プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

後藤清

2017-02-23 20:31:12 | 日記
1967年

西鉄ライオンズは十八日午後三時から福岡市天神二丁目の球団事務所で、電電東海の後藤清投手(21)の入団を正式発表した。後藤は、西鉄がドラフト会議で四番目に指名した本格派の投手。オーバーハンドからの速球とシュートには定評があり、ことしの産別大会予選では一人で5試合を完投したほどの馬力もある。東海地区のノンプロ界ではナンバーワン投手で、西鉄はじめ中日など五球団からマークされていた。多治見工出、身長1㍍81、体重67㌔、右投げ、右打ち、背番号43。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前田四郎

2017-02-22 19:58:20 | 日記
1968年

南海は十七日午後三時、大阪球場内の球団事務所で、ドラフト会議で交渉権をえた高岡商の前田四郎投手と正式契約したあと、入団の発表をした。前田投手は、高岡商のエースとしてことしの春のセンバツ高校野球大会と夏の全国高校野球大会に出場している。右投げ左打ち。上手からの本格派投手で武器は直球とカーブ。在学中の成績は30勝3敗1分け。通算本塁打5本が示すようにバッティングもよい。同投手は、はじめ住友金属への入社が内定していたが、南海富永営業部次長が、三度、富山県西砺波郡福永町の実家をたずね、父親彦太郎さんと会い、入団するよう説得した結果、考えがかわり、住友金属の了解をえたあと南海入りに踏みきった。身長1㍍76、体重72㌔。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若生和也

2017-02-22 19:43:54 | 日記
1967年

中日ドラゴンズは六日午後四時から、名古屋市中区新栄町の球団事務所で、交渉権をとっていた前立正佼成会の若生和也投手(23)=1㍍75、77㌔、右投げ、右打ち=の入団を発表した。立正佼成会から中日への入団は小川、相川選手についで三人目。若生投手はことしの産別大会ではエースとして活躍、準決勝で日産自動車に惜敗したが、優秀選手として選ばれた。ことしの公式戦成績は20勝10敗。オーバーハンドからのダイナミックな投法で速球、シュートに威力がある。宮城県塩釜市の塩釜高校時代は強肩捕手としてならし、三十八年四月、ノンプロ仙台鉄道管理局入社と同時に投手に転向、岩崎電機を経て四十四年四月に立正佼成会にはいった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半田実

2017-02-22 19:35:59 | 日記
1969年

半田投手はことし夏の大阪予選四回戦で浪商に負けたため中央球界にあまり知られていないが、大阪府下では岸和田の長谷部投手(阪急)とともにプロ向きの投手として注目されていた。オーバースローからの速球一本ヤリで、そのスピードはプロでも通用するといわれるほど高校生ばなれしている。1㍍79、72㌔、右投げ右打ち。

半田投手の話 「プロにはいった以上は一日も早く一人前の投手になりたいと思ってます」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒船洋資

2017-02-21 22:37:31 | 日記
1969年

東映・塚本スカウトは二十七日午後、埼玉・秩父市大字山田の自宅に、ドラフト第九位の深谷商・荒船洋資捕手(18)=1㍍78、72㌔、右投げ右打ち=を訪ね、入団交渉を行った結果、正式入団が決定した。契約金三百万円、年棒百万円(いずれも推定)。なお、正式発表は、来春、東京・京橋の球団事務所で行う。荒船捕手は、埼玉県下では№1といわれる大型捕手。大物打ちの定評がある上に、肩も強い。球団では、種茂、鈴木の両ベテランの力が落ちてきているので、積極的に獲得交渉を行っていた。

荒船選手の話 「とにかく一生懸命努力し、基本をみっちり覚えたい。いまの力ですぐにレギュラーポジションといってもムリだけど先輩の持っている技術までなんとか追いつきたい」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓜生秀文

2017-02-21 22:02:04 | 日記
1969年

東映がドラフト会議で七番目に指名した向上高・瓜生秀文投手(18)=1㍍77、70㌔、右投げ右打ち=の正式契約が十三日行われた。塚本スカウトはこの日正午から神奈川県小田原市の瓜生投手の実家を訪れ、約一時間の話し合いの末、推定契約金三百三十万円、同年年棒八十万円で正式契約をすませた。同投手は「土橋(現コーチ)の入団した時と同じようなタイプ」と首脳陣も大きな期待を寄せており、正式発表は後日改めて行われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小林正之・島村雄二

