1986年
ルーキーには似合わず、物おじしないところに大物の片鱗が。昨シーズンはツキに恵まれずプロ入り初勝利を逃したが、ことしは一気に5勝は狙える成長ぶりとか。性格も明るく、ことしパッと花咲きそうなムードあり。そのためにはストレートとカーブの他にもう一球変化球が欲しい。
1986年
ルーキーには似合わず、物おじしないところに大物の片鱗が。昨シーズンはツキに恵まれずプロ入り初勝利を逃したが、ことしは一気に5勝は狙える成長ぶりとか。性格も明るく、ことしパッと花咲きそうなムードあり。そのためにはストレートとカーブの他にもう一球変化球が欲しい。
1996年
ドラフト会議の席上で、他球団をアッといわした隠し球。下半身のバランスの良さが生む抜群の制球力と、タイミングよく決るスクリューとスライダー。ドラフト同様、虎の秘密兵器として、アッと驚く活躍に期待。
1997年
田村高時代は2年秋の福島県大会にベスト8に進出したぐらいで、ヨークベニマル入社後もひたすら投げこみによるフォーム固めと筋力トレを重ねてきた。公式戦での登板はないものの長い腕から柔らかく使う投球フォームはこれから大きくのびる魅力を見る者に感じさせる。左腕から140キロを超えるストレートとタテに大きく割れるカーブが武器。日本ハムでヨークベニマルの1年先輩で昨年早くも20試合に登板している平松のあとを追いたい。
1992年
新聞配達をしながら大学へ。しかも野球部の代理監督を務め、チームを引っ張っていた。中央球界でも全く無名。大学で野球をしながら町の草野球チームにも出場。千葉県内では異色のサウスポーである。秀明八千代高から八千代国際大へ。千葉大学リーグでは、一昨年と昨年最優秀投手賞に輝いた。千葉大学リーグ選抜チームで米国遠征に参加もはたした。左腕からのピッチングは、無理のない素直なフォーム。「大野二世」をめざす。
1993年
異色のルーキー。高2の時に完全試合達成。北海道工大4年のときはエース兼主将、おまけに監督までこなした。「野球全体を見られた。野球を覚えるのにはいい経験だった」と振り返る。横手からの切れの良いシュート、スライダーを投げるが「10球投げれば肩ができる」という特徴で社会人時代は先発から抑えまでフル回転した。即戦力として十分、期待に応えてくれそうだ。
1997年
長崎・島原工では2年秋からエースとして活躍。平成6年渡米し、フロリダ州セントピーターズバーグ短大に留学。1年後さらに高いレベルを求めてアリゾナ・ウェスタンカレッジに転校、中継ぎ、抑え役で2勝2敗1セーブの成績を残し、2年間の留学を終え昨年6月に帰国している。140キロ台の速球にカーブ、スライダーを駆使、さらに米国でマスターしたチェンジアップを武器に、3年間待ちに待ったプロ入りの夢を実現させた。
1996年
大きなカーブと、キレ味鋭いフォークが高い評価を集めるサウスポー。課題の制球難を克服し、常時140キロ台の速球をマークできるようになれば、一軍から声がかかるのも時間の問題。愛工大名電高で1年後輩だったオリックス・イチローとの対戦も夢ではないだろう。正念場の6年目。闘志を内に秘めてプレーしてきた伊藤の目の色が今年は違う。
1996年
魔球と評される中ノ瀬フォークと146㌔のストレート。その威力は、初めて金属バットが採用された一昨年の都市対抗で、2試合連続完封勝利したことで証明済み。度胸の良さと三振ピッチングで、新守護神誕生!?
