私人の表現行為に公権力が禁止や制限をする。
私人の表現行為に公権力が補助金を出す。
公権力が主催者となって表現行為を行う。
役所の芸術への関わり方を、いくつかの類型に分けて考えてみましょう。
これが表現の自由の本丸であり、当然ながら役所が販売や上演を禁止するのはダメです。
憲法上、検閲は明確に禁止されています。検閲すなわち「行政権が、表現物の内容を事前に審査し、一般的・網羅的に発表を禁止すること」は、表現の自由を侵害する代表例と言えましょう。
ざっくり言うと、憲法は政府の行為を制限し、これによって国民の自由を守ることを目的としています。検閲の定義を見てもわかるように、憲法によって保障されるのは「行政からの自由」であって、役所が特定の表現行為を優遇しその活動を支援する「行政による自由」は憲法の本来の役割からすれば傍流の、数ランク下の個別政策に過ぎません。
ただ、役所から補助金が出ています。補助金は、一定の目的を果たすために交付されるのが通例であり、また、交付に際しては条件を付されることもあります。補助金の一般論として、私人側が役所に対し
「○○をしたいから補助金を申請します」
と言った時に、役所側が
「この補助金は△△を目的としたものだから、○○だけではダメ。□□も加えて。あと■■はしないように。この条件を満たせないなら補助金を交付しない」
と対応することは容易に考えられます。内容を見た時に補助目的・条件に沿ったものでないことが事後に発覚した場合、補助金の返還も生じる可能性があります。
こうした補助金による条件づけ、補助不交付、補助金返還については、表現の自由とは直接関係がありません。表現行為自体は禁止も制限もされておらず、ただ補助金交付という特権的地位が認められなかったに過ぎません。補助金を受けられなかったとしても、他の表現行為と同じ土俵に立って表現行為をすることは当然可能です。
そもそも、予算には限りがあるため、団体Aの表現活動と団体Bの表現活動の両方に支援できないという場合もあります。そうなると、AとBの活動内容を見比べ、役所がどちらに補助金を出すか選別しなくてはなりません。補助金でなくコンテストによる賞金形式のものもありますが、これは役所による選別という色合いがより濃くなります。
このように、補助金の登場によって、私人の本来企図していた表現行為が、役所の意向から影響を受けるようになります。補助金を受けた私人は他の者よりも金銭面で有利な立場を得ることができますが、他方で、補助メニューが増えれば増えるほど、役所の顔色を窺う場面が増え、表現行為に対し役所が介入できる場面が増えることになります。
補助金を貰いたい、貰った補助金を返したくない、こうした思考方法に取り付かれると、役所の意向に逆らうことが難しくなります。こうした役所による介入、表現行為への役所の影響力増大を憂う立場から、私は憲法89条をもっと厳格に解釈して政府支出を制限すべきと思うのですが、世の中には
「役所の補助が無いと表現行為が立ち行かない。芸術家の生活が成り立たない」
なんて言う人もいるんですよね。困ったものです。
さて、表現行為に対し補助金を交付するとして、望ましい表現行為はどのように分かるのでしょうか。「役所が考える望ましい表現行為」は、そのまま住民が考える望ましい表現行為なのでしょうか。住民の多数が望ましいと考える表現行為が、少数住民にしか支持されない表現行為と比べて金銭面で優遇されるべき必要はあるのでしょうか。望ましい表現行為を役所が指定すること自体に問題はないのでしょうか。
表現したい人が表現行為をし、これを見聞きした人が評価や批評をし、あるいは対抗する側から別の表現行為が行われることで、結果として「あれは良い表現行為だった」と受け入れられ、あるいは「あれはくだらない表現行為だった」と分かるのであって、通常、事前に表現行為が望ましいものかどうかは分かりません。
各人の自発的な表現が総体として互いに他を説得しようと競い合い、その自由競争の過程で真理が発見され理想的なあり方が見えてくる、こうした考え方は「思想の自由市場」と呼ばれますが、これは思想のみならず表現行為一般に通じる考え方だと思います。
ところが、役所が主催者となると事情は異なります。
役所は、予算事業として、役所自身が主催者となってイベントを実施することがあります。
予算、会場、期間、テーマ、動員目標、ゲスト、演者、展示作品、入場料設定、様々なものを主催者の責任において決定していきます。
こうなると、役所の介入どころではありません。役所の主催であり、全体としては役所の表現行為です。役所の意向に反した表現行為を企図している者はそもそも招かれません。
また、評判が良ければ隔年開催を毎年に変えたり、評判が悪ければ期間を短縮したり翌年度以降の開催を取りやめにしたり、表現行為を始めた後にその反響によって展示方法や時間を変更したり、場合によっては中止にすることもあるわけですが、その対応をする権限と責任は主催者すなわち役所にあります。
良い意味で反響が大きい場合に、会場を調整してイベント期間を延長するということもあるでしょう。逆に、悪い意味で反響が大きくて、脅迫電話が来た場合に新たな予算措置を講じて警備員を増員して強化するといったこともあるでしょう。客の入りが悪いから、展示内容を途中で変えるということもあるでしょう。
そういった判断の最終的な責任は主催者にあります。