2017-02-21 21:32:42 | 日記
1969年

広島東洋カープは十八日、広島市基町の球団事務所で、さきのドラフト会議で五位に指名していた千葉商大、小林正之内野手(22)=右投げ右打ち、1㍍70、70㌔=と、同七位、埼玉・大宮高、島村雄二内野手(18)=右投げ右打ち、1㍍74、70㌔=の入団を発表した。小林選手は日大一高時代、春、夏連続甲子園出場、千葉商大へ進学してからも東部地区リーグで四回も首位打者を獲得している。また島村選手は一年の夏、甲子園に出場、高校時代の通算打率は3割9厘で、埼玉県下ナンバーワンの大型内野手といわれていた。

小林選手の話「早くプロのスピードになれたい。幸い先輩の大羽さんもいることだしカープに骨を埋めるつもりでがんばる」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東田正義

2017-02-20 22:58:42 | 日記
1967年

名古屋から近鉄特急で一時間二十分、そこから車で十分。山のいただきを切り開いたような伊勢市営球場。三重交通の野球チームはいまそこでひっそりと練習している。じみなこのチームで大きな東田はすぐ目立つ。当りは群をぬいている。脚光をあびたのはことしの夏の都市対抗で西濃運輸に補強され、四打数四安打、1ホーマー、3打点の大あばれをしてからだ。その後の産業対抗の鉄道・運輸部門の予選(八月二十九日、対西濃運輸)でも四打数二安打、1ホーマーとよく打った。名乗りをあげたプロは巨人、西鉄、中日。ノンプロ四年目で通算ホームランが十四本の力はプロのスカウトをひきつけるには十分の魅力。中日はまだ直接勧誘の手は打っていないが、巨人は加藤、西鉄は深見スカウトがすでに周囲の説得をはじめている。加藤氏は御所工時代から「攻走守そろった選手」と注目、あまり有名にならないうちに巨人へ、と考えていたらしいが他球団もマークしていた。スカウトの評価は「足が速く、プロのスピードになれれば使える。二十二歳と若いのもいい」(深見スカウト)ただ中堅より右の打球が多く内角に弱いのではないかという心配がある。中日・柴田渉外課長は「右でも左でもスタンドまで運ぶ力はりっぱ」といい、右翼にホームランできる腕っぷしの強さに逆に高い評価を与える。本人は「右方向が多いのは偶然で、左へも引っぱれる」と不服そう。しかし「プロで力をためしたい。チームはどこでもいい」という。弟と二人兄弟。父親・末義さん(43)が胃弱で無職のため、経済的にはあまり恵まれていないようす。円子監督(元南海投手)は、大黒柱を失うのは残念だが、と前置きして「プロでやっていけるだけの馬力はある。力負けすることはない」と推薦する。ただ「すぐでられるチームがいい。下積みが長すぎるとマイナスだから・・・」というあたり西鉄を希望している感じ。南海時代に深見スカウトと知りあいあったこともあり、自由競争のころだったら西鉄有利で局面が展開していたかもしれない。「体力ならだれにも負けない。ただ肩にあまり自信がない」と東田はいっているが、中日・塚越スカウトは「打撃さえよければ、まだ若いから肩や足は鍛えようでどんどん進歩する」と保証していた。大きくてがんじょうな荒けずりの素材。産業対抗の予選(浦和市営球場)には、関東地区相当の各球団スカウトがそろって顔をみせていた。東京・山田スカウトは「三拍子そろった大物ですよ。問題は内角を打てるかどうか、スカウトが集まったのはその品定めですよ」といっていた。(東田正義=ひがしだ・まさよし=、1㍍81、78㌔、右投右打、松阪営業所勤務)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石黒和弘

2017-02-20 22:07:48 | 日記
1963年

大毎の青木一三チーフスカウトは、八日午後六時三十分、名古屋市大名古屋ビル内の香取で帰省中の慶大石黒和弘遊撃手(22)=名古屋市熱田区尾頭町=と会い、最終的な話し合いをした結果、大毎入りが決定した。石黒選手は中京商時代から攻守に定評があり、慶大では三季連続ベストナイン(ベストテンに通算四度)に選ばれている。身長1㍍72、体重67㌔、右投げ右打ち。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井輝比古・井上正晴

