この時節、もう白い梅の花がついているところもあるだろう。
森はまだまだ冬真っ盛りだけれど、贈り物にと一枝をいただいた。
来る途中、どこかで折ってきたらしいけれど、
「樹はこころ」なんつって、笑っていた。
あなたが好きだろうと思って、とか言うし。
贈り物は何がいい?と聞かれたら、何と答えるか。子どもの頃には
予定もないのに夢想した。アレコレ、思い浮かべていた時間は楽しかった。
それは届く物に執着しているのではなく、見えぬ何かが喜びをもたらす予感。
それをごちそうのように味わって楽しんでいたのだろう。
実際に物を見ると人の気持ちというのは妙に醒めるものである。
子どもだってそれは同じで、いやむしろ子どもの方が冷静に物を見る。
コレはいる、コレはいらない、欲しくない、と飽きるのも早い。
正直だった。
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(この方はジーサンになった今も正直です)
大人の世界はそこんところは難しい。
気持ちを形で表すということが下手になっていくような気がする。
世間の常識とやらに振り回されて、形にこだわりだしたらもう夢想できない。
これをアノヒトに届けたいという思いは薄らいで、届ける己に執着し、
恩着せがましくなったり、卑下しすぎたり、私に偏るのである。
もう贈り物どころではなく贈る意味が儀礼と成り下がってしまうから
贈り物が悩みの種という話はよく聞く。お粗末なことだ。
アノヒトの笑顔を思い浮かべて物を選ぶということを何年も続けていると
(たとえば盆暮れ年の二度あるからね)同じ人に同じ物ではなく年々違う
物を選ぶ。それが十年を過ぎるとほぼ一巡して新しい物を探すのが難しい。
サプライズなど狙っていないけれど、気持ちとぴったりくるものが難しい。
迷い迷ってそのうちあっと思いつくのである。
そのときは自分がもらうわけではないのにすごく嬉しい。
届いた後の笑顔を想像し、発する声が聴こえる、あ、コレと決まる。
そして礼状や電話やらが返ってきて、お返しのリンゴなどが届いたりして
ほっと安心する。つながっている線の端と端に物があって、人がいて、
物はヨリシロとなる。幾人かの人とそうしてつながっていれるのは
しあわせに生きている証である。
樹はこころ、手折られた梅の花の白が部屋を明るくして、つい笑いが
こぼれる。
モノは要らぬという方へ、何を贈るかと思案するのは野暮なことである。
要らぬと言われてもそこはソレ、何かをせねば、と思うのはさらに野暮。
礼節の深さ、極めていきつけば志と信しかない。
さて、その二つはどうやって手に入れましょうやとさらに問うたり、
人でなしは心もどこかで売っていると思っているらしい。