とある市議会での、議員と行政当局とのやりとりをご紹介。
一般質問・備品の充実は行政の責任で。 - 飯塚市議会議員「上野伸五(うえのしんご)」の活動記
======【引用ここから】======
上野伸五
それでは次年度の各学校の部活動に対しては、十分な予算措置が確保できるというようなご答弁と受け取っていいですか。
教育部長
十分といえるかどうか、それはそれぞれの置かれた状況もあるかと思いますが、私どもとしてはできるだけ、そのように配慮をしていきたいということでございますので、ご理解をよろしくお願いいたします。
上野伸五
本来であれば、部活動にするための備品は、行政が用意しなければならないものです。しかし現状は、PTAや各家庭の負担に大きく頼ってらっしゃるんですよ。
~~~~(中略)~~~~
上野伸五
財源には限りがあるので、何もかも全部というわけにはいかないと思いますが、3月議会でも言わせてもらいましたけども、貧困家庭の子どもたちが部活動に加入できない。備品が買えないから。
======【引用ここまで】======
市議会での一般質問なので、公立の小中学校を対象とした議論であろうと思われる。
以下、公立小中学校におけるクラブ活動、部活動について考えてみよう。
部活動は、体育や音楽、美術等の授業の時間とは別物の、生徒が自主的に参加する任意の活動である。顧問として付いている教員は、基本的にボランティアという形で従事している。生徒が自主的に参加し、教員の勤務時間外で行われている、任意の活動である。その点では、個人で通っているスイミングスクールやピアノ教室、地域のソフトボールクラブと同じものだ。
この部活動に対し
「本来であれば、部活動にするための備品は、行政が用意しなければならない」
というのは全く意味が分からない。真逆である。
(そもそも公教育が不要だか、百歩譲って授業自体は良いとしても)部活動は教育課程外であり任意の活動なのだから、生徒本人とその保護者が必要経費を負担するのが本筋。備品も各家庭の負担で用意して当然である。PTA会費や税金を通して、部活動に参加していない生徒の保護者にまで負担を押し付けるのは容認できない。自治体が小中学校に対し「部活動振興対策事業補助金」などを支出している現状が、筋論から外れているのだ。
水泳部が無い学校に在籍し「水泳をしたいから」と自費でスイミングスクールに通っている生徒や、バイオリンを弾きたいのに学校に楽器が無く自費でバイオリン教室に通う生徒がいる一方で、野球部やブラスバンド部には高価な備品がPTA会費や税金で提供されているとしたら、不公平を通り越して特権である。部活動への行政の支援は、特定の趣味を税金で優遇するという著しい不公平を生み出している。
部活動へ行政は関与を強めるべきではない。むしろ、行政と学校から部活動を切り離していかなければならない。これは、いじめ対策という観点からも重要である。いじめは、学校という閉鎖的な人間関係の中で起きる構造的な問題という側面がある。学校でいじめが発生した場合に、学校の閉鎖性を保ったままその延長として部活動をしている限り、部活動でもいじめが継続してしまう。
部活動は、学校単位でなく地域単位でやりたい人が集まってやればいい。学校の枠を越えて、年齢層の壁を越えて参加できるようにすればいい。学校単位でなくなれば、「経験したことがないスポーツの顧問を押し付けられた」という教員も減るだろう。逆に、部活動の顧問に生きがいを感じている教員は、地域単位の部活動の顧問に就任すればいいだけの話だ。
行政の関与の強化、学校単位の部活動の枠組みの強化は、部活動に参加していない生徒との不公平をさらに拡大することになり、同時に、学校の閉鎖性に端を発するいじめを温存してしまうことになる。また、学校単位の枠組みがある限り、教員に対し「各教員は必ず部活の顧問を務めるように」という圧力はかかり続け、暗黙の義務が強化されていくことだろう。
なお、部活動は、生徒を貧困家庭から抜け出させることに寄与しない。「貧困家庭の生徒が部活動に加入できない」というが、生徒の全ての趣味・関心事に合わせて部活動を創設し備品を税金で賄うことはできない。趣味は自分の金でやるものだ。
「各学校の部活動に対し、行政の責任で予算を確保すべき」というのは、不公平を助長するとともに、いじめ問題や「ブラック部活」といった部活動の負の側面を全く踏まえていない稚拙な主張である。ここには、保護者票が欲しい議員の、浅はかな魂胆が透けて見える。「行政の責任」というのは、他人の負担で自分が美味しい思いをしようとしている者が使うマジックワード。税金で今以上の利益を得よう、新たに税金からの支出メニューを作って美味しい思いをしよう、その対価として票を稼ごうとする時、政治家は「行政の責任」「政府の責任」といった言葉を使うので注意が必要だ。
行政が現在行っている税金からの支出を、直ちに全て廃止することは不可能だ。しかし、税金に依存する人をこれ以上増やしてはならない。税金による施策を新設しないことと、税金による施策を減らしていくことが、自由主義の視点からの現実的な道ではなかろうか。
「行政の責任」という言葉が出てきたら、税金依存症の発想が潜んでいないか注意することが必要である。
