プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

バークベック

2020-08-28 06:42:06 | 日記

1995年

外国人投手当たり年の今季、カヤの外状態だった横浜だが、シュワーズを解雇して代わりに契約、6月26日に来日したバークベックが、7月2日、初登板初先発のマウンドで安定感あふれる投球をみせて初勝利を挙げた。大リーグでの通算成績は12勝19敗。今季はメッツで4試合に先発、0勝1敗ながら、防御率1.63と安定したピッチングぶりを買われての横浜入りだったが、デビュー戦でいきなり、パームボールがさえて、中日打線をほんろう。6回を2安打無失点。四死球ゼロとテンポのいいピッチングを披露したのだ。MAX139キロで威圧感こそないが低めをていねいにつく投球は、当たり年にふさわしい掘り出し物を感じさせてくれた。何でもこの新助っ人、試合前にはピッチング練習をせず、バッティング練習で体をほぐす程度で気楽!?にマウンドに上がるという変わりダネ。体のどこにも余分な力の入らないピッチングぶりは、こんな調整法にも秘密があるのかもしれない。ブルペンはセ・リーグでも№1を誇る横浜だけに、このバークベックが先発ローテーションに加わってくるとなれば、ガ然、元気が出てくるというもの。大崩れしそうにない助っ人右腕に、セ・リーグ打者は戸惑いそうだ

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スティーブ

2020-08-28 06:29:19 | 日記

1977年

「あんな気の小さなやつもそうそういるもんではないで。試合で投げるたびビビッていては話にもならん。ある意味でピッチングとは度胸なんやが、あれではなあ…」カネやんの評価はすこぶる厳しい。これまで7試合に登板。投球回数20イニング、被安打16、被本塁打3、四死球17、自責点14で防御率は6.30。さんさんたる成績だが、キャンプ、オープン戦での期待度は、かなり高かった。ストレートには力があったし、低めへくると微妙に変化したものだ。カーブはといえばブレーキの利いた鋭いもの。キャンプ、オープン戦でのスティーブを見た評論家諸氏も一様に、「おもしろいピッチャーだ。第2のバッキーになれるのでは」を連発したものだった。が、いかんせん心臓が弱い。もちろん度胸のことだ。190センチ、97キロの恵まれた体格を持っていても、ノミの心臓では、第一線の戦いで能力を十分発揮できようはずがない。4月8日、三度目の登板となった大阪球場での南海2回戦は直接勝敗に結びつく大切な場面だった。8回まで6-2とリードしていながら、突然招いた9回のピンチ。締めくくり役でマウンドに立ったが、3四球を連発。そのうち二つが押し出しで大逆転を許すという、ひどいものであった。そのときは経験不足からビビったようにもとれた。が、それ以後登板するたびに、ガタガタ、ブルブル。試合後は、ピンク色に陽焼けしているはずの顔をまっ青にして、頭を抱え込むばかりだ。「ワシはダマされた。体は大きいくせに、ヒツジちゃんじゃ、使いたくても使えんワイ」と自ら手塩にかけて「育てる」と言明したカネやんもゲンナリ。お陰で5月1日、登録まっ消こそ免れたものの、二軍行きの断が下った。とはいえ、一長一夕に心臓が強くなろうはずもない。依然、四球連発を恐れることからボールを置きにいくピッチングのまま。イースタンのマウンドに立ってもパッとしない。ファームの首脳陣からも「あれでは試合にならない」と見放された格好だ。かつて(50年)、ロッテにマクナルティという一発屋がやってきたことがあったが、からっきしダメで、そのため今季のスティーブ・マクナリティは、縁起をかついでファーストネームをスティーブを呼称としたいきさつがあるが、今のところ球団の思いやり?も通じていないというところだ。「やつが一人前になるには、かなりの時間がかかるやろな。どうせ育てるのなら、スライダーかフォークか、少なくとももう1種類は球種を増やさなきゃならんし…」カネやんの展望はお先まっ暗と出ている。投手陣のふがいなさから不振のスタートを切り、現在も火の車の台所を考えると、スティーブの立場は、いきおい弱いものとなる。「外人ワクは2人だけなんやで。スティーブを育てることには変わりないんやが。もっと外人ワクを有効に使わんことには苦しいで。なあ、そうやろう」カネやんの言い分はもっともである。ところが、渡る世間に鬼はないーとはよくいったもので、野球で災いした純情が、タレント業ではセールスポイントとなった。ロッテ本社の新製品野球リーグ、フウセンガムのCF撮りの際、新鮮な魅力を発揮した。「がんばれ!ペアーズ」で人気を博したテイタム・オニールばりの甘いマスク。変な外人と言う珍しさもあって、CFの方は大成功を収めた。現在CMタイムに各家庭へ顔を出しているが、こちらは好評で、なかなかのものだ。こんなタレントとして力を発揮していては簡単にポイとはできぬ。おまけにロッテ本社から「なんとか育ててみては」のアドバイスがあってはなおさらだ。とはいえ、勝負の世界は厳しいもの。スティーブに力のつかない限り、一軍のマウンドはあり得ない。力のないアイドルはお荷物になるばかりだからー。 

