井手英策・今野晴貴・藤田孝典『未来の再建 暮らし・仕事・社会保障のグランドデザイン』(ちくま新書)を読んだ。以前の記事で感想文を予告してしまったので、今回この記事をアップ。
さて。
社会福祉や労働問題に携わる人たちの考え方を確認できたという点では良かったが、その内容は説得力に欠け、非常におぞましいものだった。
大雑把にまとめると、
「あの人は生活に困っています。この人も生活に困っています。既存の社会保障給付に加え、全ての人にベーシック・サービスをできるようにするため、消費税を中心に大増税しましょう」
というもの。
以下、気になった箇所を批判していこう。
15頁
日本社会は住みやすいように見えて、非常に住みにくい。なぜかといえば、貧困や生活困窮の問題が見えにくいだけでなく、住みやすくするための、市民の主体的な努力や工夫もまだ弱いからだ。
======【引用ここまで】======
社会福祉家を自称する人ですら、
「欧州では企業に福祉を頼りすぎない福祉国家型の社会保障政策が進み、教育、医療、介護、保育、福祉などの生活必需品やサービスはなるべく無償でも利用できる領域を増やしています」
などと、私的なサービスを公共事業に置き換えろと主張する国、日本。
そりゃ、政府への依存心を煽れば、市民による主体的な努力や工夫が後退するのは当然のことだ。
社会と政府は別物である。
そして、政府の領域が増えれば、個人の自発的活動は後退する。社会の中で政府が徴税権を背景に活動領域を増やせば、その分、個人の自発的な資金提供や活動は駆逐されてしまう。政府が税金を投じてやっている分野に、同じ領域で同じことをわざわざしようとする個人や企業はそうそう居ないだろう。
======【引用ここから】======
18頁
貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合えるようにしたいと僕は思っている。すべての人に優しい社会をどう実現するのか、真剣に考えていきたいと思っている。
======【引用ここまで】======
税や社会保険料を強制的に徴収し、公務員が中抜きし、分配する。
この方法を、仲間の助け合いとは呼べない。
税金や社会保険料は、苦労して稼いだ給料から勝手に天引きされている。支払いを拒否すれば、差押処分を受けて毟り取られる。まずこの時点で不満が生じる。
これを、納得のいく形で政府が生活困窮者に給付していればまだマシだが、実際には、生活保護や医療、介護の分野で多くの人が「不当な支出だ」と首を傾げるような支給方法・給付内容が横行している。
だからこそ、藤田氏が嘆くような
======【引用ここから】======
19頁~
「貧困に至るのは自己責任だ」
「自分の家族や親族を頼れ。何でも社会に頼るな」
「貯蓄をするなど準備をしておけばよかったはずだ。計画性がない」
「義務も果たさないのに権利ばかりを主張する」
「支援を受けるのであれば、受けるなりの態度があるだろう」
======【引用ここまで】======
といった声が上がるのだ。
納得いかない社会保障給付で典型的なのが、
「保護費の支給日に、パチンコ屋が賑わう」
という話。
多くの納税者はこれについて
「不当だ、我々の支払った税金がギャンブル代に化けている」
と感じているわけだが、社会福祉論者は
「生活保護法上、それは違法とは言えない。不正受給ではない」
で片付けてきた。これが納税者の不信感を余計に煽っている。
もし藤田氏らが、
「受給者のパチンコ通いを禁止しよう。発覚したら、役所が受給者に対し返還請求するよう法改正しよう」
と社会保障の給付適正化を強く訴えていれば、上記のような社会保障給付への批判の声はいくらか弱まっただろう。しかし、こうした主張を本書の中で見つけることは出来なかった。むしろ、社会保障バッシングをする側が悪い、君たちの理解が足りない、という論調だ。これでは話にならない。
なお、著者らは、現金給付について
======【引用ここから】======
231頁
ベーシック・インカムの最大の問題点は、受け取った現金を、たとえば飲酒やギャンブル、借金の返済で消費してしまった人びとの生存・生活は、完全な自己責任となるということだ。もらったお金を使ってしまった人たちに対して、さらに現金を給付することはとてもではないが正当化し得ない。
======【引用ここまで】======
と批判し、ベーシック・サービスという現物給付の新設を主張しているのだが、この批判は、基本的に現金給付である生活保護にもそのまま該当する。
既存の給付内容や給付方法が社会保障制度への信頼を損なっている一因なのだが、著者らは「社会保障が足りない、まだ足りない、全然足りない」と述べるだけ。
著者らは
「社会保障給付が一部の人にだけ支給されるから、対象外の人が不満を持つのだ。みんながベーシック・サービスの受給者になれば、社会保障制度への不満は解消される」
と考えているようだが、これは間違いだ。
著者らは、国民を朝三暮四の猿レベルとバカにしているのだろう。
社会保障は、順番として、まずは個人から強制的に金を徴収する。
次に、公務員がその金を中抜きする。
そして、残った金を給付する。
徴収税額を増やし、ベーシック・サービスを始めたところで、この
「強制徴収・中抜き・分配」
という不満を招く構図に変化はなく、
「 税額 > 受給額 」
になる人が減ることは無い。従って、社会保障制度への不信感が減ることもないだろう。
藤田氏は、本書の中で、外国でのアンケート結果をあげて
「日本以外では、国民の社会保障制度への信頼は高い」
と主張している。そして、日本人は無理解で冷たい、と。
欧米では、終末期医療の抑制をはじめ医療の必要性の判断がシビアであったり、かかりつけ医に診察を申し込んでも実際に受診できるのは1週間後、総合病院への受診は数か月後だったり、と、社会保障給付の無駄を省く取り組みが既になされている。同時に、経済的活動の自由度が日本よりも高く、全体として豊かで余裕のある人が多いため、社会保障制度の負担にまだ堪えられる状態である、ということも言えるだろう。
信頼回復のための取り組みとして、徹底した給付適正化を先行させるべきである。社会保障制度への不信感が強い状態で給付の種類や対象者を拡大させても、問題解決にはならずかえって不信を高めることになる。