イベント主催者と、イベントの参加者・出展者とは、契約によって関係が成立しています。
主催者が役所であろうが企業であろうが、この点は変わりません。
津田大介という人物が関わった「あいちトリエンナーレ」というイベントでの騒動が話題になっています。
実行委員会(愛知県、名古屋市、新聞社、NHK、大学などから構成される団体)が主催者となり、イベントを開催しています。
この実行委員会というのが曲者で、開催費用をそれぞれの組織から持ち寄っているために資金の流れが不透明になり使途不明金が発生することもある問題のある方式なのですが、運営費や運営スタッフが役所の負担金や役所の職員で多くを占められていれば、それはほぼ行政と言えます。
運営主体が実行委員会すなわちほぼ行政であれば、全体としてみたときにこのイベントは行政による表現行為ということになります。
表現の自由が本来「行政からの自由」を指していたことを考えると、この騒動は滑稽です。
自ら行政主催のイベントに参画してその枠組みと資金を利用して表現行為をしておきながら、トラブルが起きると
「「表現の不自由展、その後」だけを別会場に移し、厳格なボディチェックのシステムを設けたうえで再開するようなやり方」
という税金支出が増える一方の特別扱いを求め、実行委員会が展示の中止を決定すると
「現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画をその主催者が自ら弾圧することは、歴史的暴挙」
などと反発したり。
表現の自由の本義が「行政からの自由」であることを考えると、表現の自由を守る視点に立って今回参加した作家達が採るべきだったのは
「行政による表現活動に参加しない、近寄らない。」
という姿勢です。
行政主催のイベントに自ら参画した開催側内部の契約関係のトラブルを「表現の自由の問題だー」と主張するのは、表現の自由が本来持っていた「行政からの自由」という効力を揺るがすものです。
そして、行政がすべきことは、税金を使ってイベントを開催し、左右の納税者から「税金の支出に問題がある」という苦情の声の板挟みに合うことではありません。税金を使った表現行為イベントをそもそも主催しないことが、行政がすべき最善策です。
私人の表現行為に公権力が補助金を出す。
公権力が主催者となって表現行為を行う。
役所の芸術への関わり方を、いくつかの類型に分けて考えてみましょう。
【(1)私財による表現行為 vs 公権力】
私人(私的団体含む)が私費で製作運営する書籍、演劇、展示会に対し、役所が介入し、表現内容をチェックし、販売や上演の禁止やその態様の制限をするケースがこれに該当します。これが表現の自由の本丸であり、当然ながら役所が販売や上演を禁止するのはダメです。
憲法上、検閲は明確に禁止されています。検閲すなわち「行政権が、表現物の内容を事前に審査し、一般的・網羅的に発表を禁止すること」は、表現の自由を侵害する代表例と言えましょう。
ざっくり言うと、憲法は政府の行為を制限し、これによって国民の自由を守ることを目的としています。検閲の定義を見てもわかるように、憲法によって保障されるのは「行政からの自由」であって、役所が特定の表現行為を優遇しその活動を支援する「行政による自由」は憲法の本来の役割からすれば傍流の、数ランク下の個別政策に過ぎません。
【(2)補助金交付を受けた表現行為 vs 公権力】
私人が国・都道府県・市町村に対し補助金申請をし、補助金の交付を受けて書籍販売や展示会実施をする場合があります。この場合も、役所が販売や実施の禁止をするのはダメです。ただ、役所から補助金が出ています。補助金は、一定の目的を果たすために交付されるのが通例であり、また、交付に際しては条件を付されることもあります。補助金の一般論として、私人側が役所に対し
「○○をしたいから補助金を申請します」
と言った時に、役所側が
「この補助金は△△を目的としたものだから、○○だけではダメ。□□も加えて。あと■■はしないように。この条件を満たせないなら補助金を交付しない」
と対応することは容易に考えられます。内容を見た時に補助目的・条件に沿ったものでないことが事後に発覚した場合、補助金の返還も生じる可能性があります。
こうした補助金による条件づけ、補助不交付、補助金返還については、表現の自由とは直接関係がありません。表現行為自体は禁止も制限もされておらず、ただ補助金交付という特権的地位が認められなかったに過ぎません。補助金を受けられなかったとしても、他の表現行為と同じ土俵に立って表現行為をすることは当然可能です。
【補助金による介入】
そもそも、予算には限りがあるため、団体Aの表現活動と団体Bの表現活動の両方に支援できないという場合もあります。そうなると、AとBの活動内容を見比べ、役所がどちらに補助金を出すか選別しなくてはなりません。補助金でなくコンテストによる賞金形式のものもありますが、これは役所による選別という色合いがより濃くなります。
このように、補助金の登場によって、私人の本来企図していた表現行為が、役所の意向から影響を受けるようになります。補助金を受けた私人は他の者よりも金銭面で有利な立場を得ることができますが、他方で、補助メニューが増えれば増えるほど、役所の顔色を窺う場面が増え、表現行為に対し役所が介入できる場面が増えることになります。
