行きます、と言ったらわたしもと言う。
行きませんか? とは言わないし、言わなくてもいいし、言わない方がいい。
誘われるのもいいが、デモは自分から行かないとデモの意義が薄れてしまう。
デモは大事である。民主主義が社会で実行されていくにはデモという形の
意志表示はとてもわかりやすく、有効であるからだ。
(ユーコーだ、ユーコーだ、一緒に歩きたいぜオイラも)
昔、ベトナムへ従軍記者として行ったことのあるジャーナリストから聞いた
のだが、「日本人には革命はできないね、電車に並んで乗る国民性だもの」
というのだった。不甲斐なさそうにそう言われた。
その意味をなるほどと感じるようになったのはそれからずいぶんたってから
だったが、それからさらに歳月が流れて、原発が爆発した。大津波で土地も
家も流れた。
いま、人々はデモに集い、行進するようになった。
主義や政治思想とは無縁の昔の言い方だとノンポリの人々が子どもの手なぞ
引いて行進に加わっている。
詩人が街宣車の上からマイクを持って叫んでいる。
夏の日照りのなかをキャラクターの着ぐるみを着て、おしゃべりしながら
歩いている人もデモの一員だ。
ある人が言った。
「アレ、あの19日のアレ、わたし行かないですよ、アレですからね、私は」
「ああ、行かなくていいですよ、別に行くとか行かないとかじゃないから」
アレですから私は、というのは原発推進派だからという意味なのであった。
仕事がそうだからという事情である。
そういう人はたくさんいるので、行く行かないかではないと応えた。
どう思っているか、が問われている。
仕事で金で縛られている事情を言い訳にしたらダメだ。言い訳ではなく
はっきりと心で裏切っていればいいのではなかろうか。
ビミョウな問題だが社会運動にはつきものの問題だ。
後悔しないで生きること、生きる責任を自らに問いかけていること。
それはどこにいても問われている。
路上で叫んでいても、職場の椅子にいてもそのことに変わりはない。
人の心は買えない。買ったつもりになったり売ったつもりになったりしても、
しょせんツモリであって心はその人のものである。
だから責任は自分にあるのである。
わたしは一人より二人、二人より三人、大勢の声があがればそれだけ力は
増すことを実感してきたから呼びかけはした。
しかし、一人でも行動するという原点なくして力は生まれない。
一時的なつきあいや遊び半分のきまぐれに変革の原動力を期待するのは
無理なことで、伝播する情熱があって初めてデモは成功する。
まだ学生だったころナガサキの原水禁集会へ出かけ、行く前と帰ってからと
デモ、集会と夏は忙しかった。散り散りになって仲間がそれぞれの場所で
続けていることを知っていたけれど、わたしは長い間離れていた。
9.19の会場でその頃の仲間の誰かとバッタリ遭えるかもしれない。
老けてしまってお互いに顔もわからない確率の方が高いけれども‥、
懐かしい顔に会えたら嬉しいだろうなあと思っている。
行きませんか? とは言わないし、言わなくてもいいし、言わない方がいい。
誘われるのもいいが、デモは自分から行かないとデモの意義が薄れてしまう。
デモは大事である。民主主義が社会で実行されていくにはデモという形の
意志表示はとてもわかりやすく、有効であるからだ。
(ユーコーだ、ユーコーだ、一緒に歩きたいぜオイラも)
昔、ベトナムへ従軍記者として行ったことのあるジャーナリストから聞いた
のだが、「日本人には革命はできないね、電車に並んで乗る国民性だもの」
というのだった。不甲斐なさそうにそう言われた。
その意味をなるほどと感じるようになったのはそれからずいぶんたってから
だったが、それからさらに歳月が流れて、原発が爆発した。大津波で土地も
家も流れた。
いま、人々はデモに集い、行進するようになった。
主義や政治思想とは無縁の昔の言い方だとノンポリの人々が子どもの手なぞ
引いて行進に加わっている。
詩人が街宣車の上からマイクを持って叫んでいる。
夏の日照りのなかをキャラクターの着ぐるみを着て、おしゃべりしながら
歩いている人もデモの一員だ。
ある人が言った。
「アレ、あの19日のアレ、わたし行かないですよ、アレですからね、私は」
「ああ、行かなくていいですよ、別に行くとか行かないとかじゃないから」
アレですから私は、というのは原発推進派だからという意味なのであった。
仕事がそうだからという事情である。
そういう人はたくさんいるので、行く行かないかではないと応えた。
どう思っているか、が問われている。
仕事で金で縛られている事情を言い訳にしたらダメだ。言い訳ではなく
はっきりと心で裏切っていればいいのではなかろうか。
ビミョウな問題だが社会運動にはつきものの問題だ。
後悔しないで生きること、生きる責任を自らに問いかけていること。
それはどこにいても問われている。
路上で叫んでいても、職場の椅子にいてもそのことに変わりはない。
人の心は買えない。買ったつもりになったり売ったつもりになったりしても、
しょせんツモリであって心はその人のものである。
だから責任は自分にあるのである。
わたしは一人より二人、二人より三人、大勢の声があがればそれだけ力は
増すことを実感してきたから呼びかけはした。
しかし、一人でも行動するという原点なくして力は生まれない。
一時的なつきあいや遊び半分のきまぐれに変革の原動力を期待するのは
無理なことで、伝播する情熱があって初めてデモは成功する。
まだ学生だったころナガサキの原水禁集会へ出かけ、行く前と帰ってからと
デモ、集会と夏は忙しかった。散り散りになって仲間がそれぞれの場所で
続けていることを知っていたけれど、わたしは長い間離れていた。
9.19の会場でその頃の仲間の誰かとバッタリ遭えるかもしれない。
老けてしまってお互いに顔もわからない確率の方が高いけれども‥、
懐かしい顔に会えたら嬉しいだろうなあと思っている。