一番良いのは、制度を説明し、給付を受ける条件や保険料額について同意を得た上で、制度に任意で加入してもらいお金を集めることだ。これなら、「貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合う」と呼んで差し支えない。
政府による強制的な税・社会保険料の徴収に対する不満と、政府が支給する方法や内容への不信感。この2点が、社会保障制度への信頼を決定的に損なっている。
さて。
藤田氏は、「相模原障害者施設殺傷事件」を優生思想の復活であると非難している。殺傷事件は非難されて当然である。では、この優生思想はどこから発したものだろうか。
ここで、社会保障制度を
「納税者から強制的に徴収した金を、一定の条件を満たしていると政府に認定された人に支出する仕組み」
とした時、社会保障制度に無理やり組み込まれた人はどう考えるだろうか。
参加者が納得の上で加入し、自発的に社会保障給付の費用を拠出している場合、参加者からの反感はさほど生じない。
しかし、実際には政府が強制力をもって
「Aの費用をBに負担させる」
という構図を作り出している。
Aの実情を知るBが「Aをそこまで助ける必要はない」と考えていたとしても、政府は強制力を持っており、Bはその構図から逃れることはできない。
そんなBは、多かれ少なかれ
「Aが少なければ負担が減る」
という発想に至る。ここから更に
「Aを殺してしまえ」
と考えてしまうのは大問題だが、Aと同じような人が増えることを歓迎するB側の人はそういないだろう。
これは、ヨーロッパで強まりつつある外国人排斥も同じである。移民、難民が増え、彼らへの社会保障給付が増えることで、今まで社会保障給付を受けていた人たちの取り分が減り、あるいは社会保険料や税の負担が増える。
「○○が増えたから生活が苦しくなった。あいつらは福祉にただ乗りしている」
という嫌悪感、批判が、排斥への流れにつながっている。デンマークのゲットープランに見られるように、ヨーロッパの一部の国では移民・難民の受け入れから隔離や排除に舵を切りつつある。
他人に助けを求めることが悪いとは思わない。しかし、そこに強制力が介入したら助け合いとは呼べない。強制は反発を生む。
社会の構成員による自発的な助け合いと、政府による「助け合え」という命令とは、似ているようで雲泥の差があることに、彼ら社会福祉論者は気付いていない。あるいは、自分がその命令を下す地位に就きたいと熱望しているのだろうか。
37頁~
まず人びとの生活が苦しいのは、生きていく上で必要なサービスや財が、その人や世帯において決定的に不足しているからである。
・・・さらに、今は不足していなくても、今後はその不足が予想されるからだ。生きていく上で必要なサービスや財が将来、不足するとの見通しがもたらす不安は、日本社会を覆わんばかりに広がっている。
======【引用ここまで】======
生きていく上で必要なサービスや財が不足しているのは、その人や世帯においてだけではない。
日本全体で不足している。
一部の富裕層を叩いてその財産を収奪しても、この不足は解消しない。
藤田氏が私怨で粘着しているZOZOの社長から全財産を没収しても、少子高齢社会で膨れ上がる社会保障負担の前では焼け石に水である。
※参考
○池田信夫 blog _ 「脱成長」は絶対的貧困への道
既存の社会保障給付を現行水準で続けるだけでも、国民負担率は将来的に跳ね上がる。
この状態で、既存の社会保障給付を削ることなく、ベーシック・サービスとして現物給付を増やそうというのは自殺行為である。
ベーシック・サービスで教育が自己負担ゼロになっても、可処分所得が激減し食料を買う金がなければ餓死するしかない。
さて。
日本は貧しくなっている。その点は著者らも認めている。
======【引用ここから】======
51頁~
次に、税や社会保険料を引いたあとの手取りである「可処分所得」を見てみよう。
・・・この1997年から2016年の約20年の間に、勤労者世帯の可処分所得は約13%も減っている。
・・・貧しくなったのは勤労者世帯だけではない。社会全体の地盤沈下も深刻だ。
======【引用ここまで】======
では、なぜ日本は貧しくなったのだろうか。
逆に、豊かになるというのはどういうことだろうか。
個人は、自分の生活を改善しようとして行動する。
生活に必要なものを自分で生産し、余りが出たら他の人の生産物と交換する。
また、生産したものを全て消費・交換してしまうのではなく、蓄えておくことによって、新たな生産方法を開発するまでの生活を支えることができるようになる。
この生産・交換・貯蓄・開発を繰り返すことによって、生活に必要な物をより少ない人手と時間で生産できるようになるとともに、より多くの物、より便利な物、より快適なサービスを利用できるようになった。こうした市場の機能を経て、参加者の生活は徐々に豊かになっていく。
この時、市場の参加者は、自分の生産した商品Aは幾らで何個売れるかというはっきりした情報を持っていない。売りに出してみて、はじめて売れるか売れないか、割高か割安かといった手応えを得ることになる。全ての財、サービスを交換の場に出すことで、はじめて適正な価格が見えてくる。
商品Aが概ね100円、商品Bが概ね500円という値段で売買されている時、市場では通貨を媒介としてA5個とB1個で交換するという取引が成立している。ただ、この交換比率は一定ではない。商品Aの原材料が高騰したり、商品Bをより効率的に生産できるようになったりすれば、この比率が逆転するということだってありうる。
ここで、政府が強制的にある特定の商品の値段をある時点の価格で固定してしまうと、他の商品と比べて割安になって過剰に消費されてしまったり、逆に割高になって全く売れなくなってしまうといったことが起きる。みんなが欲しがっているのに市場から消える商品がある一方で、比較的効率よく作っていたはずなのに割高感が出て売れずに廃棄される商品が出てくる。人々は必要なものを入手できず不満を募らせると同時に、不要な物を作って資源を浪費する。
そして、交換を繰り返す中で手探りで成立するはずの価格を固定してしまうと、本来なら価格に現れたはずの原材料の高騰や技術の進歩、販売経路といった様々な情報を活用できなくなる。