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スティーブ

2020-08-28 06:04:59 | 日記

1977年

テスト生としてチームに合流していたスティーブ・マクナリティ投手(23)=195センチ、97キロ、右投右打、ウォーターベリー(2A)=の採用が決り、4日正式契約が行われた。契約はキャンプ終了後、東京で行われる予定だったが、オープン戦登板のため早められた。

西垣球団代表は23日、東京・新宿の球団事務所にスティーブ・マクナルティ投手(23)=190センチ、97キロ、右投げ右打ちを呼び、退団を通告した。わずか4カ月前、スティーブは期待を躍らせて羽田空港に降り立った。童顔の金髪投手は、ロッテの入団テストを受けるためだった。自主トレ、キャンプを通じ、投手としての評判が日増しに増していった。持ち前の重い速球に、タテに大きく割れるカーブをたたきつけた。周りの投手陣が、まだ六分程度の力でしか投げ込んでいなかったときだけにスティーブの球威は一段と強いものに映った。「即戦力にはならないが、先が楽しみなピッチャーやで」カネやんがその素材にほれ込み、正式採用を決めたのが3月4日だった。チーム内でもアイドル的な存在で、この異色金髪投手は陽気さを振りまいたものだった。そのうえ、育ちのよさもあって純真そのもの。カネやん以下、先輩ナインのアドバイスにも「イエス」と、黙々と練習に取り組んだ。そのかいあってか、ドジャースの2Aからきたテスト生は開幕からベンチ入り。初登板も、開幕日の4月2日、仙台で村田のあとを受けついであこがれのマウンドをすぐさま踏んだ。が、ブルペンとは異なり、実戦のマウンドでは、本来の持ち味は出なかった。重くて速いストレートは、打ちごろのボールに変わり、走者を許せば二塁はタダ同然のマウンドさばき、さらに、コントロールも狂って、それまで得ていた評判も吹っ飛んでしまった。カネやんが、こんなスティーブに解雇の断を下したのは「投手としての体裁のなさ」が原因だった。ことに、ノミの心臓とまでいわれた度胸のなさだった。「技術が未熟というならまだしも、度胸のなさはどうしようもないで。いくら時間をかけたって、直るものでもないからなあ」7試合に登板、0勝1敗、防御率6.30。開幕から2カ月足らずでユニホームを脱ぐ羽目に陥った。「日本が好きだ。それに日本で野球の勉強がしたい。ロッテがダメなら、他のチームでも…」とあくまで日本でのプレーを望むスティーブだが、周りの情勢は厳しい。 

