1996年
今季から野茂(ドジャース)のようなトルネード投法に取り組んでいる。近鉄の品田が初勝利を挙げた。本家ばりの角度のある直球とフォークに加え、100㌔前後の緩いカーブが有効に決まり、七回途中まで相手打線を6安打、自責点2に抑えた。品田は「最後まで投げたかったけど、まず1勝できてホッとしています」佐々木監督は「ようやった、この1勝は大きいで」と大喜びだった。
1996年
今季から野茂(ドジャース)のようなトルネード投法に取り組んでいる。近鉄の品田が初勝利を挙げた。本家ばりの角度のある直球とフォークに加え、100㌔前後の緩いカーブが有効に決まり、七回途中まで相手打線を6安打、自責点2に抑えた。品田は「最後まで投げたかったけど、まず1勝できてホッとしています」佐々木監督は「ようやった、この1勝は大きいで」と大喜びだった。
1994年
大きなかけに思えた。5連勝で迎えた西武戦。大事な初戦の先発指令を受けたのは、プロ5年目の二十二歳、高橋功だった。昨年までずっとファーム暮らし。中4日でエースの星野を投げさせる案もあったが、山田投手コーチは秋田・能代高の後輩を仰木監督に進言した。成算はあった。プロ初先発だった二日の日本ハム戦では、七回途中まで好投している。「球を低めに集められるし、緩急の差がつけられるから、西武には通用するかもしれない」と山田コーチは考えた。一回のマウンド。左の安部から始まる西武のジグザグ打線を3者凡退に仕留めて、リズムに乗った。スリークォーターからしなるように右腕が出てくる野田に似たフォーム。140㌔台の直球と100㌔台のスローカーブとの緩急の差を生かすことに一番気を使った。「西武には打たれて当然」と開き直って投げたこともよかった。高橋功が生まれた1971年、山田コーチは今の高橋功と同じ年で22勝を挙げている。後輩は、やっとそのスタートラインに立った。生まれて初めてのヒーローインタビュー。その後は、ファンが待つ右翼スタンドまでウイニングランと続く。「ここまで長かった。4年分を一気に駆け上がった気がする」と高橋功。記念のウイニングボールは、偶然、故郷の秋田から球場に来ていた両親に贈ることにした。
1997年
今季初先発で二年ぶりの勝ち星を挙げたオリックスの高橋功は「ボールが低めに集まった。シュートがよかった」と、ひと息をついた。2連打されて降板した六回途中まで打者二十四人。外野への飛球は一本もなく、安打も大半がゴロだった。毎回走者を出しながら無失点だ。「今日ぐらいの結果なら先発でいけるだろう」と山口投手コーチは評価した。
1999年
クロス気味に足を踏み出す投球フォームは、少しぎこちなく見える。ステップした際に体の動きが一瞬遅くなり、そして急に腕が出てくる。しかし、この変則的な動作が彼の武器である。打者にとってタイミングが取りづらいのだ。直球は130㌔台後半。だがスライダーやフォークの組み合わせで球が生きてくる。プロ十年目のベテランは自らの長所を生かし、ダイエー打線のタイミングを狂わせた。一回守りの乱れから1点を失った。「いやな点の取られ方だったから、引きずらないように。走者を出さないことに集中した」という。二回以降はどんどんストライクを先行させていった。そうなると彼のペースだった。六回までわずか2安打。仰木監督は「功一はよかった。次は中四日で予定しているから、いいところで代えた」と満足そうにうなずいた。
1989年
エース宮川を軸に投手力は安定している。宮川は180㌢、75㌔の左腕で、カーブ、シュートなど多彩な球種で打者をほんろうする。左ひじの痛みがやや気掛かりだが、バックの信頼が厚く打たせてとる投球がうまい。