豊かな国を貧しくする方法は簡単である。
公定価格を設定し、本来の価格を見えなくしてしまえばいいのだ。
そういう視点で、次の文章を読んでほしい。
======【引用ここから】======
230頁~
現金給付の最大の問題点は、受益と負担の関係が可視化されることにある。自分より負担の少ない人たちが自分と同じ現金を得られることに対して、多くの人びとが反発することは想像に難くない。
他方、サービス給付の場合、自分の受益は可視化されない。子どもが幼稚園や保育園にいったとき、いくらの受益があったかをわかる親はいない。
======【引用ここまで】======
井手氏は「受益と負担の関係をわざと見えなくしてしまえ」と主張している。
本来の費用が見えなくなり、見かけの自己負担がゼロになったとき、そのサービスは浪費されてしまう。
「必要なサービスを自己負担ゼロで提供する」
というのは、社会を貧しくする最短距離である。
日本をここまで貧しくしたのは、彼ら社会福祉論者の思考法そのものである。
保育士や介護士が安月給で酷使されている、とか、
勤務医が日勤と宿直続きで休みがない、とか、
教員が授業と部活で疲弊している、とか、
これらは全て、公定価格を設定し、見かけの自己負担を税金で下げてしまい、本来の費用が見えなくなった結果、人という資源が浪費されている状態である。
著者らの主張するベーシック・サービスという考え方は、この浪費を加速させるものだ。
======【引用ここから】======
149頁
こうした努力の積み重ねによって、子どもの医療費無償化、老人医療の無償化が進んできた。かつては、すべての人に医療を提供すべきだとする機運が高まった時代もあった。老人医療の無償化は高齢社会を迎える中で挫折しているが、僕らが何を望んで行動するかで、政策のあり方も変わってくることは歴史が証明している。
======【引用ここまで】======
過去に、老人医療費無償化が実際に行われていた。
その結果、老人の不必要な受診を招いて「病院=老人のサロン化」が生じ、医療費が急上昇するというバカバカしい事態を招いたのだが、藤田氏の主張からは過去の愚かな施策への反省がどこにも見られない。
福祉元年のスローガンの下で老人医療費無償化を推進した田中角栄の墓を蹴り飛ばしたくなる衝動に駆られると同時に、これを礼賛する社会福祉論者の不勉強さと愚かさを嘆かざるを得ない。
さて。
本書のメインの主張は、おそらく次の2点であろう。
======【引用ここから】======
230頁
僕たちは、こうした弱者の切り捨てとは異なる方法で「既得権」をなくす方法を提案する。それが「ベーシック・サービス」だ。
子育て、教育、医療、介護などのベーシック・サービスについて、できる限り少ない自己負担、長期的に言えば無料でこれらのサービスを受給できるようにする。しかも、特定の人たちだけではなく、できるだけ多くの人たちを受益者にする。つまり、所得制限を段階的に緩和し、最終的には撤廃することによって、低所得層の「既得権」を解消するのだ。
======【引用ここまで】======
======【引用ここから】======
231頁
現在、毎年度における国民の自己負担分は、幼稚園・保育園で8000億円、大学教育で3兆円、医療で4.8兆円、介護で8000億円、障害者福祉で数百億円となっている。総額で9.3兆円である。
注意してほしいのは、この金額は1年度に発生する国民の自己負担額だということである。もし、完全無償化をめざすのであれば、サービスの利用者数が増え、施設やサービス提供者の不足が予想されるため、より多くの財源が必要となる。
======【引用ここまで】======
ベーシック・サービスの名の下、子育て、教育、医療、介護、障害者福祉を完全無償化するという井手氏。
高齢者が増え続け、現役世代が減少していくことが人口構成上わかっている中で、ベーシック・サービスに指定された特定の分野でヒト・モノ・カネが浪費される。この分野に携わる人の疲弊は今以上になるだろう。
そして、指定されなかった分野で人手不足が生じ、生産が滞る。
コンビニの陳列棚はガラガラ、
宅配便の遅配は日常茶飯事、
タクシーはどこも走ってない、
パソコンは20年前のものを使い続ける、
服は人民服・・・
本書は『未来の再建』というタイトルだが、どうも未来の地獄絵図しか想像できない。
======【引用ここから】======
17頁
終身雇用と年功賃金による日本型雇用の崩壊、非正規雇用の拡大、転職せざるを得ないブラック企業の台頭、労働分配率の低下など、働いている人びとの給与や処遇は劣化し続けている。
======【引用ここまで】======
======【引用ここから】======
29頁
実際、現在の雇用環境は、井手英策や今野晴貴が後述するように、これまでの給与水準や生活水準を維持するのが困難だ。僕の友人の多くは、年功賃金になっておらず、長時間労働に明け暮れている。それでも賃金が少ないため、生活が苦しいという。
ましてや終身雇用など夢のような話である。
======【引用ここまで】======
藤田氏は、日本型雇用が良かったと考えているのかそうではないのか。
彼の書いた他の部分を読んでもよくわからない。
彼は、派遣労働者の賃上げを派遣元企業に対してではなく派遣先企業に対してアピールする奇妙な思考回路の持ち主なので、労働問題に関しての記述はあまり当てにならない(他の分野でもそうだが)。
そこで、労働分野については今野氏の記述を読んでみよう。
今野氏は、日本型雇用の成立とその問題点について次のように述べている。
======【引用ここから】======
84頁
実は、日本型雇用は国が法律で定めた制度ではなく、労使の交渉によって作られた労使慣行であり、交渉で取り決められた労働協約によるものだ。裁判所はこの慣行を追認したに過ぎない。
1950年代、60年代には多くのストライキが敢行され、労組は年齢給を勝ち取り、雇用を守るために多くの血が流された。70年代には経営側もこれ以上の争いを望まず、むしろ、企業別組合との間で日本型雇用慣行の約束を守ることで、労働争議をなくそうと考えるようになった。ところが、こうして労働者が「勝ち取った」はずの日本型雇用には重大な欠陥が潜んでいたのだ。
======【引用ここまで】======