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スコット

2020-08-28 05:49:52 | 日記

1993年

ブラックス、ローズに続く第三の外国人選手として、エンゼルスダリル・スコット投手(25歳)=185㌢、84㌔、右投右打)の入団が決定した。2年契約で、年棒は推定50万㌦(約5400万円)今季は日本のファームに当たるAAA級チームのバンクーバーで、ストッパーとして活躍。ストレートを武器にした本格派で、成績は7勝1敗15S。「アグレッシブさと冷静さを兼ね備えたところが、オレの持ち味。コントロールも問題ない」とスコットは、自信たっぷりのメッセージを日本に届けてくれました。これまでは救援主体でしたが、近藤監督は「先発として10勝を期待している」と話していた。抑えには盛田、佐々木のビッグ二枚看板が控えており、駒が足りない右の先発陣を考慮してのものだが、細かい起用法は本人が来日して首脳陣との話し合いで決まる。

1994年

春の珍事、といわせていただこう。新外国人のダリル・スコット投手にはとんだキャンプ初日となった。来日の途中でお尻に腫れ物ができ、痛みが限界にきたため、宜野湾市内の病院で緊急手術。キャンプ初日は、結局報道陣用の写真撮影だけで、宿舎に引き揚げるハプニングとなったものです。長旅の疲れだったというのだから、自宅のある米国サクラメントからロサンゼルスを経由しての成田到着。1日おいて今度は羽田からの沖縄入りという3日がかりの大移動により、尾てい骨の下に小指の先ほどのオデキができてしまった。スコット自身も「プロに入って練習を休んだのは、きょうが初めて、残念ね」と意気消沈していましたが、問題はキャンプでの投球練習ではなく、シーズンの働きぶり、一つ貸しを作ったと思って、開幕以降に期待しよう。

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デービス

2020-08-28 05:35:45 | 日記

1989年

何やら、異様なムードに包まれていた。狭い神宮室内練習場は30人を超す報道陣でごった返し、押すな押すなの盛況ぶり。「いったい、何があるんだい。ビッグ・イベントでも始まるのか?」いつもは主役のパリッシュだが、この日、5月30日ばかりはお目当てが違った。ターゲットは途中入団の新外人・ロン・デービスだ。前日の29日来日し、注目の初練習。大リーグ通算130セーブの右腕に、ウの目タカの目が集結したわけだが、そんなフィーバーぶりにも、デービスは顔色ひとつ変えない。室内練習場の屋根を激しく叩く豪雨に、「ナイス・デー!?」とジョークを飛ばす余裕すら見せた。初投げは35球。真っすぐにスライダー、フォーク、それにライジング・ファストボール(浮く速球)、シンキング・ファストボール(沈む速球)と、ひと通りの持ちダマを披露した。「状態はすこぶるいい。試合の方は二、三日見てほしいが、ベンチ入りぐらいならOKだ。近くで(試合を)見るのも勉強になるからね」いきなりの優発言。昨年、ヤクルトにいたデシンセイに雰囲気が似ており、外見だけみてもマジメタイプ。「デーやん2代目って感じだね!?」と、関根監督は早くもニックネームをつけて、ハシャいでいたが、問題はその中身だ。アイケルバーガーが、とんだ食わせものだっただけに、デービスに対する関心は並のものではない。ヤンキースを皮切りに、ツインズ、カブスなど、大リーグ通算11年間で47勝53敗130セーブ。ストッパーひと筋として働き、ツインズ在籍時代の82年から85年にかけては4年連続20セーブ以上をマーク。これはツインズのチーム・レコードとして、今も残っている。さらには、こんな数字もある。ヤンキース在籍時代の81年5月4日の対エンゼルス戦。7回一死から8連続三振でゲームセット。次回登板となった対マリナーズ戦でも先頭打者を三振に取り、2試合をまたがっての9連続三振をマーク。これもア・リーグのレコードだ。「これだけの数字を残しているんだから、すべて、本人任せでいいんじゃないの。いい状態になったときに、パッと使ってみたいな」と初投げ、そして過去のデータに、すっかり安心の小谷投手コーチ。「本人も日本に来たがっていたからね。新しいところで、気分的にも違うだろうし、きっとヤッてくれるでしょう。実をいうと、デービスは二、三年前からリストに挙がっていた選手なんですよ」と、関根監督もご機嫌だった。しかし、ここで、にわかに素朴な疑問が浮上してくる。何で初めからデービスを取らなかったのか、という部分だ。相思相愛であり、かつデービスはここ数年、マイナー・リーグが主戦場。しかも獲得には何の障害もなかった。何も、アイケルバーガーに高い年棒を持って行かれずに、済んだはずである。関根監督の説明はこうだ。「確かにリストアップはしていたけど、実際の資料がなかったんですよ。去年、渡辺(守備コーチ)をアメリカに行かせたときに、ビデオを収めてくるよう指示したんだけど、1週間デービスを追っかけて、全然投げなかったのです。だから、ユマのテストでよかったアイケルバーガーを、とりあえず…という感じになったんだよね」そのアイケルバーガーが撃沈し、そして、デービス。獲得に至る経緯は理解できたが、結局、こちらも海のものとも山のものとも分からないままのサイン、極端な話、投げてみなけりゃ分からない‥‥という怖さは、アイケルバーガーと変わりないのだ。さて、そのデービス。大リーグでの実績がアイケルバーガーより上だけーという現時点の評価ではあるが、それでも全盛時は炎のストッパーとして名を売った男。ウワサされるヒジ、肩の故障説についても「いったい、誰がそんな根も葉もないことをいったんだい?断っておくが、体にメスを入れたことは一度もないよ」と、顔をしかめて見せる。85年以降の極端な成績落ちについては、同年のシーズン中、打球を素手で捕りにいって、右手中指の第一関節から指先まで裂傷したのが発端とか。普通なら投げられないケガだったが、当時のツインズの投手事情は火の車、投手コーチから「無理してやってくれ」といわれ、スーパー・グローという医療用の強力接着剤を付けてプレーを続けた、という。これが元で、一気に下降線を辿る。他にも、85年の対ヤンキース戦でマティングリーにサヨナラの一発を浴び、この試合で3試合連続救援失敗。マウンドでおいおい号泣したエピソードもある。どちらかといえば日本的な浪花野球人らしい。「チームのため、勝利のためにオレは投げる」とデービス。炎のストッパーはヤクルトを救援できるか!?