プロ野球ドラフト会議で日本ハムから5位指名を受けた大館商高三年の宮川晃投手=180㌢、75㌔、左投げ左打ち=は四日、プロ入りの移行を強めたことに伴い、就職が内定していた秋田あけぼの銀行側へ報告に訪れるとともに、初めて球団側と実質的な交渉を行った。宮川投手はこの日、「気持ちは半分以上、プロ入りに傾いている」と話し、プロ入りの意思をほぼ固めた胸の内を明らかにした。この日は、同校野球部の石垣寿也監督、父親の幸衛門さん(52)=鹿角市十和田、農業=とともに、就職が内定していた秋田あけぼの銀行を訪れ、同校野球部の石崎透監督らに「指名を受けてプロ入りの考えている」旨を伝えた。石垣監督によると、秋田あけぼの銀行側は「最終的に本人の意思で決定してほしい」と話した。この後宮川投手らは、日本ハムのスカウトと秋田市内のホテルで指名後初めて実質的な交渉を行った。球団側は本人の意思や内定先の受け止め方などを聴く一方、宮川投手らはプロ野球の練習内容や生活環境などを確認した。球団側は十日ごろに二回目の交渉を行い、その席上で契約金や年棒などの条件を提示し、同球団の入団発表が予定される今月二十日までには仮契約にこぎつけたい方針だ。
プロ野球ドラフト会議で日本ハムから5位指名を受けた大館商高三年の宮川晃投手(18)=180㌢、75㌔、左投げ左打ち=は十六日、鹿角町十和田大湯字大川原三七の自宅で、日本ハム山田正雄スカウトと三度目の交渉に臨み、契約金三千万円、年棒三百六十万円(いずれも推定)で仮契約した。交渉には宮川投手と父親の幸衛門さん(52)、大館商高の武田保夫教頭、石垣寿也野球部監督らが臨み、一時間余りかけて交渉。仮契約にサインした。仮契約終了後、宮川投手は山田スカウトとガッチリと握手し、「指名を受けたときは六分四分で、内定していた地元の銀行に行こうと考えていたが、本当に好きな野球をやるならプロで自分の力を試してみたい、と両親に話した」と入団への経緯を語るとともに「一年目は体をつくり、二年目からは一軍入りを目指し、将来はチームの大黒柱になれるよう頑張りたい」と抱負を語った。山田スカウトは「柔軟な投球フォームとひじの使い方がいい。体さえできればプロで十分にやっていける。焦らず三年先を目標にやってほしい」と期待を寄せる。日本ハムはこれで阪神に続き、ドラフト指名選手全員の入団が決まった。入団発表は二十日、東京都内の全日空ホテルで行われる。一月十五日からは自主トレーニングが始まるが、宮川投手は「学校とも相談して参加してみたい」と意欲を示した。母親のヒロ子さん(49)は「チームの皆さんにかわいがられて、一日も早く立派な働きができる選手になってほしい」と語っていた。鹿角市からはドラフト制が実施されて以来、初のプロ入り選手。昭和三十七年西鉄(現西武)に入団した米田敏美投手(十和田高)=同市十和田錦木出身=依頼、二人目のプロ野球選手。市民も今後の活躍を期待している。
1989年
七回コールドで能代工を完封した中川(一年生)は昨年、全県少年野球大会で山内中を準優勝に導いた速球派左腕。決勝で城南中を相手に延長十二回の死闘を繰り広げたことは記憶に新しい。先発を言い渡されたのは試合の直前。しかし中川は「(先発を)いつ言われてもいいように、と心の準備はしていた」とさすがに度胸満点。物おじせずにマウンドへ上がった。被安打5、奪三振5の成績。六回には四球、安打、エラーで無死満塁のピンチを迎えたが「大量リードしていたし、全く気にならなかった」と平然と言う。四番打者を一邪飛に、続く五番をダブルプレーに切って取った。何事もなかったかのようにベンチへ戻った。球種は直球、カーブ、シュート。高校へ入ってからは3種類のカーブを覚え、ほぼストレート一本やりだった中学時代よりも投球に幅が出た。「3回戦以降も、監督に「行け」と言われたらいつでも行きます」中学時代よりちょっぴりほおが膨らんだ中川は、一段とたくましさを増した。
1984年