労働組合が、暴力によって正社員の終身雇用と年功賃金を得た。
そして、裁判所がこれを追認した。
正社員の終身雇用が保障されるということは、会社側から見ると、正社員を解雇することが非常に困難であるということになる。
この、労働組合と裁判所による合作である解雇規制が、海外から見て異例の労働環境を生んだ。
======【引用ここから】======
82頁~
終身雇用・年功賃金が保障される代わりに、一生涯、会社のなかで貢献度を競わされる。低成長時代に入ると、「貢献度」の測り方はいよいよ厳密になり、過酷な労働を生み出していった。
それでも、会社を辞めることはできない。それは将来にわたる生活保障を丸ごと失うことを意味するからだ。端的に言って、年功賃金を当て込んでローンを組んでいたら、辞めることなど不可能だろう。
だから、会社の中で、どんな過酷な命令にも従わざるを得ない。全国転勤の命令や、限度のない残業命令。このような、世界的に見て異例なほど理不尽な命令が慣例となっているのが、日本型雇用の特徴だ。海外ではあらかじめ契約をした仕事以外の労働に従事させることはできないが、日本型雇用では、企業に命令されれば、どんなことでも従事しなければならない。そうした契約慣行は「空白の石版」とまで呼ばれている(濱口桂一郎『新しい労働社会』)。
裁判所も、「人事権」の名のもとに、企業の広範な命令権限を認めてきた。終身雇用を継続するためには、リストラではなく、配置転換や残業によって労働需要の調整をおこなう必要がある。そのためには、どんな命令でも許されるのだ、と。
つまり、日本型雇用は終身雇用、年功賃金、そして「無限の指揮命令権」を使用者に与える雇用慣行だった。
======【引用ここまで】======
正社員の労働環境については、
労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
↓
会社は正社員を容易にリストラできない。
↓
労働需要の調整を全国転勤や限度のない残業命令でおこなう。
↓
会社に「無限の指揮命令権」が認められ、正社員は会社に貢献することが求められる。
という流れが成立している。
他方、非正規労働者については、
労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
↓
会社は閑散期でも業績悪化時でも正社員を容易には解雇できない。
↓
正社員の雇用数は抑え目にして、非正規労働者を増減させて業務量の変動に対応する。
↓
身分保障のある正社員と、正社員の身分保障枠からはみ出た非正規労働者という身分格差が発生する。
という流れになっている。
こう眺めてみると、終身雇用は、労働組合のたたかいの成果というよりも、労働組合が現代に持ち込んだ害悪と評した方が適切である。
======【引用ここから】======
82頁
このように、日本型雇用の中にいれば、生きていける。だが、その外に一歩でも出てしまえば、生活の保障はない。だから、日本では何とかこの日本型雇用の中に入ろう、なるべくなら保障の大きい大企業に入ろうと考える社会意識が生まれた。
逆に言えば、非正規雇用の労働者は、まさにそこから放り出されているために、生きていくことができないのだ。
======【引用ここまで】======
では、どうしたらこの問題を解消できるだろうか。
今野氏らは、解決策として最低賃金のアップや、企業別組合からユニオンへの転換を掲げているが、これらは本質的な問題解決にはつながらない。
特に、最低賃金アップについては、韓国で無理な引き上げをしたことによって若年層の失業率が跳ね上がったという実験結果が示されたばかりであり、全くの逆効果になる。
この正社員・非正規労働者の身分制は、
「労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った」
ということが根底にある。
ここを変えなければどうにもならない。
藤田氏のように、労働組合の主催する講演会やシンポジウムに呼ばれて、助成金や講演料を受け取って労働組合におべっかを使っている場合ではないのだ。
労働組合の暴力から始まり裁判官の心証に左右される曖昧な慣行を否定し、金銭解雇ルール等の導入によって解雇条件を明確化し、正社員を解雇できるようにする。
正社員の身分保障を削ることで、正社員を雇用することのハードルを下げ、雇用数を増やせるようになる。
雇用を流動化させることで、会社への貢献度で賃金の決まる属人給から、職務内容ごとに賃金の決まる職務給へと転換させることができる。
会社にとって「とりあえず雇ってみようか」ということが可能な環境が必要だ。
正社員が
「転勤?会社にそこまで尽くす義理はありません」
ということを今よりも言いやすくするためには、転職しやすい環境=とりあえず雇ってみようと言える環境がなければならない。
同様に、今まで時間給で働いていたパート従業員が、会社に対し
「私を正規で雇ってください」
という主張を通しやすくするために必要なことも、会社が「とりあえず雇ってみよう」と言える環境である。
ツイッターで最近知った「えらいてんちょう」氏は、『しょぼい起業で生きていく』という本の中で、何度か
「起業しても雇用するな」
という主張をしている。
これは、しょぼい起業という本書の趣旨に雇用契約が沿わないということだと思うが、同時に、現状の労働法制下において、雇用することがいかにリスクの高い行為であるかを物語っているとも言えるだろう。
(他方、藤田氏の書いている部分については・・・もう察してください。)
未来の再建を、政府を通した社会保障給付の拡大で成し遂げるのは無理だ。
再建どころか崩壊、地獄絵図である。
日本には、政府による規制や介入が多すぎる。
教育、保育、介護に見られるような、施設基準、人員基準、価格設定。
雇用分野に見られるような、最低賃金、解雇規制。
また、今回は触れなかったが、アベノミクスに見られるような金融緩和もまた、市場に介入し市場の機能を歪めるものとして忘れることはできない。
こうした貧困化政策を一つずつ止めていき、自発的な生産と交換を地道に重ね、満足を少しずつ取り戻し、助け合うことのできる物質的な余裕と心の余裕を持てるようにしよう。
再建は一日にして成らず、である。
さて。