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高野初司

2020-08-27 21:03:47 | 日記

1958年

県北では最強豪。五月初旬には広商とともに山陽大会出場校となっているのでナインは自信満々。打撃も全般的に上昇線をたどっており、県大会ではかなりのところまで行けそう。投手は高野、河面両選手とも完投能力をもち、エース高野は長身から繰り出すドロップとアウトコースに決る直球が武器。 

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カスティーヨ

2020-08-27 08:19:19 | 日記

1987年

そこはメキシカン。「ラッキー」を連発して、抑えの郭を抱え込む。逆転勝利で、自己の投球採点が30点もはね上がった。六月初めに中日入り。失意の日々を過ごした。ゲーリーを抜けず、大リーグで40万㌦の年棒を稼いだ男が、二軍で望み薄い待機。ゲーリーの故障でお呼びかかった時は、どん底に落ちていた。三週間ぶりの実戦。いかに陽気なメキシカンでも、それが最初で、失敗すると、ラストチャンスになることを知っている。ブルペンで25分間、100球近く全力投球。びしょぬれのままマウンドに上がった。うわさのスクリューボールは、確かにすごい。時には左投手のスライダーのよう。外側から切れ込む。必死の六回は、投手の松本を相手に、5球中3球がそのスクリュー。監督は、限界を超えているのを十分承知で代えようとしない。「さまざまな重圧に耐える男を、回の途中に降ろすわけにはいかんだろう」監督は、カスティーヨの大リーグ時代を熟知している。「こんなものじゃない」カスティーヨは期待にこたえて言う。「おれの勝負球は、おふくろから丈夫な肩をいただいたおかげで、何球でも続けて投げれるんだ。次のゲームを見てくれ」巨人戦もラストチャンスと心得て投げる気だ。日本の投手が「ヒジ、肩に一番危険な球」と回避するスクリューを。