エース原田は長身の本格派で、スピードガンで140㌔を超す速球投手。最近はカーブや落ちる球をマスターし、一段と安定味を増している。スタミナも十分で、昨秋ノーヒットノーランを達成するなど、県西屈指の好投手だ。
粗削りとはいえ梅沢二世の呼び声が高い原田投手。前半、リキみすぎて球が思うように走らず茨城打線に合わせられるシーンが見られたが、同点に追いついた後の十、十一回は六人の打者に対し三振5つと終盤になって本領を発揮。いずれも速球でストライクを取り、高校へ入ってから覚えたというカーブで決める本来の投球パターン。相手打線が高めのつり球とボールになる低めのカーブに手を出して、助けられはしたものの、低めに伸びるストレートとスタミナは魅力十分。試合後、原田投手は「きょうの点数をつけると五十点、悪かったです」と反省しているが、投げるたびによくなる投手だけに二回戦以降が楽しみ。
二十七日伊藤スカウトが茨城・笠間高に原田明広投手(18)(1㍍80、76㌔、右投げ右打ち)と坂倉監督、両親を訪ねて入団交渉し、契約金千八百万円、年棒二百肋十万円で入団を決定した。原田投手は中央球界では無名だが、右の本格派で、レベルが高い茨城高校野球界でも二年生のころから注目されていた。
二十七日にドラフト外で巨人と仮契約を済ませた笠間高の原田明広投手が、早くも自主トレを開始し、一月八日からの合宿に備えている。原田投手は181㌢、75㌔という長身を利した伸びのある速球で昨秋から頭角を現し、県内では梅沢二世の呼び声が高かった。今夏の全国大会県予選では、一回戦で茨城高の好投手江尻と投げ合いを演じるなど、予想にたがわぬ力投を見せ活躍。華々しい戦績は残せなかったが、プロスカウトの注目を集めた。九月に入ってからは巨人をはじめ広島、阪神など七球団から接触があったが、ドラフト会議では指名されず自由競争になった。なかでも巨人はドラフト会議終了後、いち早く原田獲得を決定し、笠間高の坂倉監督を通して原田家に打診。二日後の二十二日には伊藤スカウトが笠間高を訪れ契約金千八百万円、年棒二百六十万円の条件提示を行った。子供のころからプロ入りを志望していた原田は、あこがれの巨人の誘いを快諾したが、富士重工の内定を得ていたため、富士重工の承諾を得た二十七日に仮契約となった。原田は「契約した日は本当にうれしかったが、今は緊張感でいっぱい。二、三年後には後楽園のマウンドを踏めるように頑張ります」と意欲的。現在は堀内ピッチング、阿野トレーニング両コーチが原田用に作成した練習メニューを精力的にこなしている。坂倉監督は「条件面では本人が誇りをもって巨人のユニホームを着られるようにしてほしいとだけ注文した。原田には、人に教わろうとせずまず自分で努力すること、私生活でも巨人の一員としての自覚を持つように話した」と三年間手塩にかけたまな弟子を頼もしそうにながめる。伊藤スカウトが「マウンドでエビがはねているようなフォーム」と評したその雄姿を一日も早く後楽園のマウンドで見たいものだ。
1997年
阪神のドラフト2位・中ノ瀬幸泰投手にとって、プロ元年は苦しいものだった。即戦力の触れ込みながら、ついに初勝利はお預け。そんな右腕が、ハワイへと旅立った。ウインターリーグで約2カ月の武者修行。パワーピッチを身につけて、目指すは来季の守護神だ。大きくて大切な忘れ物をしたような気がする。阪神のルーキー・中ノ瀬にとっては、そんなプロ1年目だった。「今にして思えば、飛ばしすぎだったと反省しています。周りのみなさんが中ノ瀬ってどんなヤツだって注目するじゃないですか。自分では惑わされてないつもりだったんですが、それが意識の始まりだったんでしょう」苦汁と辛酸に満ちた一年だった。ドラフト1位の船木とともに、前評判は当然、「即戦力」獲得に尽力したスカウトからの報告も、「変化球、特にフォークは抜群。うまくいけば、抑えでいける」という内容だった。猛虎待望の若きストッパー。