補助金を貰いたい、貰った補助金を返したくない、こうした思考方法に取り付かれると、役所の意向に逆らうことが難しくなります。こうした役所による介入、表現行為への役所の影響力増大を憂う立場から、私は憲法89条をもっと厳格に解釈して政府支出を制限すべきと思うのですが、世の中には
「役所の補助が無いと表現行為が立ち行かない。芸術家の生活が成り立たない」
なんて言う人もいるんですよね。困ったものです。
【思想の自由市場論】
補助金の目的は「役所が望ましいと考える一定の状態の実現」にあります。これは、裏を返すと「役所が望ましくないと考える一定の状態の冷遇、排除」につながります。さて、表現行為に対し補助金を交付するとして、望ましい表現行為はどのように分かるのでしょうか。「役所が考える望ましい表現行為」は、そのまま住民が考える望ましい表現行為なのでしょうか。住民の多数が望ましいと考える表現行為が、少数住民にしか支持されない表現行為と比べて金銭面で優遇されるべき必要はあるのでしょうか。望ましい表現行為を役所が指定すること自体に問題はないのでしょうか。
表現したい人が表現行為をし、これを見聞きした人が評価や批評をし、あるいは対抗する側から別の表現行為が行われることで、結果として「あれは良い表現行為だった」と受け入れられ、あるいは「あれはくだらない表現行為だった」と分かるのであって、通常、事前に表現行為が望ましいものかどうかは分かりません。
各人の自発的な表現が総体として互いに他を説得しようと競い合い、その自由競争の過程で真理が発見され理想的なあり方が見えてくる、こうした考え方は「思想の自由市場」と呼ばれますが、これは思想のみならず表現行為一般に通じる考え方だと思います。
【(3)役所主催イベント vs イベント参加者】
補助金であれば、表現行為の主体はあくまでも私人です。役所は金銭面での援助をしたに過ぎず、表現行為を実施し続けるかどうかの判断は表現者自身に委ねられます。ところが、役所が主催者となると事情は異なります。
役所は、予算事業として、役所自身が主催者となってイベントを実施することがあります。
予算、会場、期間、テーマ、動員目標、ゲスト、演者、展示作品、入場料設定、様々なものを主催者の責任において決定していきます。
こうなると、役所の介入どころではありません。役所の主催であり、全体としては役所の表現行為です。役所の意向に反した表現行為を企図している者はそもそも招かれません。
また、評判が良ければ隔年開催を毎年に変えたり、評判が悪ければ期間を短縮したり翌年度以降の開催を取りやめにしたり、表現行為を始めた後にその反響によって展示方法や時間を変更したり、場合によっては中止にすることもあるわけですが、その対応をする権限と責任は主催者すなわち役所にあります。
良い意味で反響が大きい場合に、会場を調整してイベント期間を延長するということもあるでしょう。逆に、悪い意味で反響が大きくて、脅迫電話が来た場合に新たな予算措置を講じて警備員を増員して強化するといったこともあるでしょう。客の入りが悪いから、展示内容を途中で変えるということもあるでしょう。
そういった判断の最終的な責任は主催者にあります。
イベント主催者と、イベントの参加者・出展者とは、契約によって関係が成立しています。
主催者が役所であろうが企業であろうが、この点は変わりません。
【「行政による表現」は「表現の自由」とは異なる】
さて。津田大介という人物が関わった「あいちトリエンナーレ」というイベントでの騒動が話題になっています。
実行委員会(愛知県、名古屋市、新聞社、NHK、大学などから構成される団体)が主催者となり、イベントを開催しています。
この実行委員会というのが曲者で、開催費用をそれぞれの組織から持ち寄っているために資金の流れが不透明になり使途不明金が発生することもある問題のある方式なのですが、運営費や運営スタッフが役所の負担金や役所の職員で多くを占められていれば、それはほぼ行政と言えます。
運営主体が実行委員会すなわちほぼ行政であれば、全体としてみたときにこのイベントは行政による表現行為ということになります。
表現の自由が本来「行政からの自由」を指していたことを考えると、この騒動は滑稽です。
自ら行政主催のイベントに参画してその枠組みと資金を利用して表現行為をしておきながら、トラブルが起きると
「「表現の不自由展、その後」だけを別会場に移し、厳格なボディチェックのシステムを設けたうえで再開するようなやり方」
という税金支出が増える一方の特別扱いを求め、実行委員会が展示の中止を決定すると
「現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画をその主催者が自ら弾圧することは、歴史的暴挙」
などと反発したり。
表現の自由の本義が「行政からの自由」であることを考えると、表現の自由を守る視点に立って今回参加した作家達が採るべきだったのは
「行政による表現活動に参加しない、近寄らない。」
という姿勢です。
行政主催のイベントに自ら参画した開催側内部の契約関係のトラブルを「表現の自由の問題だー」と主張するのは、表現の自由が本来持っていた「行政からの自由」という効力を揺るがすものです。
そして、行政がすべきことは、税金を使ってイベントを開催し、左右の納税者から「税金の支出に問題がある」という苦情の声の板挟みに合うことではありません。税金を使った表現行為イベントをそもそも主催しないことが、行政がすべき最善策です。