一般質問・備品の充実は行政の責任で。 - 飯塚市議会議員「上野伸五(うえのしんご)」の活動記
======【引用ここから】======
上野伸五
それでは次年度の各学校の部活動に対しては、十分な予算措置が確保できるというようなご答弁と受け取っていいですか。
教育部長
十分といえるかどうか、それはそれぞれの置かれた状況もあるかと思いますが、私どもとしてはできるだけ、そのように配慮をしていきたいということでございますので、ご理解をよろしくお願いいたします。
上野伸五
本来であれば、部活動にするための備品は、行政が用意しなければならないものです。しかし現状は、PTAや各家庭の負担に大きく頼ってらっしゃるんですよ。
~~~~(中略)~~~~
上野伸五
財源には限りがあるので、何もかも全部というわけにはいかないと思いますが、3月議会でも言わせてもらいましたけども、貧困家庭の子どもたちが部活動に加入できない。備品が買えないから。
======【引用ここまで】======
市議会での一般質問なので、公立の小中学校を対象とした議論であろうと思われる。
以下、公立小中学校におけるクラブ活動、部活動について考えてみよう。
部活動は、体育や音楽、美術等の授業の時間とは別物の、生徒が自主的に参加する任意の活動である。顧問として付いている教員は、基本的にボランティアという形で従事している。生徒が自主的に参加し、教員の勤務時間外で行われている、任意の活動である。その点では、個人で通っているスイミングスクールやピアノ教室、地域のソフトボールクラブと同じものだ。
この部活動に対し
「本来であれば、部活動にするための備品は、行政が用意しなければならない」
というのは全く意味が分からない。真逆である。
(そもそも公教育が不要だか、百歩譲って授業自体は良いとしても)部活動は教育課程外であり任意の活動なのだから、生徒本人とその保護者が必要経費を負担するのが本筋。備品も各家庭の負担で用意して当然である。PTA会費や税金を通して、部活動に参加していない生徒の保護者にまで負担を押し付けるのは容認できない。自治体が小中学校に対し「部活動振興対策事業補助金」などを支出している現状が、筋論から外れているのだ。
水泳部が無い学校に在籍し「水泳をしたいから」と自費でスイミングスクールに通っている生徒や、バイオリンを弾きたいのに学校に楽器が無く自費でバイオリン教室に通う生徒がいる一方で、野球部やブラスバンド部には高価な備品がPTA会費や税金で提供されているとしたら、不公平を通り越して特権である。部活動への行政の支援は、特定の趣味を税金で優遇するという著しい不公平を生み出している。
部活動へ行政は関与を強めるべきではない。むしろ、行政と学校から部活動を切り離していかなければならない。これは、いじめ対策という観点からも重要である。いじめは、学校という閉鎖的な人間関係の中で起きる構造的な問題という側面がある。学校でいじめが発生した場合に、学校の閉鎖性を保ったままその延長として部活動をしている限り、部活動でもいじめが継続してしまう。
部活動は、学校単位でなく地域単位でやりたい人が集まってやればいい。学校の枠を越えて、年齢層の壁を越えて参加できるようにすればいい。学校単位でなくなれば、「経験したことがないスポーツの顧問を押し付けられた」という教員も減るだろう。逆に、部活動の顧問に生きがいを感じている教員は、地域単位の部活動の顧問に就任すればいいだけの話だ。
行政の関与の強化、学校単位の部活動の枠組みの強化は、部活動に参加していない生徒との不公平をさらに拡大することになり、同時に、学校の閉鎖性に端を発するいじめを温存してしまうことになる。また、学校単位の枠組みがある限り、教員に対し「各教員は必ず部活の顧問を務めるように」という圧力はかかり続け、暗黙の義務が強化されていくことだろう。
なお、部活動は、生徒を貧困家庭から抜け出させることに寄与しない。「貧困家庭の生徒が部活動に加入できない」というが、生徒の全ての趣味・関心事に合わせて部活動を創設し備品を税金で賄うことはできない。趣味は自分の金でやるものだ。
「各学校の部活動に対し、行政の責任で予算を確保すべき」というのは、不公平を助長するとともに、いじめ問題や「ブラック部活」といった部活動の負の側面を全く踏まえていない稚拙な主張である。ここには、保護者票が欲しい議員の、浅はかな魂胆が透けて見える。「行政の責任」というのは、他人の負担で自分が美味しい思いをしようとしている者が使うマジックワード。税金で今以上の利益を得よう、新たに税金からの支出メニューを作って美味しい思いをしよう、その対価として票を稼ごうとする時、政治家は「行政の責任」「政府の責任」といった言葉を使うので注意が必要だ。
行政が現在行っている税金からの支出を、直ちに全て廃止することは不可能だ。しかし、税金に依存する人をこれ以上増やしてはならない。税金による施策を新設しないことと、税金による施策を減らしていくことが、自由主義の視点からの現実的な道ではなかろうか。
「行政の責任」という言葉が出てきたら、税金依存症の発想が潜んでいないか注意することが必要である。