昨日から奥能登での大雨と洪水のニュースが絶え間なくながれている。お正月の地震に引き続き、こうまで天は人間に苦難を押し付けるのだろうか。
私が小学校6年生(1955年)で、輪島へ流れ込む河原田川の上流に住んでいたとき、やっぱり未曾有の大洪水が発生した。
父は河原田駐在所の警察官で、兄は2歳上の中学2年生。弟は小学4年生。河原田川は幅広い山間の平野の真ん中を流れ、夏の間中、村の子供達が集まって泳いだり魚とりに夢中になる幅10メーター未満の優しい川だった。
ある日前日から降り続いた激しい雨で、川の両側の畑や田圃はどんどん浸水し始め、私達が学校へ行く途中の川渕はあと20センチくらいで道路に水が溢れそうだった。
河原田小学校は此の川がうねって流れる河原に建てられた木造平屋の学校で各学年1クラスづつだったのを覚えているが、下級生は戦後の団塊世代、クラスも増えていたのかもしれない。
登校して授業が始まる前に体育館に緊急集合とのことで全員集まった頃には水は体育館の下を激しく流れ込んでいた。村の消防団員が駆けつけ山と学校に綱を張り私たち一人一人を背負って、山道に連れていってくれた。
家の近くの子供達がひとかたまりになって、それぞれの自宅方面の山道をたどったが、あちこち山から流れる支流が激流のため橋が流されて、自分達の在所へたどり着けない。此のときは鉄橋も流されて、電車も不通。
午後山から切り出した材木2本でやっと簡単な橋を作って我が家へたどり着けた。
帰ってみると父は風邪が悪化して高熱を出して寝ていて、こんな大事に役にたたない。家の左脇に高さ3-4メーターくらいの小さな滝?のような流れが有ったが、此のときは水は激しく落下し、我が家の床下に流れ込んでくる。
母は長靴と父の雨合羽で床への流れを止めるべく、大きな石を運んだり大活躍していた。私は玄関に出て家の前の道路下から谷間の向こうの村までが広大な川になって巨木が流れていくのをあれよあれよと見ていると、父が頭のタオルがぬるくなったと怒る。
学校から各自家へ帰る頃には雨はやんでいたが、山に降った水が満杯で川もどこも耐えきれなかったようだ。此の河原田村は学校が完全に流されたのと、村の田畑は土ごと流されてしまっただけで、各自の住宅地には被害がなかったが、川下の輪島の街は大洪水。
街の真ん中を流れる川で輪島の街は海まで平野に出来た街だった。
此の日の午後父の解熱剤をもらいに兄は鉄道の線路を伝って輪島の医者まで往復したが、20数年前、兄にその時のことをきいても覚えていなかった。
輪島の街がどのようにして復興したか、まだ自分の身の回りしか興味のなかった私は全然覚えていない。
今回の2重災害、みんなが頑張って早く復興してほしい。
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