのピッチングに戻ってしまった。四球を連発しては、
肝心なところでカウントを取りに行く甘いストライクを痛打され、黒星街道をバク進中。最近はいずれも自滅のピッチングで、ついに6連敗を喫してしまった。
「5回まで持っても、集中力が続かないから自分で考え過ぎて自滅してしまう。ほんとうに、横っツラでもひっぱたいてやりたいよ」と山根コーチを嘆かせる始末だ。
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