1991年
寺前家には宝ものがある。小学生だった寺前が、日生球場でもらった近鉄のウイニングボールだ。ときはたって1991年。今度は寺前自身が猛牛ファンの少年たちに、宝ものを贈る番になった。もちろんドラフト1位。そして背番号は18。近い将来、エースに君臨することを期待された逸材であることは、いまさら言うまでもない。本人も「背番号を汚さない活躍をします」と決意も熱い。2種類のカーブも魅力だが、現在143キロでまだまだ伸びる未完の大器。右手をあげる独特のフォームが躍り、今年また、ひとつ豪球伝説が誕生する。
1996年
甲子園で力投した男も今年が6年目。「もう、甘えてはいられない。勝負の年」
昨年の黒潮リーグで覚えたフォーク。秋季キャンプで「いける」との感触をつかんだ。今年のキャンプ、オープン戦でそれに磨きをかけ、開幕から一軍定着を目指す。そのためにも「真っすぐのコントロールもつけたい。まずプロ入り初の1勝」で弾みをつけたい。
1998年
ハワイのウインターリーグでマスターしたチェンジアップを武器に一軍定着を目指したが、7試合に登板し0勝4敗と一軍のカベを痛感した。ファームでは余裕をもって投げられるのに上ではチャンスをもらいながら応えられなかった悔しさ。「細かいコントロロールをつけて再挑戦」と燃える。
1999年
左腕から繰り出す、スライダー、チェンジアップ、さらにシュートと多彩な変化球が持ち味の技巧派。制球や投球のテンポも良いため、野手も守りやすく、打たせて取る頭脳的なピッチングが期待できる。クロフォードとの一軍枠争いに勝ち、ローテーションを。
1991年
秋季県大会準優勝の実績からしてVを狙える有力校。そのカギをにぎるのは右本格派・三好の出来。県内屈指の速球派で落差のあるカーブはそうは打てない。
午後三時四十五分、巨人から川口工高・大脇監督に5位指名した、との電話連絡があった。三好正晴投手は十二球団どこでもOKの意向だったが、「実際は十番目でも指名されないと思っていました」と、人気球団からの5位指名に「うれしいのかやれるのか複雑な心境」とおおげさな喜びの表情はなかった。同投手は子供のころからプロにあこがれていたのではなく本格的に志願し始めたのは、今夏の選手権が終わったあと、二年生の秋からエースとして活躍、昨年の秋季大会で準優勝し、関東大会にも出場した。選手権では思った結果こそ出せなかったが、速球が魅力の大型投手として活躍が期待される「これからはトレーニングを積んで体をつくりたい。いまは目標にする選手はいません」と話していた。これで川口工高からは四人目のプロ選手。大脇監督は「三好は精神的な強さがないから四年間の修行(大学)が終わってから遅くはなかった」と内定していた大学のこともあって困惑気味、が、この厳しい親心を三好が成長するためのせんべつにしているようだった。
1993年
ルーキー干場崇永(ドラフト4位)には、簡単に追い込まれ、138キロのフォークで仕留められた。「ストライクゾーンの見極めができていない」。試合後の松井は、反省しきりだった。
1998年
八、九回を抑えた干場がプロ入り六年目にして初勝利を挙げた。「全然知らなかった。うれしいですけど、本当はもっと早く勝ちたかった」と、喜びの中にもちょっぴり悔しさものぞかせた。1年目の1993年に2試合投げて以降、昨シーズンまで公式戦の登板はない。だが今季は小差の場面で中継ぎとしてマウンドに上がり、ベンチの期待にこたえている。「(投げ終わると)今までになかった疲れがあるけれど、充実感の方が大きいです」と気持ちよさそうに汗をぬぐった。
1994年
(プロ初先発で三回降板)一番自信のあるスライダーが狙った所へ行かず、組み立てができなかった。先発の雰囲気を味わえたし勉強になった。
1993年
先発の江坂はフォークボールとスライダーを低めに集め、右腕から右打者の外角いっぱいに決まるシュートを有効に使い、唯一ピンチを迎えた四回の無死一、二塁も中島を三ゴロ併殺打に仕留めて、プロ初完封。
1986年
ドラフト1位の新人右腕投手、桧山(東筑高)が初めて打者相手に投げた。栗橋、羽田、梨田、大石の主力に約60球。「八分の仕上がり」というストレートを投げ込んだ。ナチュラルにシュートするため、右打者は詰まる場面もあったが、栗橋には快音を残され「満足いく球は四球ぐらい。栗橋さんにはどこに投げても打たれそうな気がした」と桧山。しかし、初体験にしては落ち着いており、コーチ陣は「荒れるかとおもったけれど、いい心臓をしている」と印象を語った。栗橋は「回転がよく意外に重たい」羽田も「いい投手だ。もっと伸びるよ」とほめていた。