社会福祉や労働問題に携わる人たちの考え方を確認できたという点では良かったが、その内容は説得力に欠け、非常におぞましいものだった。
大雑把にまとめると、
「あの人は生活に困っています。この人も生活に困っています。既存の社会保障給付に加え、全ての人にベーシック・サービスをできるようにするため、消費税を中心に大増税しましょう」
というもの。
以下、気になった箇所を批判していこう。
【社会保障は信頼するに値するか】
======【引用ここから】======15頁
日本社会は住みやすいように見えて、非常に住みにくい。なぜかといえば、貧困や生活困窮の問題が見えにくいだけでなく、住みやすくするための、市民の主体的な努力や工夫もまだ弱いからだ。
======【引用ここまで】======
社会福祉家を自称する人ですら、
「欧州では企業に福祉を頼りすぎない福祉国家型の社会保障政策が進み、教育、医療、介護、保育、福祉などの生活必需品やサービスはなるべく無償でも利用できる領域を増やしています」
などと、私的なサービスを公共事業に置き換えろと主張する国、日本。
そりゃ、政府への依存心を煽れば、市民による主体的な努力や工夫が後退するのは当然のことだ。
社会と政府は別物である。
そして、政府の領域が増えれば、個人の自発的活動は後退する。社会の中で政府が徴税権を背景に活動領域を増やせば、その分、個人の自発的な資金提供や活動は駆逐されてしまう。政府が税金を投じてやっている分野に、同じ領域で同じことをわざわざしようとする個人や企業はそうそう居ないだろう。
======【引用ここから】======
18頁
貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合えるようにしたいと僕は思っている。すべての人に優しい社会をどう実現するのか、真剣に考えていきたいと思っている。
======【引用ここまで】======
税や社会保険料を強制的に徴収し、公務員が中抜きし、分配する。
この方法を、仲間の助け合いとは呼べない。
税金や社会保険料は、苦労して稼いだ給料から勝手に天引きされている。支払いを拒否すれば、差押処分を受けて毟り取られる。まずこの時点で不満が生じる。
これを、納得のいく形で政府が生活困窮者に給付していればまだマシだが、実際には、生活保護や医療、介護の分野で多くの人が「不当な支出だ」と首を傾げるような支給方法・給付内容が横行している。
だからこそ、藤田氏が嘆くような
======【引用ここから】======
19頁~
「貧困に至るのは自己責任だ」
「自分の家族や親族を頼れ。何でも社会に頼るな」
「貯蓄をするなど準備をしておけばよかったはずだ。計画性がない」
「義務も果たさないのに権利ばかりを主張する」
「支援を受けるのであれば、受けるなりの態度があるだろう」
======【引用ここまで】======
といった声が上がるのだ。
納得いかない社会保障給付で典型的なのが、
「保護費の支給日に、パチンコ屋が賑わう」
という話。
多くの納税者はこれについて
「不当だ、我々の支払った税金がギャンブル代に化けている」
と感じているわけだが、社会福祉論者は
「生活保護法上、それは違法とは言えない。不正受給ではない」
で片付けてきた。これが納税者の不信感を余計に煽っている。
もし藤田氏らが、
「受給者のパチンコ通いを禁止しよう。発覚したら、役所が受給者に対し返還請求するよう法改正しよう」
と社会保障の給付適正化を強く訴えていれば、上記のような社会保障給付への批判の声はいくらか弱まっただろう。しかし、こうした主張を本書の中で見つけることは出来なかった。むしろ、社会保障バッシングをする側が悪い、君たちの理解が足りない、という論調だ。これでは話にならない。
なお、著者らは、現金給付について
======【引用ここから】======
231頁
ベーシック・インカムの最大の問題点は、受け取った現金を、たとえば飲酒やギャンブル、借金の返済で消費してしまった人びとの生存・生活は、完全な自己責任となるということだ。もらったお金を使ってしまった人たちに対して、さらに現金を給付することはとてもではないが正当化し得ない。
======【引用ここまで】======
と批判し、ベーシック・サービスという現物給付の新設を主張しているのだが、この批判は、基本的に現金給付である生活保護にもそのまま該当する。
既存の給付内容や給付方法が社会保障制度への信頼を損なっている一因なのだが、著者らは「社会保障が足りない、まだ足りない、全然足りない」と述べるだけ。
著者らは
「社会保障給付が一部の人にだけ支給されるから、対象外の人が不満を持つのだ。みんながベーシック・サービスの受給者になれば、社会保障制度への不満は解消される」
と考えているようだが、これは間違いだ。
著者らは、国民を朝三暮四の猿レベルとバカにしているのだろう。
社会保障は、順番として、まずは個人から強制的に金を徴収する。
次に、公務員がその金を中抜きする。
そして、残った金を給付する。
徴収税額を増やし、ベーシック・サービスを始めたところで、この
「強制徴収・中抜き・分配」
という不満を招く構図に変化はなく、
「 税額 > 受給額 」
になる人が減ることは無い。従って、社会保障制度への不信感が減ることもないだろう。
藤田氏は、本書の中で、外国でのアンケート結果をあげて
「日本以外では、国民の社会保障制度への信頼は高い」
と主張している。そして、日本人は無理解で冷たい、と。
欧米では、終末期医療の抑制をはじめ医療の必要性の判断がシビアであったり、かかりつけ医に診察を申し込んでも実際に受診できるのは1週間後、総合病院への受診は数か月後だったり、と、社会保障給付の無駄を省く取り組みが既になされている。同時に、経済的活動の自由度が日本よりも高く、全体として豊かで余裕のある人が多いため、社会保障制度の負担にまだ堪えられる状態である、ということも言えるだろう。
信頼回復のための取り組みとして、徹底した給付適正化を先行させるべきである。社会保障制度への不信感が強い状態で給付の種類や対象者を拡大させても、問題解決にはならずかえって不信を高めることになる。
一番良いのは、制度を説明し、給付を受ける条件や保険料額について同意を得た上で、制度に任意で加入してもらいお金を集めることだ。これなら、「貧困や生活困窮に至った原因を問わずに、同じ社会を構成する仲間の一人として助け合う」と呼んで差し支えない。