カスティーヨの初登板をみた。結論から先に言うと、今後については正直、半信半疑である。投球の軸は外人特有のスクリューボール。シンカーに近い球だが、やや回転が遅く、その分だけ落差が大きい。大洋の三振はほとんどがスクリューだった。追い込んでからは非常に有効だ。しかし、制球のバラつきは気になる。相手が慣れてくると、しっかり見極められそう。加えて、直球のスピードが135㌔前後と遠くない。スクリューとの球速の差が少ないのもマイナス面になる。手先で細工せず、地肩の強さで投げるのが特長で、多投しても負担が軽い半面、覚えられやすい。宝刀はここ一番こそ。ほかの球でいかにカウントを整えることができるかだ。

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ジャービス

2020-08-27 08:01:26 | 日記

2001年

1998年に中日でプレーしたジャービスが、自身初の10勝目(9敗)を挙げた。日本では4試合に登板しただけでわずか1勝2敗。99年はアスレチックスで0勝1敗、昨年はロッキーズで3勝4敗と、メジャーとマイナーを行き来していたが、パドレスに移った今季は開幕から先発要員。レッズ在籍時の96年に8勝(9敗)を挙げたのが自己最多で、昨季まで大リーグ通算15勝23敗だったが、今やチームの勝ち頭だ。140キロ台後半の速球とスライダー、チェンジアップが武器。「中日ではチャンスに恵まれなかった。緩急の差はつけられるようになって成長したと思う。パドレスに来てよかった」と、笑顔で話していた。

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ロックフォード

2020-08-27 07:47:14 | 日記

1990年

マウンドには来日2試合目登板のロックフォード。「打ったのは真っすぐ。ストレート、スライダー、チェンジアップを投げてくるが、ストレートが多かったので狙っていた」と会心の宇野。192センチの長身をひねりながら横手から投げる変則左腕との初対決にも「そんなに威圧感はなかったからね」とのんでかかっていた。 

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キャンベル

2020-08-27 07:41:33 | 日記

1997年

キャンプ初日から張り切って合流しているのが、新外国人選手のマイク・キャンベル投手と、ビル・セルビー内野手。キャンベルは貴重な先発ローテーション投手として、セルビーは重要なクリーンアップ・トリオの一角として横浜浮上のカギを握っている。2人ともマジメで勉強熱心。初めての日本でのプレーに、米国では日本チームのビデオを見て徹底研究してきたことを明かしました。2人が口をそろえて、要注意人物に挙げたのが、巨人・松井。「日米野球のビデオを見たんだけど、マツイという男は本当に印象的なバッターだね」実際に対戦することになるキャンベルは「絶対に真ん中には投げられない。対戦するならコントロールが重要だね」と早くも対策を練っている。日本の球場は広くないという印象を持ったようで、テーマは「松井にホームランをいかに打たさないか」、注目だ。


先発候補として期待されたが、オープン戦で右肩を故障、開幕には間に合わない。触れ込みでは右の本格派と言われたが、来日してみるとスライダーとチェンジアップを主体とした軟投派で、キャンプ時点からその実力には疑問符をつける声が圧倒的だった。実際肩を痛めた阪神とのオープン戦でも1イニング7失点するなど、期待外れのラク印を押されてしまった。肩が回復しても一軍入りは難しい状況で、途中退団の可能性も。 

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バートサス

2020-08-27 07:08:09 | 日記

1991年

91新外人中、最も遅れてヤクルトのティム・バートサス投手が3月5日に来日した。米大リーグ在籍9年間の通算成績は、138試合14勝14敗1セーブ、防御率4.08。昨年は大リーグを代表するストッパーのディブル(レッズ)につなぐ中継ぎ役として29試合に登板。85年には先発として10勝をあげている。しかし、バートサスへの関心の焦点はその実績ではなく、201㌢という身長。昭和26年から約370人の来日外人中、球団発表の公称でいけば身長200㌢のハワード(太平洋)アニマル(阪急)ブーマー(オリックス)の3人が過去最高。つまりバートサスは日本プロ野球史上、最長身というわけだ。「209㌢のジャイアント馬場がいる」と、おっしゃる方もいるだろうが真相はさにあらず、昭和34年の選手名鑑には「巨人・馬場正平投手、六尺四寸(約195㌢)とあるのだ。バートサスは翌6日からチームに合流して早速ピッチングを披露。サウスポーでややスリークォーター気味のオーバーハンド。ヤクルトでは抑え役を予定しており、「あれなら打者はアゴを上げて腰を引いてくれるやろ」と野村監督。本人も「あと2週間あれば仕上がる」と自信満々。しかし、かつて長身選手が大活躍した例はあまりないし、さらにヤクルトでは最近、アイケルバーガー、バニスター、ロックフォードと外人投手は大はずれ。ヤクルトファンは「身長よりも野球で史上最高に」というのが偽わざる心境だろう。バートサスは果たして「左腕不足と抑え不在」の弱点補強となり得るか!?

