若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

儚い地方分権論

2009年01月25日 | 政治
建設業者はこう望む。
「自治体は、もっと公共工事を増やしてくれたらいい」

農家はこう望む。
「自治体は、もっと補助金で収入を支えてくれたらいい」

飲み屋はこう望む。
「自治体が職員給与を増やして、職員がもっと飲み歩いてくれたらいい」

失業者はこう望む。
「自治体は、もっと臨時職員等の採用枠を増やしてくれたらいい」

そして、多くの人がこう望む。
「自治体は、その財源としてもっと中央から補助金や交付金を引っ張ってくればいい」



自治体が中央から金を引っ張ってきて、その金を回すことで地場の経済がどうにか回っている。そんなところは多いはずだ。

一つの地方に限って言うならば、「地方分権」「小さな政府」論は損だ。補助金・交付金が減って、良いことなんて何一つ無い。自治体とは地域における雇用の受け皿であり、大口の消費者であり、中央から金をもってくる生命線・・・そんな地方は多いはずだ。自治体が中央との繋がりを強固なものとし、中央から金を引っ張る機能を強化し、人員を増やし規模を拡大するのは、こういう観点からは善となる。また、官の必要性を強調し、人手を増やす名目を作り、様々なサービスを官営で行うようになる。

こういう傾向の一例として、大分の姫島村を挙げることができる。
大分県姫島村
(ここでは、「官ができることは官が」という発想があるらしい。)

さて。

過疎に悩む地方自治体が、こぞって姫島村の真似をしたら大変だ。「過疎化を食い止める」という大義名分で外部から金を引っ張り、地場産業で養える以上の人間を公務員として抱え込む・・・このコストは、全国の納税者が負担することになる。個々の自治体としては交付金や補助金が増えるのは一見喜ばしいことだが、これを多くの自治体が行うことで中央の財政負担が増し、結局は納税者の負担が増すことになる。

また、「過疎化を食い止める」という大義名分は、生産性の低いところから生産性の高いところへ人が移動するという当たり前の動きを妨げることになる。産業の盛衰とともに人も移動するのは自然なことだ。「過疎化を食い止める」というのは、炭鉱の無くなった軍艦島に、中央からの税金で人を住まわせ続けるようなものだ。このコストは馬鹿にならない。

「平等」とか「格差是正」とか「反貧困」とか「国土の均衡ある発展」等々、他人の負担で現状を維持・改善しようとする主張は高くつく。自分だけはその負担から逃れられると思ったら、大間違いだ。こうした主張の行き着く先が、強制的な配分を行うため巨大な官僚機構を必要とする中央集権・共産主義だ。ここまで行くと、高くつくどころの話じゃ済まない。


ミルトン・フリードマン著『政府からの自由』(中公文庫)152頁
価値ある目的のための社会政策の数々、その実施結果やいかに。その疑問をもつ方々に、絶対間違いのない予測方法をお教えしよう。何でもいい、ある政策を強く推している公共心旺盛な善意の人のもとを訪れ、政策に何を期待しているかを尋ねるのである。そして、その人の期待と反対のことを言ってみる。実際の結果とピタリと一致することは、驚くばかりである。
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