政府による強制的な税・社会保険料の徴収に対する不満と、政府が支給する方法や内容への不信感。この2点が、社会保障制度への信頼を決定的に損なっている。
さて。
藤田氏は、「相模原障害者施設殺傷事件」を優生思想の復活であると非難している。殺傷事件は非難されて当然である。では、この優生思想はどこから発したものだろうか。
ここで、社会保障制度を
「納税者から強制的に徴収した金を、一定の条件を満たしていると政府に認定された人に支出する仕組み」
とした時、社会保障制度に無理やり組み込まれた人はどう考えるだろうか。
参加者が納得の上で加入し、自発的に社会保障給付の費用を拠出している場合、参加者からの反感はさほど生じない。
しかし、実際には政府が強制力をもって
「Aの費用をBに負担させる」
という構図を作り出している。
Aの実情を知るBが「Aをそこまで助ける必要はない」と考えていたとしても、政府は強制力を持っており、Bはその構図から逃れることはできない。
そんなBは、多かれ少なかれ
「Aが少なければ負担が減る」
という発想に至る。ここから更に
「Aを殺してしまえ」
と考えてしまうのは大問題だが、Aと同じような人が増えることを歓迎するB側の人はそういないだろう。
これは、ヨーロッパで強まりつつある外国人排斥も同じである。移民、難民が増え、彼らへの社会保障給付が増えることで、今まで社会保障給付を受けていた人たちの取り分が減り、あるいは社会保険料や税の負担が増える。
「○○が増えたから生活が苦しくなった。あいつらは福祉にただ乗りしている」
という嫌悪感、批判が、排斥への流れにつながっている。デンマークのゲットープランに見られるように、ヨーロッパの一部の国では移民・難民の受け入れから隔離や排除に舵を切りつつある。
他人に助けを求めることが悪いとは思わない。しかし、そこに強制力が介入したら助け合いとは呼べない。強制は反発を生む。
社会の構成員による自発的な助け合いと、政府による「助け合え」という命令とは、似ているようで雲泥の差があることに、彼ら社会福祉論者は気付いていない。あるいは、自分がその命令を下す地位に就きたいと熱望しているのだろうか。
【豊かな国を貧しくする方法】
======【引用ここから】======37頁~
まず人びとの生活が苦しいのは、生きていく上で必要なサービスや財が、その人や世帯において決定的に不足しているからである。
・・・さらに、今は不足していなくても、今後はその不足が予想されるからだ。生きていく上で必要なサービスや財が将来、不足するとの見通しがもたらす不安は、日本社会を覆わんばかりに広がっている。
======【引用ここまで】======
生きていく上で必要なサービスや財が不足しているのは、その人や世帯においてだけではない。
日本全体で不足している。
一部の富裕層を叩いてその財産を収奪しても、この不足は解消しない。
藤田氏が私怨で粘着しているZOZOの社長から全財産を没収しても、少子高齢社会で膨れ上がる社会保障負担の前では焼け石に水である。
※参考
○池田信夫 blog _ 「脱成長」は絶対的貧困への道
既存の社会保障給付を現行水準で続けるだけでも、国民負担率は将来的に跳ね上がる。
この状態で、既存の社会保障給付を削ることなく、ベーシック・サービスとして現物給付を増やそうというのは自殺行為である。
ベーシック・サービスで教育が自己負担ゼロになっても、可処分所得が激減し食料を買う金がなければ餓死するしかない。
さて。
日本は貧しくなっている。その点は著者らも認めている。
======【引用ここから】======
51頁~
次に、税や社会保険料を引いたあとの手取りである「可処分所得」を見てみよう。
・・・この1997年から2016年の約20年の間に、勤労者世帯の可処分所得は約13%も減っている。
・・・貧しくなったのは勤労者世帯だけではない。社会全体の地盤沈下も深刻だ。
======【引用ここまで】======
では、なぜ日本は貧しくなったのだろうか。
逆に、豊かになるというのはどういうことだろうか。
個人は、自分の生活を改善しようとして行動する。
生活に必要なものを自分で生産し、余りが出たら他の人の生産物と交換する。
また、生産したものを全て消費・交換してしまうのではなく、蓄えておくことによって、新たな生産方法を開発するまでの生活を支えることができるようになる。
この生産・交換・貯蓄・開発を繰り返すことによって、生活に必要な物をより少ない人手と時間で生産できるようになるとともに、より多くの物、より便利な物、より快適なサービスを利用できるようになった。こうした市場の機能を経て、参加者の生活は徐々に豊かになっていく。
この時、市場の参加者は、自分の生産した商品Aは幾らで何個売れるかというはっきりした情報を持っていない。売りに出してみて、はじめて売れるか売れないか、割高か割安かといった手応えを得ることになる。全ての財、サービスを交換の場に出すことで、はじめて適正な価格が見えてくる。
商品Aが概ね100円、商品Bが概ね500円という値段で売買されている時、市場では通貨を媒介としてA5個とB1個で交換するという取引が成立している。ただ、この交換比率は一定ではない。商品Aの原材料が高騰したり、商品Bをより効率的に生産できるようになったりすれば、この比率が逆転するということだってありうる。
ここで、政府が強制的にある特定の商品の値段をある時点の価格で固定してしまうと、他の商品と比べて割安になって過剰に消費されてしまったり、逆に割高になって全く売れなくなってしまうといったことが起きる。みんなが欲しがっているのに市場から消える商品がある一方で、比較的効率よく作っていたはずなのに割高感が出て売れずに廃棄される商品が出てくる。人々は必要なものを入手できず不満を募らせると同時に、不要な物を作って資源を浪費する。
そして、交換を繰り返す中で手探りで成立するはずの価格を固定してしまうと、本来なら価格に現れたはずの原材料の高騰や技術の進歩、販売経路といった様々な情報を活用できなくなる。
豊かな国を貧しくする方法は簡単である。
公定価格を設定し、本来の価格を見えなくしてしまえばいいのだ。
そういう視点で、次の文章を読んでほしい。