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デニス

2020-08-27 06:52:58 | 日記

1997年

伊良部との交換トレードでパドレスの2Aから移籍。トンプソンのおまけ的な存在に見られていたが、登板するたびに評価は上ってきた。ストレートは130㌔台と外国人投手としてはパワー不足は否めないが、体に長い腕がまきついてくる感じの投げ方で、バッターはタイミングがとりずらそう。問題は制球力で、ストライクがキチッと入れば、面白い存在となりそうだが…。先発不足の投手陣だけに、ローテーションの一角として出番はありそう。

1998年

期待されながら未勝利に終わった昨年は、いわば教育期間。スライダーを武器に、左腕不足に泣くチームのローテーションに残れるかどうか、今年は勝負の一年になる。ライバルはクロフォードだ。 

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デービス

2020-08-27 06:44:47 | 日記

1989年

ヤクルトの新外人ロン・デービス投手(33)=192センチ、90キロ、右投げ右打ち=三十日、神宮室内練習場で初練習、前日来日したばかりとは思えない軽いテンポで35球を投げ込んだ。投球フォームは横手投げに近い。長い腕が「体に巻きつくように」(小谷投手コーチ)振られ、低めに力のある球を集めた。変化球はフォークボール、スライダーが中心。横手からだけでなく、時折アンダースローも交えるなど変幻自在の投球ぶりだった。時差の関係で疲れはあるものの「状態は非常にいい。きょうからベンチ入りできないのが残念なくらい」と、デービスはやる気を見せた。-両日中にも一軍登録され、六月三日からの中日2連戦(神宮)からマウンドに上がることになりそうだ。

七回無死二、三塁でヤクルトは新外人のデービスを初めて投入した。大リーグ通算130セーブの輝かしい戦歴。気後れしたようにジョージが144キロのストレートで三振。落合の四球も、ヤクルトベンチにしてみれば「かえって守りやすいぞ」だった。その時、宇野は入念にタイミングを計っていた。「四球のあとはストライクを取りにくる。まっすぐだけを待った」ヤクルトの捕手中西は、おそらくデービスのストレートに魅せられていたのだろう。迷うことなく直球サイン。144キロ。宇野のバットは完ぺきに捕らえた。 

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ボルトン

2020-08-26 17:10:05 | 日記

1996年

AAA級ナッシュビルサウンズ時代、93年に10勝1敗、防御率2.88で最高勝率、最優秀防御率。
直球はそれほど速くないが、2種類のスライダーを含め、低目に集める投球は日本向き。

新外国人のロドニー・ボルトン投手の評価が日増しに高まっています。第四クールの16日から19日まで、キャンプ地を巡回中の審判団が高知入り、本番さながらに「ストライク」「ボール」をコールするなか、ボルトンのピッチングをジャッジした東利夫審判は「少しずつボールを変化させているし、テンポもいい。実戦向きで日本ハムのグロスに似ている」と絶賛。グロスと言えば、昨年、16勝をマークした強力助っ人。ボルトンがグロスばりの活躍をすれば、悲願のAクラス入りも夢ではありません。このボルトン、日本語の上達も早いのですが、なんとパチンコも完全マスターしていました。「ホテルのテレビを見ても言葉が分からないし、映画は目が疲れるからネ。パチンコは時間も潰れるし、ラッキーならお金も、儲かるからネ」