2017-02-20 21:52:46 | 日記
1967年

東映の瓜生スカウトは三十日午後二時、福岡・大濠の福岡第一高に都築副校長、平山野球部長、野中監督をたずね、さきのドラフト会議で交渉権を得た石井輝比古投手(18)=1㍍83、75㌔、右投げ右打ち、井上正晴三塁手(18)=1㍍78、73㌔、右投げ右打ち=の両選手とプロ入りの交渉をはじめることについて了解を求めた。両選手は現在、ノンプロの電気化学(新潟)に就職が内定しているが、学校側は「本日たちの気持ちしだいだから、交渉は自由にしてかまわない」と了承した。このため瓜生スカウトは、同日よる福岡市大濠一丁目の石井宅を訪れ、父親の元一氏をはじめ家族と会い、東映入りを要請、さらに同市清川町の井上宅でも父親の正雄さんら家族に入団をすすめた。この日は両選手とも意思表示はしなかったが、ともにプロで働きたい気持ちをもっているところから、プロ入りは時間の問題とみられる。なお瓜生スカウトは一日、鹿児島県で鹿児島鉄道局・末永吉幸遊撃手、二日は熊本で電電九州・田中達生捕手と交渉する予定。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安木祥二

2017-02-20 20:48:38 | 日記
1969年

待ちかねたように、別所監督がダグアウトから飛び出していった。握手をし、手をたたき自分が勝利投手になったよりもうれしそう。「安木には、あとをまかせたんだ。ベンチに残っている投手は、渋谷しかいないんだから・・・」別所監督の声が、ダグアウトの裏にはね返る。汗みどろになり、ナインの祝福に頭を下げる安木に、岡嶋コーチがカミナリを落とした。「なにがありがとうだ。サインの見落としをしておきながら・・・。罰金ものだぞ」決勝の中前安打になった十一回表の打席。カウント1-3からファウルとしたが、実はこのタマが待てだったわけ。「ぜんぜん知らなかった。打席にはいる前、監督から軽くミートっして打てーといわれていたもんで」と頭をかいた。決勝の中前安打は安木にとってはプロ入り二本目の安打。2打数2安打の10割。アトムズでは安木、松岡などこの試合で登板予定の投手はみっちり打撃練習をしている。東京・杉並の合宿ではバットの素振りをかかさない。「投手も打てなくては・・・」という別所監督の方針が、勝利に結びついた。こんどの名古屋、九州遠征に出る前、安木は別所監督から秘密命令をうけている。緒方、浅野とともに、毎試合救援に出ることに決められていた。だから九回に村田を救援してマウンドに上がったときも心の準備はできていた。左打者の千原にぶっつけた策もうまくいった。「巨人戦で王、広島戦で山本一と左バッターは完ぺきに押えているから、かならずうまくやってくれると思った」と別所監督の信頼はあつい。千原への投球は得意のカーブ。スリークォーターから一度浮き上がるようにしてグイと落ちるカーブは、安木の最大の武器。球質が大洋のファイヤーマン平岡に似ているところからON封じの秘密兵器と期待されている。低めのシュートも威力があり、左打者へのワンポイント・リリーフにはうってつけ。当分は救援専門でいくが、いずれは先発投手に成長させたいのが首脳陣の考えだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矢頭高雄・戸梶正夫

2017-02-20 20:24:46 | 日記
1967年

東京オリオンズは十一日、矢頭高雄外野手(33)、戸梶正夫捕手(28)が退団したと発表した。矢頭選手は同日午後八時三十分から、東京・恵比寿の青木チーフスカウト宅で、青木一三チーフスカウトと話し合った。この結果、同選手は現役引退を決意、今後は同球団のスカウトに転向する。戸梶捕手はすでに球団に退団を申し入れていたが、この日、球団側が正式に辞表を受理したと本人に通告した。戸梶は自由契約選手になるが、本人は今後、ユニホームを着る意思はなく、神戸・三ノ宮で食堂を経営する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野球選手 その後