======【引用ここから】======
230頁~
現金給付の最大の問題点は、受益と負担の関係が可視化されることにある。自分より負担の少ない人たちが自分と同じ現金を得られることに対して、多くの人びとが反発することは想像に難くない。
他方、サービス給付の場合、自分の受益は可視化されない。子どもが幼稚園や保育園にいったとき、いくらの受益があったかをわかる親はいない。
======【引用ここまで】======
井手氏は「受益と負担の関係をわざと見えなくしてしまえ」と主張している。
本来の費用が見えなくなり、見かけの自己負担がゼロになったとき、そのサービスは浪費されてしまう。
「必要なサービスを自己負担ゼロで提供する」
というのは、社会を貧しくする最短距離である。
日本をここまで貧しくしたのは、彼ら社会福祉論者の思考法そのものである。
保育士や介護士が安月給で酷使されている、とか、
勤務医が日勤と宿直続きで休みがない、とか、
教員が授業と部活で疲弊している、とか、
これらは全て、公定価格を設定し、見かけの自己負担を税金で下げてしまい、本来の費用が見えなくなった結果、人という資源が浪費されている状態である。
著者らの主張するベーシック・サービスという考え方は、この浪費を加速させるものだ。
======【引用ここから】======
149頁
こうした努力の積み重ねによって、子どもの医療費無償化、老人医療の無償化が進んできた。かつては、すべての人に医療を提供すべきだとする機運が高まった時代もあった。老人医療の無償化は高齢社会を迎える中で挫折しているが、僕らが何を望んで行動するかで、政策のあり方も変わってくることは歴史が証明している。
======【引用ここまで】======
過去に、老人医療費無償化が実際に行われていた。
その結果、老人の不必要な受診を招いて「病院=老人のサロン化」が生じ、医療費が急上昇するというバカバカしい事態を招いたのだが、藤田氏の主張からは過去の愚かな施策への反省がどこにも見られない。
福祉元年のスローガンの下で老人医療費無償化を推進した田中角栄の墓を蹴り飛ばしたくなる衝動に駆られると同時に、これを礼賛する社会福祉論者の不勉強さと愚かさを嘆かざるを得ない。
さて。
本書のメインの主張は、おそらく次の2点であろう。
======【引用ここから】======
230頁
僕たちは、こうした弱者の切り捨てとは異なる方法で「既得権」をなくす方法を提案する。それが「ベーシック・サービス」だ。
子育て、教育、医療、介護などのベーシック・サービスについて、できる限り少ない自己負担、長期的に言えば無料でこれらのサービスを受給できるようにする。しかも、特定の人たちだけではなく、できるだけ多くの人たちを受益者にする。つまり、所得制限を段階的に緩和し、最終的には撤廃することによって、低所得層の「既得権」を解消するのだ。
======【引用ここまで】======
======【引用ここから】======
231頁
現在、毎年度における国民の自己負担分は、幼稚園・保育園で8000億円、大学教育で3兆円、医療で4.8兆円、介護で8000億円、障害者福祉で数百億円となっている。総額で9.3兆円である。
注意してほしいのは、この金額は1年度に発生する国民の自己負担額だということである。もし、完全無償化をめざすのであれば、サービスの利用者数が増え、施設やサービス提供者の不足が予想されるため、より多くの財源が必要となる。
======【引用ここまで】======
ベーシック・サービスの名の下、子育て、教育、医療、介護、障害者福祉を完全無償化するという井手氏。
高齢者が増え続け、現役世代が減少していくことが人口構成上わかっている中で、ベーシック・サービスに指定された特定の分野でヒト・モノ・カネが浪費される。この分野に携わる人の疲弊は今以上になるだろう。
そして、指定されなかった分野で人手不足が生じ、生産が滞る。
コンビニの陳列棚はガラガラ、
宅配便の遅配は日常茶飯事、
タクシーはどこも走ってない、
パソコンは20年前のものを使い続ける、
服は人民服・・・
本書は『未来の再建』というタイトルだが、どうも未来の地獄絵図しか想像できない。
【労働組合の成果が雇用問題の根源】
藤田氏は、雇用に関して次のように述べている。======【引用ここから】======
17頁
終身雇用と年功賃金による日本型雇用の崩壊、非正規雇用の拡大、転職せざるを得ないブラック企業の台頭、労働分配率の低下など、働いている人びとの給与や処遇は劣化し続けている。
======【引用ここまで】======
======【引用ここから】======
29頁
実際、現在の雇用環境は、井手英策や今野晴貴が後述するように、これまでの給与水準や生活水準を維持するのが困難だ。僕の友人の多くは、年功賃金になっておらず、長時間労働に明け暮れている。それでも賃金が少ないため、生活が苦しいという。
ましてや終身雇用など夢のような話である。
======【引用ここまで】======
藤田氏は、日本型雇用が良かったと考えているのかそうではないのか。
彼の書いた他の部分を読んでもよくわからない。
彼は、派遣労働者の賃上げを派遣元企業に対してではなく派遣先企業に対してアピールする奇妙な思考回路の持ち主なので、労働問題に関しての記述はあまり当てにならない(他の分野でもそうだが)。
そこで、労働分野については今野氏の記述を読んでみよう。
今野氏は、日本型雇用の成立とその問題点について次のように述べている。
======【引用ここから】======
84頁
実は、日本型雇用は国が法律で定めた制度ではなく、労使の交渉によって作られた労使慣行であり、交渉で取り決められた労働協約によるものだ。裁判所はこの慣行を追認したに過ぎない。
1950年代、60年代には多くのストライキが敢行され、労組は年齢給を勝ち取り、雇用を守るために多くの血が流された。70年代には経営側もこれ以上の争いを望まず、むしろ、企業別組合との間で日本型雇用慣行の約束を守ることで、労働争議をなくそうと考えるようになった。ところが、こうして労働者が「勝ち取った」はずの日本型雇用には重大な欠陥が潜んでいたのだ。
======【引用ここまで】======
労働組合が、暴力によって正社員の終身雇用と年功賃金を得た。
