川べりに丸太を縦に割っただけのベンチがある。
朝早い時間は蚊もいないので、水の音を聞きながらしばし目を閉じる。
って、さっきまで寝てただろ? と言われるかもしれないが、早起きするのは
あまり寝ていない日のほうが多いのだ。
目をとじるとからだのあちこち、特に重かった頭から疲れが分散していく。
光を見たり、そんなことをするわけではない。
瞑想というと光を見るとか期待する人はトーシローであるよ。
オウムに群がった若者たちはおそらく光を観たのであろうと思う。
勧誘されて行った先の道場とやらでソンシや導師という肩書きの白い服を着た人々に
教わって深呼吸して座っていたら、なにやら目の前にゆらゆらと光の束が見えるという
体験。そして続けるうちに身体の内側に中心があり、肉体としての己の輪郭が消えた
ような軽さを覚える。そしてそれはある種の快感で続けたくなるのである。
光は意外にカンタンに観ることはできるのだから、それに執着しているのは
光は異界かその入口かと思うからではないだろうか。異界という表現が不満なら神仏?
(いやはや、そんなにお手軽ならば空海と最澄は仲良くできただろう)
いや今の世はそのようなことをもっともらしく言いふらす似非宗教のやからが多いので
しかたもないことであるが、ならば、その軽くなった身はどうなるのか。
浮きます、とか言うのである。
浮いてないよ、君、そこにいるよ。と警策(ケイサクまたはキョウサク)の棒でも
打ち降ろされてみれば目が醒めて重い尻が床にピタとくっついていることがわかるのだ。
浮く、観る、この言葉の示す意味を教える人がいない。
いや書物も口伝も実はあるのであるが、それを理解するほどの根気がないだけのことでは
ないだろうか。
てっとりばやく光を観たがる人はまた、水晶玉や隕石など秘かに持っていたりする。
パワーとか宇宙とかいう言葉に惹かれてのことだ。
そりゃ、なんだい? とばあちゃんに聞かれたら、イワシの頭と答えるしかないのであるが
金を出した分、どうしても御利益に預かろうという俗世の卑しさがジャマをしてへ理屈を
こねることになる。
本当に水晶玉や隕石(たぶんただの、そこいらで採取された石だろうが)が何かしてくれると
思っているわけでもなかろうに、どうして、人の執着心というのは迷走するのである。
夏になるとあやしい話が飛び交いやすくなるし、いつもはひきしめている気持ちもなんだか
ゆるくなりがちだ。
人は第一にその肉体なくして存在しない。
されどまた存在とは肉体のみにあらずという矛盾の狭間に生命はある。
もてあましたくもなるようなこの生命の重みが、わたしたちに時を恵んでいる。
誰かの話を聞いたり本を読んだり、どこかの能力開発セミナーに数時間座った後に買わされた
CDを聞いたくらいで、その壮大なしくみがわかろうはずもないのだが。
水の流れを観ていると、己の汚れや芥が洗われていくような錯覚をおぼえる。
いつのまにか水に融け、せせらぎにのって、大川の渦のなかへと旅をする。
重力をわすれることで己の咎から解き放たれるくらいのことしか俗人にはできないが、
それでもリセットして何かを見つけ、気づき、見えるようにはなるのである。