2017-02-20 20:00:29 | 日記
1969年

家業をつぐものは多種多彩だ。生活に密着している食料品店からはじまって八百屋(南海・永本氏)カマボコ店(阪神・辻邦氏)から阪急・斎藤芳氏のように材木店まで。また、西鉄、広島、南海と渡り歩いた大和田氏のように食べ物店の経営を計画している人もいる。野球への愛着を捨て、サラリーマンとして再出発する考えを持たない選手のほとんどは家業を継ぐか、家事の手伝いだ。数年前、巨人・長島の恋人といわれ、長島の調整台になった近藤氏のように、百姓に専念するといい切った選手はない。が、テスト入団やプロ生活一年で消えていく選手の中には、近藤氏のように野で働く人がいないことはない。野球選手とは違うが、同じ野球界で生き抜いた老兵国友審判員(セ・リーグ)も、ことしで審判生活から引退した。国友さんは、いま長い審判生活で疲れたからだをいやしながら回想にふけっている。「野球のことは忘れられないでしょうから、のんびり暮らす。スタンドから野球をみてみたい」半生を野球にかけた人だけに、若い人たちと違って野球には強い愛着を持っている。来シーズン、スタンドでくつろぐ国友さんの姿がしばしばみられるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中由郎

2017-02-20 19:21:45 | 日記
1979年
・今シーズンで、4年目を迎える田中由郎投手の「株」が急騰している。ロッテ時代「いの一番」にドラフト指名されながら、精神面の弱さが禍いし鳴かず飛ばず。
当時の濃人スカウト部長は責任をとって退団。「首切り由郎」などという有り難くない異名を頂戴して、本人も昨年は大洋へ放出されてしまった。それが移籍2年目にして、やっとピッチング開眼。「軸足のタメ、粘りをキャンプ中に徹底して山根コーチに教わった」そうで、欠点だったノーコン病も是正された。紅白戦では遠藤と競って一軍入りを果たしたばかりか、近鉄とのオープン戦でも3回を投げ1安打
に抑えた。下手からの速球にカーブ、スライダー、武器のシュート、落ちるシンカーの威力は抜群。その後のシートバッティングでも主力延べ45人と対戦し、山下、田代、松原、長崎、高木、福嶋、中塚ら計13三振を奪い、その力を証明している。「ボールを放すポイントが一定してきたし、この分だと中継ぎどころか先発に使えるぜ」と、山根コーチを喜ばせている。本人もいまは「投げるのが楽しいし、今年ダメならボクを発掘してくれた濃人さんに申し訳が立ちません」と連日、
猛練習に打ち込んでいる。2年目の門田が、出遅れているだけに、この田中の出現は、別当・大洋の「救世主」になれるかも・・。過去2勝8敗の「未完の大器」に
4年目にして遅まきながら春が訪れた感じだ。

・オールスター戦までの、折り返し地点が間近になったが、ここまでの大洋投手陣をカゲで引っ張って行ってるのが、4年目になる田中だろう。敏恵夫人との間に長男が誕生し、父親としての責任感が芽生えた。それに昭和30年生まれの「年男」として同年輩の遠藤が7連勝と活躍。日本海の寒村生まれの男にやっと闘争心、ライバル意識が芽生えたといえる。一時は「首切り由郎」とか、今春のオープン戦で東京都駅構内でコン倒したことから「失神投手」の陰口を叩かれた男にも運がめぐってきた。6月9日のヤクルト8回戦「神宮」で先発・野村が2回半ばでKО。
2番手で登板したところ味方打線が爆発。3点差を逆転し移籍後の初白星。このとき6回2/3イニングを1失点に抑えた実績を買われ、遠藤が肩痛でダウンのあと、先発のチャンスが到来。7月4日の広島戦「横浜」では8回2/3を投げゲームは4-4の引き分け。もし、このゲームを落としていれば大洋は開幕以来、初のBクラス転落のピンチだっただけに、田中の粘りのピッチングが光った。この「朗報」に
現在は広島市東本浦町の故郷に帰っている濃人さんも、63歳の年齢を忘れ
「やっと・・・」と絶句していた。

1980年
・「濃人さん、見ていてください。これがプロ5年目のピッチングです」---。
ロッテから移籍して3年目の田中が惜しいところで大魚を取り逃がした。
6月3日、広島7回戦「広島球場」に田中は1ヶ月ぶりに先発。広島の山根と互角に渡り合って6回まで両軍1安打ずつ。6回表、二死から田中は自らのバットでチーム初安打も放つ。投げてもホームランダービーのトップを行く衣笠をシンカーで連続三振、山本浩も速球と横の揺さぶりを駆使し三振に討ち取るなど「奮投」した。昨年、田中はリリーフ中心で5勝を挙げ「今季こそローテーション入りか」といわれながら、集中力不足で、まだ1勝どまり。2日前の、1日・阪神戦「横浜」では竹内をリリーフして満塁から押し出し四球を与え「今年の田中はいったい」と首脳陣の怒りをかった。そんな中、この日は首位戦線をひた走る広島を、よく抑えた。7回ウラ衣笠の内野安打と、基の手痛いエラーが絡み二死二塁のピンチで降板。「もっと投げたかったんですが、チームの事情ですから」。この後を継いだ
遠藤が連続タイムリーを打たれ田中は負け投手になったものの、自信回復の投球内容だったようだ。