そして、裁判所がこれを追認した。
正社員の終身雇用が保障されるということは、会社側から見ると、正社員を解雇することが非常に困難であるということになる。
この、労働組合と裁判所による合作である解雇規制が、海外から見て異例の労働環境を生んだ。
======【引用ここから】======
82頁~
終身雇用・年功賃金が保障される代わりに、一生涯、会社のなかで貢献度を競わされる。低成長時代に入ると、「貢献度」の測り方はいよいよ厳密になり、過酷な労働を生み出していった。
それでも、会社を辞めることはできない。それは将来にわたる生活保障を丸ごと失うことを意味するからだ。端的に言って、年功賃金を当て込んでローンを組んでいたら、辞めることなど不可能だろう。
だから、会社の中で、どんな過酷な命令にも従わざるを得ない。全国転勤の命令や、限度のない残業命令。このような、世界的に見て異例なほど理不尽な命令が慣例となっているのが、日本型雇用の特徴だ。海外ではあらかじめ契約をした仕事以外の労働に従事させることはできないが、日本型雇用では、企業に命令されれば、どんなことでも従事しなければならない。そうした契約慣行は「空白の石版」とまで呼ばれている(濱口桂一郎『新しい労働社会』)。
裁判所も、「人事権」の名のもとに、企業の広範な命令権限を認めてきた。終身雇用を継続するためには、リストラではなく、配置転換や残業によって労働需要の調整をおこなう必要がある。そのためには、どんな命令でも許されるのだ、と。
つまり、日本型雇用は終身雇用、年功賃金、そして「無限の指揮命令権」を使用者に与える雇用慣行だった。
======【引用ここまで】======
正社員の労働環境については、
労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
↓
会社は正社員を容易にリストラできない。
↓
労働需要の調整を全国転勤や限度のない残業命令でおこなう。
↓
会社に「無限の指揮命令権」が認められ、正社員は会社に貢献することが求められる。
という流れが成立している。
他方、非正規労働者については、
労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った。
↓
会社は閑散期でも業績悪化時でも正社員を容易には解雇できない。
↓
正社員の雇用数は抑え目にして、非正規労働者を増減させて業務量の変動に対応する。
↓
身分保障のある正社員と、正社員の身分保障枠からはみ出た非正規労働者という身分格差が発生する。
という流れになっている。
こう眺めてみると、終身雇用は、労働組合のたたかいの成果というよりも、労働組合が現代に持ち込んだ害悪と評した方が適切である。
======【引用ここから】======
82頁
このように、日本型雇用の中にいれば、生きていける。だが、その外に一歩でも出てしまえば、生活の保障はない。だから、日本では何とかこの日本型雇用の中に入ろう、なるべくなら保障の大きい大企業に入ろうと考える社会意識が生まれた。
逆に言えば、非正規雇用の労働者は、まさにそこから放り出されているために、生きていくことができないのだ。
======【引用ここまで】======
では、どうしたらこの問題を解消できるだろうか。
今野氏らは、解決策として最低賃金のアップや、企業別組合からユニオンへの転換を掲げているが、これらは本質的な問題解決にはつながらない。
特に、最低賃金アップについては、韓国で無理な引き上げをしたことによって若年層の失業率が跳ね上がったという実験結果が示されたばかりであり、全くの逆効果になる。
この正社員・非正規労働者の身分制は、
「労働組合が正社員の身分保障を勝ち取った」
ということが根底にある。
ここを変えなければどうにもならない。
藤田氏のように、労働組合の主催する講演会やシンポジウムに呼ばれて、助成金や講演料を受け取って労働組合におべっかを使っている場合ではないのだ。
労働組合の暴力から始まり裁判官の心証に左右される曖昧な慣行を否定し、金銭解雇ルール等の導入によって解雇条件を明確化し、正社員を解雇できるようにする。
正社員の身分保障を削ることで、正社員を雇用することのハードルを下げ、雇用数を増やせるようになる。
雇用を流動化させることで、会社への貢献度で賃金の決まる属人給から、職務内容ごとに賃金の決まる職務給へと転換させることができる。
会社にとって「とりあえず雇ってみようか」ということが可能な環境が必要だ。
正社員が
「転勤?会社にそこまで尽くす義理はありません」
ということを今よりも言いやすくするためには、転職しやすい環境=とりあえず雇ってみようと言える環境がなければならない。
同様に、今まで時間給で働いていたパート従業員が、会社に対し
「私を正規で雇ってください」
という主張を通しやすくするために必要なことも、会社が「とりあえず雇ってみよう」と言える環境である。
ツイッターで最近知った「えらいてんちょう」氏は、『しょぼい起業で生きていく』という本の中で、何度か
「起業しても雇用するな」
という主張をしている。
これは、しょぼい起業という本書の趣旨に雇用契約が沿わないということだと思うが、同時に、現状の労働法制下において、雇用することがいかにリスクの高い行為であるかを物語っているとも言えるだろう。
【まとめ】
本書の中で、井手氏、及び今野氏の書いた現状分析については、まぁ妥当であろうと受け取った。ただ、彼らの提示する処方箋は間違いであり危険だと思う。(他方、藤田氏の書いている部分については・・・もう察してください。)
未来の再建を、政府を通した社会保障給付の拡大で成し遂げるのは無理だ。
再建どころか崩壊、地獄絵図である。
日本には、政府による規制や介入が多すぎる。
教育、保育、介護に見られるような、施設基準、人員基準、価格設定。
雇用分野に見られるような、最低賃金、解雇規制。
また、今回は触れなかったが、アベノミクスに見られるような金融緩和もまた、市場に介入し市場の機能を歪めるものとして忘れることはできない。
こうした貧困化政策を一つずつ止めていき、自発的な生産と交換を地道に重ね、満足を少しずつ取り戻し、助け合うことのできる物質的な余裕と心の余裕を持てるようにしよう。
再建は一日にして成らず、である。