左の古溝との左右W守護神構想は、藤田阪神の骨格の一つだった。0勝1敗、防御率7.27。船木、林とともに、開幕一軍にこそ名を連ねたものの、中継ぎでのKOの連続に、藤田監督も方針変更を決断。開幕ダッシュに失敗したチームに、辛抱の言葉はなかった。4月早々に二軍降格。一軍戦での登板数は、わずか「6」16試合に登板した二軍戦でも、1勝5敗1セーブ。悪くてもセットアップを当て込んでいた首脳陣にとって、これは明らかに誤算だった。だが、シーズンを終えた今、中ノ瀬の胸中は、失意ではなく2年目の巻き返しに燃える闘志で占められていた。今季の自己分析は張り切りすぎ。即戦力ルーキーとしての自覚が裏目に出て、周囲の熱視線に自らが踊ってしまったというものだ。来季こそ‥。そんな中ノ瀬の熱い気持ちを、球団側もサポートする。昨年から参戦しているハワイ・ウインターリーグに、中ノ瀬の派遣を決定。10月6日、所属する「ヒロ・スターズ」の面々と合流するため、竹内、山崎らと勇躍、飛び立ったのだ。「一軍の成績で判断されるのは、プロである以上、仕方ない。でも、光るべきものがあるからこそ、ハワイへ行かせるんです。彼の場合はコントロール、ただ、船木には球種が分かっていても打たせない球威があるが、中ノ瀬にはそれがないのは事実。力のある外国人を相手に、そのあたりを学んできてくれればと思っています」派遣メンバーの人選に大きな影響力をもつ野田二軍監督が、決定に至った経緯を明かした。左、右、真っすぐと3種類の落ち方をするお化けフォークに水平スライダー。精密機械さながらの制球力に、パワー自慢の外国人にも通じる真っすぐが加われば…。「先発かリリーフかは分かりませんが、アピールして帰国します。ついでに肌ももっと焼いて、現地の人と見分けがつかんくらいになってきますよ」色黒。鼻は中世の南蛮人を思わせるほど大きく、高い。今季、取り忘れたプロ初勝利。ハワイで過ごす2カ月で、唯一欠けているパワーピッチを身につけてくるはずだ。
1997年
プロ入り6年目。巨人時代、一度も踏むことのなかった一軍マウンドに向け、羽根川は新天地で一つの賭けに出た。昨秋、千葉・館山で行われた秋季練習でサイドスローから元のスリークォーターに直したのだ。「その方がバランスがいいんですね。ワンポイントとして使うのだったら、より球威が求められるだろうから」(植村投手コーチ)一昨年痛めた左肩も完治。貴重な中継ぎ左腕として近藤監督以下、首脳陣の期待も厚い。巨人時代にサイドスローにしたのは、持ち前のスライダーのキレをよくするだったが、外角中心の攻めだと、いずれ打者につかまってしまう。緻密なセ・リーグの野球とは対照的にパ・リーグは、投手の大胆な攻めがカギを握る。いち早くそれに対応するため、羽根川は春季ピオリア・キャンプからシュートを練習し始めた。「だんだんと思い描いた球を投げられるようになってきました。これでイチローの右手をへし曲げましょうか、エヘヘ…」無邪気に笑うのも自信の表れ。左投手に与えられた宿命ともいえるイチロー封じを、すでに念頭に置いてキャンプでの調整を続けてきた。プレッシャーからの解放も羽根川の気持ちを楽にした。巨人時代には二軍と言えども報道陣、ファンの目が常にあった。周囲の目を意識し、ライバルと競うのはプロとして当たり前のことだが、羽根川には少しばかり異常な光景に映ったのだ。「巨人と比べてここ(ロッテ)は、周囲の目が集まらないので気持ち的にラク。でも、それに甘えていたらダメだと思っています。今度は本当の意味で自分との闘い。集中力を高めてやらないと」ピオリア・キャンプで初の紅白戦登板となった2月9日。羽根川は紅組の3番手として2回を投げて1失点。ルーキー・清水に出会い頭の一発を食ったが、3三振を奪う内容だった。結局、ピオリアと鹿児島でのキャンプ紅白戦で5試合に登板し、7回を投げ、4失点。同じチームとはいえ、初めて対戦するパ・リーグの打者相手に、調整段階でこの数字なら十分。近藤監督も「園川と2人で中継ぎとして使っていきたい。なかなかいいんじゃないですか」とまずは合格点を与えた。第2次鹿児島キャンプ後、左ヒジに違和感を感じ、地方でのオープン戦には帯同せず、スローペースになったが、「これからが勝負になりますね。せっかくのチャンスですから頑張りますよ」とヤル気をみなぎらせる羽根川。開幕まであとわずか。貴重な中継ぎ左腕として、後はオープン戦で結果を残すだけだ。
1996年
6月4日、ジュニア・オールスターの出場メンバーが発表されたが、選出されたことを誰よりも素直に喜んだのが巨人・羽根川竜投手だったのではないだろうか。今年5年目のサウスポーは朝、スポーツ紙を開いて初めて自分が選ばれたのを知ったという。セ・リーグの一軍で活躍してる某ルーキーにジュニア・オールスターの話を振ったところ「1000万円払っても出たくない。休みたい」と言われ、リアクションに困ったコトがある。ところが羽根川は「自分が選んでもらえるなんて信じられなくて、しばらくは喜びに浸ってました」と頬を染めた。左投手でありながら力不足を指摘され、故障も経験。ファームですらなかなか出番のないまま4年間暮らした男らしいコメントではないか。昨年8月、サイドスローに転向したのも幾度も悩んだ末の結論だった。もう後がない。目先を変える意味でもトライしてみよう。藤城二軍投手コーチと二人三脚で一軍でオマリーの一殺要員になろうを合言葉に練習を積んだ。初めは慣れない投法のせいでとんでもない方向に球が行ったり、正直大丈夫なのだろうかの思いも羽根川にはあったそうだが、1カ月も過ぎれば違和感はなくなっていた。球の軌道が分かりやすかった以前と比べて、打者がタイミングを取りづらく球威も増したように感じる。そして、黒潮リーグ。羽根川に決定的な自信を与えたのがオリックス・ニールだった。入団した頃から左打者だけは抑えろヨと口やかましく指導され続けた羽根川がニールを空振り三振に斬って取ったのだ。調整で参加していたといえ、日本シリーズにも出場した助っ人である。この一球が羽根川をグンと成長させたと言っても過言ではない。今年に入って、やっと試合で使われるようになった羽根川は地味ながら結果を出した。4月には中継ぎで6試合に登板し、失点を許さず首脳陣に、その存在をアピール。他球団からもマークされるようになった。2種類のカーブとシンカーが安定し、コントロールが良くなったのだから、そうは打たれない。だが、欲を言えば、もう少し球威が欲しい。もっともっと背筋を鍛え、下半身を強化して投げ込みを怠らなければ成長は続くだろう。「今年は毎日が楽しい。僕、野球が好きだから、ずっとできたらイイなって思うんです」そんな羽根川はジュニア・オールスターでの目標は「左打者から三振を取ること」普段は打たせて取ることを信条としていた男が珍しく自信タップリに言った。こんな言葉を聞くと、7月19日が急に待ち遠しく思えた。
1990年
控えの谷内は左腕で、中堅手。直球はスピードをつけ威力をつけたが、カーブの制球が課題。
1993年
スライダーを武器に、キャンプの紅白戦などでは好投を演じるが、もっと荒々しさがほしい。背番号も95から小さくなって飛躍の年に。
1994年
昨年はサイパンキャンプのメンバーに選ばれた。着実にレベルアップをはかっている。上を目指せ、飛躍の年に。
1995年
細腕左腕は昨年、一軍に大抜擢されて先発までこなした。今季は開幕一軍を目指す。
1996年
一時フォームを崩していたが回復の兆しが見えてきた。ファーム連続勝利を挙げていた頃のピッチングを思い出せば…。
1998年
左の中継ぎ陣は競争激化だが、評価的には一軍レベルとそん色ない。切れ味に磨きをかけてチャンスをつかむ。