王監督が自ら渡米してテストを行って獲得したロドニー・ボルトン投手が開幕2カ月経った6月2日の日本ハム戦で、遅ればせながら来日初勝利を飾りました。開幕2試合連続KOで4月12日にファーム落ち。この原因はキャンプ中のダイエットで体重が9㌔減。これで球威が失くなったと知ったボルトンは「ウチでアメリカにいた頃と同じ料理を食べて体重を増やした」と5㌔増。これが効いたのかストレートのMAXが139㌔と開幕時より7㌔もアップしていたのです。そして、来日中だった兄のグレッグさん(36歳)夫婦と恋人のエイミー・ハリソンさん(27歳)が帰国を2日遅らせて、福岡ドームのスタンドで声援を送りました。「家族が来ていてくれたことで精神的にもずい分、リラックスできた」とボルトンはグレッグさんらに感謝しきりでした。この試合、9回無死満塁で降板。代わって登板した同じく新外国人のホセが3人でピシャリ。「やっと投手の補強が実ったよ」と、王監督が本人たち以上に喜んでいたのが印象的でした。

ロドニー・ボルトン投手、スコット・ライディ外野手の2人の外国人がシーズン終了を待たず9月14日に帰国しました。ボルトンは「低めに決まる変化球は日本の打者に有効」と王監督がアメリカ、高知と二度にわたってテストを行った末に獲得した選手。それだけに「自分でテストしたのに…。これでは周囲から何と言われるか…」と試験官の王監督もがっくり。

ダイエー先発ボルトンが一回もたずに7失点で降板した。「どうなってるのかな。先発として指名した以上、任せようと思ったけど‥‥。まさか上田にもっていかれるとは…」王監督も視線も定まらない。初回に3点の援護を受けながら、その裏に上田の満塁弾などで大量失点。はやくも勝負はついてしまった。「もう(先発では)使えない。チームの士気にも影響する」と村田投手コーチは切り捨てた。「ローテの変更?やらなければいけない」開幕から、まだ4試合目。村田コーチの顔には悲壮感すら漂っていた。

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カラーラ

2020-08-25 16:45:52 | 日記

1998年

「大学球界での華々しい実績と甘いマスクをひっさげて、鳴り物入りのプロ入り」といえば、だれもが巨人・高橋を思い浮かべる。だが昨年の今ごろは、間違いなくダイエー・井口を指していた。だがデビュー戦で満塁本塁打を放つ派手なスタートを切ったものの、その後はしりつぼみ。出場76試合で打率2割3厘と期待外れの印象が残る1年だった。今季、周囲の注目度は昨年に比べ、はるかに低い。しかし反比例するように、実力は着実にアップしつつある。この日も成長の一端を見せつけた。まず二回、低めのチェンジアップをすくい上げて左中間へオープン戦第2号のソロ本塁打。打たれたカラーラは「良いコースに決まったと思ったが…脱帽だ」と舌を巻いた。

二十一歳の若武者のひと振りで、ダイエーが開幕3連勝を飾った。七回一死、二塁。カウント1-1からの内角シュートをフルスイングした。打球は高々と舞い上がり、左翼スタンドへ。その行方を見届けるまでもなく、城島はこぶしを突き上げてみせた。六回まで、井口の2安打だけに抑えられていた。適度に荒れたカラーラの投球に翻弄(ほんろう)されたのだ。先発武田も、七回途中で降板。十六年連続負け越し中の苦手を相手に、劣勢は隠せなかった。しかし、城島の見る目は違った。「六回に三振ゲッツーをとったでしょ。あれで流れが来たと思った」ヒーローになるチャンスを待ち望み、集中力を高めていった。そして迎えた七回。初めて、複数の走者が塁を埋め「みんなが一番打って欲しいと思う場面(王監督)だ。前回にも増した拍手が、城島を迎える。重圧は計り知れない。だが、ひるむどころか、感覚は研ぎすまされた。「ホームランを打てる球を意識し、狙っていた。2球目の変化球をファウルして、次は内角のシュート」完ぺきに配球を読み切った、自ら「文句なし」の3点本塁打だった。 

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