想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

うちの猫に学ぶ

2009-08-01 00:42:10 | Weblog

くつろぐシマコ。
縁側へ手を伸べるときはそうでもないのだが、屋外から縁側に近づくと接近1メートル
が限界である。それ以上近いとシマコは中腰になってシャーっと威嚇のような声をだす。
他人行儀だなあとがっかりするがしかたがない。
もう馴れているはずなので威嚇のような声は習性らしい。
媚びないところも好きなんだからしかたがない(二度目の呟き)。
シャーっと言いながらご飯はいただく、そんな関係。

乳度の高いアイスクリームをひとかけら、手のひらをお皿がわりにして舐める。
そのときはシマコの鼻先にわたしの手があり身体も近い。
シャーッと威嚇したりしないで、目線は手のひら一直線である。
ペロペロとおいしそうになめて、最後の小さくなったのをペロッと一口に食べる。
なんだ、手のひらから舐めなくてもお皿の上でも食べれるじゃない?
そう思うけれど、こちらが触りたい下心があるわけで手のひらをさしだしている。
わたしの手のひらがすーっと目の前に伸びてくると寄ってきてのぞきこみ舌先で確かめる。
何もないと、なーんだという顔をしてこちらを見る。
それだけ、それだけで喜んでいるヒトなんである。

わかっている、わたしを好きなのではないことは。
欲しいのはアイスクリーム。
欲しいのはミルク。
わかってますとも、おばちゃんにスリスリしたいんじゃないことくらい。
なのになついてきたような気がして、うれしくてたまらない。

一人暮らしの年寄りを狙った振り込め詐欺や、仕事のできないごますりーマンの
処世術はこの心理の応用編であろうなあ、人の喜びや情を利用するんだなあ。
とすると、わたしとシマコも利害関係の一致である。
振り込め詐欺は一致しないで一方が害を被るだけになるので騙したことになるが
相手が真っ赤な他人の仕組んだ嘘と知らないままであればどうであろうか。
手付金詐欺や保証金詐欺は別として、身内の不幸を助けようとしたのであれば
自分の行為が役にたったかもしれないと一安心したりするだろう。
その喜びに近いものが一転して騙された!とわかった瞬間、硬直し怒りに震える。

シマコは命をつなぐ食を得ているが、わたしはシマコがそこにいることが嬉しい。
ありえないことだけど、たとえばシマコがどこか他所でも何かを得ているとしても
裏切りだとは思わない。生きて、ここに来てくれればいいのである。
アイスクリームはいつでも用意されている。

詐欺にあったことはないけれども、裏切りなら幾度となく遭遇してきた。
けれど裏切りと思ってきたわけでもない。そうか、そうなのかと思い、相手の心が
見えなかった己を省みたりしてきた。
人はいろんなことを思うものだなと知った。
なんでわたしがこんな目に合うのか、とは思わなかった。わたしだからだろうとは
思いはしたが。

利害は悪いことのように考えがちだけど、利害関係と一口に言うけれど利害もまた
「相方と自分」を結ぶ糸である。
シーソーがパタンパタンと動いて人生の時間がすぎてゆく。時には平衡になったり、
どちらかに傾いて、また戻り、くりかえして流れてゆく。
思いやりが相手へのやさしさだと思うのは単純すぎる思い込みではないか。
思いやる相手がいて、己がやさしくしていられることを勘定に入れないなら偽善だ。
やさしい気持ちはどちらにも必要なものだから。
どちらが発しても、シーソーは一度傾き、また戻り平衡する。
独りでギクシャクと殺伐と生きるのは辛いものだから、そういう時に電話が鳴ったり
すると、止まっていたシーソーが突然動き出す。

騙したヤツはシーソーが上がればまた下りることをわかっていないだけだ。
ずっと上がりっ放しなら、それはそれ地に足がつかないのだから困るだけのこと。
思い込みが強いと見えなくて錯覚するが、損得はあんがい平等にふりわけられている。
いやー、このまま、うまくいくかもなあ、なんて思っていると足元から崩れたりして
一寸先は闇、無常と知ることとなる。
ぼやいてはいけない、知ったのだから。


オイラにもビョードーに愛す(アイスね)をくれという眼差し、君をメタボにしないのが愛なのだよん。
コメント
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