1999年
昨年はウエスタンでノーヒット・ノーランを達成。習得したチェンジアップで中継ぎの座を確保したい。
1998年
176㌢、66㌔。ユニフォームを着ていなければとてもプロ野球選手とは思えないスリムな体。谷内聖樹は4年ぶりに抜擢されたサイパンキャンプで、思い切りアピールを見せている。左腕から繰り出される大きなカーブと手元で微妙に変化するストレートが持ち味。一軍実績はほとんどないが、「何とか小池に続く左の先発投手に出てきてほしい」(佐々木監督)との願いからの抜擢だ。京都の西京商からドラフト外で入団。その条件が「打撃投手もやってもらう」だった。ストレートは130㌔止まり。見るからにひ弱い感じを与えるだけに、「4、5年でプロの世界から消えていく選手」とだれもが見ていた。来る日も来る日も一軍の打撃練習に駆り出され、ファームでの登板もままならない日々…。だが一軍打者の意外な反応のおかげで、谷内に一筋の光明が差し込んだ。「あの95番(今は65番)、手元でストレートがナチュラルに変化するんです。打ちにくい」その声が首脳陣の耳に届き、94年にはサイパンキャンプに抜擢された。5月にはファームで完封2を含む3連続完投勝ち。投手陣の台所が苦しくなった6月には一軍に抜擢され、先発も1度こなした。ここまでならまさにシンデレラストーリー。だが、地獄も見た。主力投手の調子が戻った後、再び二軍落ち。そこであるコーチにフォーム改造を命じられ、左肩を痛めてしまったのだ。そして長い低迷…。やっと昨年辺りから「いい時の谷内に近いものが出てきた」とファーム首脳陣に評価されるまでになった。そんな苦境からの今年のサイパン抜擢。「チャンスを与えてもらって感謝しています。今年で僕もプロ8年目。結果を残したいですからね」と目を輝かせる。発奮材料はまだまだある。近鉄には「京都サウスポー館」という親睦団体があった。京都商出身の清川、平安高出身の江坂。赤堀と同期で93年秋に退団した西城陽高出身の田口…。同じ左腕のライバル同士で互いに励まし合い、自主トレを一緒に行なったりしていた。それが昨オフ、江坂は阪神に、清川は広島へとそれぞれ移籍。ついに谷内一人になってしまったのだ。「そうですね。寂しくなりました。清川さんや江坂さんには、いろいろ教えてもらいましたし…」だが振り返ってばかりいるわけにはいかない。新たな競争を勝ち抜かなければならない。近鉄の左投手陣には昨年最多勝利の小池がいる。中継ぎには実績を残した柴田、西川のコンビ。そして先発の座を争うライバルには2年目の前川がいる。サイパンに選ばれたからといっても、谷内が一軍に生き残るには紅白戦、オープン戦で結果を出す必要がある。「左には一人でも多く出てきてほしい」(佐々木監督)と言う願いに谷内がこたえられるか。「一度は超えてみたい」という年棒の1000万円の夢実現のためにも、勝負のかかった年になりそうだ。
1997年
ドラフト6位指名。能代高3年夏に甲子園出場の経験がある。東北福祉大では故障に悩まされ、96年の明治神宮大会でチームは準優勝したが、村上に登板の機会はなかった。しかし、長身から投げ下ろす145㌔の速球と鋭いフォークボールを買われて、指名された。
1997年
ドラフト指名6位。田村高(福島)では、2年の秋季大会でベスト8に残ったのが最高。社会人のヨークベニマルでは、96年の郡山市長杯で1回1/3を投げたのが公式戦の唯一の登板だが、球速130㌔後半のストレートはナチュラルにスライドし、縦のカーブも鋭い。
1992年
ヒジの故障で選手登録から外れていた田吹昭博投手が、6月15日に支配下選手登録、29日のイースタン対大洋戦で初白星を挙げ、ようやくプロのスタートを切った。下半身の強化と試合経験を積めば、将来、とても楽しみな選手になる。田吹の持ち球は直球とスライダーの2種類だけである。直球はインコースにシュート気味にそして、スライダーのキレのいい日は左打者との相性がいい。田吹は今のところ、この二つの球で勝負している。日本ハムは、平成2年度入団の10選手がすべて投手だ。ドラフトで6名、ドラフト外で4名、田吹はドラフト外入団だった。昨年の成績は、3試合2回1/3登板で防御率23.5と決して誉められる内容でなく、マウンド上の姿を見ても、走者を出した時の投球に不安を感じないではいられなかった。しかし、秋季キャンプ終了後の近藤一軍監督のコメントで、最も伸びた新人投手の中に田吹の名前があった。高校3年の83㌔から9㌔の減量で腰にキレも出て、球威が増し、まとまりの欠けていた内容も、多少安定して来た成果であろう。同期の岩本や中山が、ベテラン柴田の行う自主トレに参加するのを横目に、合宿所で黙々と練習を続けた努力が実ってオープン戦登板のチャンスも手にするが、開幕間近、3月27日の検査でヒジに異常が見つかり、決して投げられなくはないのだが無理は禁物と支配下選手登録を抹消。しかし、この時も腐らず焦らず、ウエート、ランニング、遠投などのメニューをこなしていた。6月29日も、何回か雨でチャンスを流した末、やっと手にした先発だった。首脳陣がメドとした100球を20球オーバーの8回11安打2失点の内容に、三浦投手コーチも「もともと、センスと度胸は持ち併せていたが、投球に粘りが出て来た。何よりもフォームが安定して、ぎこちなさがなくなった」と合格点をつけている。今後の目標は完投。そのためには、もう一つ落ちるボールをマスターすることと、下半身の強化に課題を置いて、今年一年はファームでの実績を確立してほしい。小学校時代に優勝した以外、野球でトップに立った経験がない。まさか、プロに入るとは思わなかったという田吹は、幼い頃、西宮球場で観戦した阪急対ロッテ戦のナイターの美しさに胸を躍らせたそうだが、だから一番の夢は、カクテル光線の下で投げること。入団時ライバル視した高卒同期の5人が、今は全く気にならなくなったと話す彼の好きな言葉が七転び八起き。決してスムーズではなかったファームでの一勝は、間違いなく一軍への長い道のりの第一歩である。
1992年
1年生とベテランばかりが目立つ日本ハムファイターズのファームの中で、一軍首脳陣が待ち望んでいる左腕が、2年目の中山大輔投手だ。昨年後半からメキメキと力をつけ、秋季キャンプでは監督賞をもらうほどに成長した。何とか一人前にという計らいで、今年はベテラン柴田投手の行う自主トレに参加。夜のミーティングでは精神論を学んだものの、ガンバリ屋が災いし、飛ばし過ぎてアキレス腱を痛め、結局、春のキャンプを脱落、スタートは出遅れてしまった。何とか這い上がって、開幕当初はリリーフで結果を出したものの、その後は、もらった二度の先発のチャンスに早い回に点を取られて降板、という悪いパターンの繰り返しだった。中山のデータを調べてみると被本塁打は0。しかし、与四球が奪三振の約3倍。日本ハムの左投手中、一番のスピードボールを投げるにしては惜しい内容であるが、この四球は、闘争心がないから与えてしまうとは決めつけられない。持ち前の負けず嫌いが、逆に作用してテークバックで力が入り過ぎ、リリースポイントが不安定。そのため、球が散ってしまうようなのだ。球種はまだ、ストレート、カーブと時々投げるシュートと少ないが、中山の潜在能力からすれば現段階では十分である。課題のコントロールについては、筋力強化がポイントとなりそうだ。芝草が開花した例から考えても、彼は昨年の一年間で随分、タフな肉体に成長している。キャンプが満足に出来なかった中山は、実質2年目とはいえない。体はまだ時間がかかるが、投手として必要な筋肉を強化すれば、ど真ん中めがけて投げ込んでも打たれはしない。そうなれば、力むことも逃げることもあるまい。中山には、コースをつくだけの小さな投球や、小手先だけのコントロールを身につけるなど、若い魅力に欠ける投手になってほしくない。とはいえ、あの西崎でさえマウンドでは緊張する。この若さでリラックスして投げろなどと無理な注文はしないが、今は結果を考えず、自分のすべてを出して試合経験を積むことだ。近藤二軍監督が「コントロールがこれだけ悪いと、使い方に苦労する」と言いながら、中継ぎに先発に起用するその期待を忘れないでもらいたい。本人も「足を痛める前は、開幕一軍が目標でしたが、今はその夢より体づくりです」とランニングでもヒザが開かないよう、来年につながる細心の注意を払う中山の胸の中には、自主トレで柴田が話した「ベテランが10やったら、お前は20の努力をしろ」という言葉が、深く刻まれているようだ。
1994年
イースタンで一昨年5勝、昨年は4勝負けなしの好成績をおさめ、今シーズンはエース級の働きを期待されながら、右肩痛に泣かされた。唯一の活躍らしい活躍といえば、5月5日のヤクルト戦(山鹿市民)での1失点完投勝利。自身初のフルイニング登板だった。ストレート、変化球とも平均以上の評価だけに、決め球がほしい。
1980年
中日に社会人投手トリオ誕生。井出(いすゞ自動車)後藤(本田技研埼玉)両投手を獲得して投手陣の強化をはかる中日は、第三弾として、日通浦和のエース曽田康二投手(23)=181㌢、72㌔、右投げ右打ち=をドラフト外で入団内定にこぎつけた。大越スカウト部長、服部スカウトは十日午後、東京・外神田の日通本社を訪れ、近藤良輔監督と本人を交えて交渉し、内諾を得た。契約金三千万円、年棒三百六十万円(推定)正式入団発表は十七日名古屋で行う予定。曽田は、日通浦和在籍五年間で夏の都市対抗に四度出場するなど、社会人のトップクラスのエース、来季の即戦力として期待されている。投手陣の根本的な再建へー中日に心強い助っ人の登場だ。「ドラフト外となったが、文句なしのAクラス。竹本(新日鉄室蘭ーヤクルト)並みの実力者と評価している。難攻不落、覚悟を決めてかかったが、こうすんなりOKがもらえるとは」と、交渉に当たった大越、服部両氏も、速攻即決を振り返って会心の笑みだ。西武、広島、巨人などが熾烈な争奪戦を演じるチームメート駒崎外野手のプロ入り決意で、曽田も「上(プロ)でやる」決心がついたのだろう。ドラフト外で大洋にほぼ決まりかけていたのを、中日は大洋を上回る条件と誠意で攻略した。「三年前、巨人からドラフト3位に指名された時は、条件面と技術的な自信がなかったのと、会社に引きとめられたため入団しなかった。同じ社会人から中日入りした井出、後藤両投手には絶対負けられない」と早くもライバルへファイト満々。曽田は大社高(島根県)時代から、甲子園こそ縁がなかったが、山陰地方を代表する好投手として知られ、卒業時に広島、巨人、阪急など五球団からマークされた。だが「ノンプロでじっくり力をつけてから」(曽田)と、日通浦和入り。シュートを武器に、エースとして活躍してきた。「自信があるのはシュート。でも、プロ入りした以上、ストレート、カーブ、スライダーすべての球の切れを、もっとみがきたい」のが今の抱負だ。「先発要員、もちろん即戦力としていける」と、服部スカウトも曽田の右腕に太鼓判を押している。
曽田康二 生まれ 昭和32年11月10日
181㌢、72㌔、右投げ右打ち
住所 浦和市領家1-2-14 日通野球部合宿
実家 島根県出雲市荒茅町1284
出身 島根県出雲二中ー大社高ー日通浦和。出雲二中三年から投手。
家族 父・謙介(地方公務員)母・富子・兄・俊彦・弟・秀彦・達司・妹・まゆみ
目標とする選手 西本投手(巨人)「内角で勝負できるから」
好きなタレント 竹内まりや(歌手) 「彼女は高校の二年先輩だから」「セプテンバー」「ドリーム・オブ・ユー」など。