・投打とも好調なチームの中で、ひとりだけ「カヤの外」にいるのが田中である。
4月、阪神5回戦で1勝。5月は「春休み」としゃれ込んだあと6月はヤクルト戦
、連続完投で2勝をマーク。「完全に先発ローテーションに組み込める」の評価を受けたのも束の間だった。6月24日のヤクルト12回戦でパラーゾの打球を左胸部に受けてから、シンカー、シュートの威力が半減してしまった。加えて「ノミの心臓」が顔を出し、逃げまくりのピッチングに戻ってしまった。四球を連発しては、
肝心なところでカウントを取りに行く甘いストライクを痛打され、黒星街道をバク進中。最近はいずれも自滅のピッチングで、ついに6連敗を喫してしまった。
「5回まで持っても、集中力が続かないから自分で考え過ぎて自滅してしまう。ほんとうに、横っツラでもひっぱたいてやりたいよ」と山根コーチを嘆かせる始末だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近藤重雄

2017-02-19 21:09:31 | 日記
1971年

入団発表に現れて近藤投手は、さすがに落ち着いていた。新人の入団発表という若々しい希望にあふれた中にもどこか浮ついているものだが、近藤投手にはそれがまったくない。「ノンプロでは先発完投だったが、プロにはいったらそうもいかないでしょう。打順ひと回り、押えればと思っています」長いサラリーマン生活が自分をわきまえさせるようになった。ロッテが指名獲得したのも「3イニングをピシャリと押えられるし、即戦力になる」(田丸スカウト)と判断したからだ。それを裏づけるように近藤投手はいう。「セ・リーグではち密な野球をやるが、パ・リーグでは少々荒っぽい。私はシュート、スライダーを得意にしているのでパの方が通用すると思います。ロッテでよかった」もし、指名したのがセ・リーグで、先発完投という期待をされたらプロ入りはしなかったという。しかし近藤投手はこのドラフト会議で指名されなかったら、やはりサラリーマンを続けただろう。福島県石川郡の学法石川高から三十六年、日本コロムビアに入社した。それ以後は同チームの主戦投手として活躍。三十九年には夏の都市対抗で久慈賞を受賞したこともあった。だが、ことしにはいって本社が経営不振になり、九月に野球部は休部した。二十五人いた同僚のうち六人以外は転職、近藤投手を含めた六人もちりぢり。近藤投手は、オリオンズにいた山本管理課長の力で川崎工場から本社に転職した。そのころ、会社側は希望退職者を募りだした。「私もそこで考えました。このままでは将来が不安になると思いましてね。就職さがしをはじめたんです」なんとも身につまされる話だが、そのときの月給六万円少々。かほる夫人と圭子ちゃん(三つ)をかかえた生活もある。しかし、好きな野球はやめたくない。一時は軟式でもと思い、話を進めたこともあった。それに、サラリーマンといっても、つまるところやはり野球選手。一年の半分以上は本職の事務はとっていない。「そうかといって、おいそれと野球のできる職はないしと思っていたんです」そんなところへ、ロッテの指名が降ってわいたわけである。だが、近藤投手はまたまた考え込んでしまった。「野球は好きだが、プロとなるとねえ。プロは厳しいですからね。生半可な考えではやっていけないですもの」この入団発表の前日の二十九日、近藤投手の会社日本コロムビアは再建整備のため、約千二百人の希望退職者計画を完了した。同じ日、永田ラッパの大映は遂に解散に追い込まれた。それもこれもドルショックの不況嵐が年末の町を吹き荒れているからだ。厳しい世の中である。サラリーマン世界も負けず劣らずに厳しい。確かに近藤投手は瀬戸際に立たされた。だが、厳しいがプロ野球というはなやかな世界への手がかりをつかむことができた。やはり幸運にめぐり会えたといってもいいのではないだろうか。「これまで女房に苦労させていたし・・・」瀬戸際に立たされた男の度胸が、来季のマウンドでどう出るだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする