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昨日、明石で高校野球を見た。
その後で、明石公園を歩いてみた。
よく遊んだり、散歩したりしたのだが、もうだいぶ昔のことである。。
多分、40年は経っているのではないだろうか。
昨日の感想、一言で言うと『50年も経つと木は大きくなるものだ』
明石公園の鬱蒼とした緑を見てそう思った。
人の人生いろいろである。
1933年、昭和8年生まれ。面白い時代を面白く生きたものだと思う。
こんなに変化の大きかった70年も、歴史にあまり例のないことではないだろうか。
「もしもーーーーたら」
まず、『若しも、戦争がなかったら』
日本も、日本人も、私もみんな全然違う人生を歩いたであろう。
どうなっていたか、想像も出来ないのである。
私は、多分そのまま今のソウルで暮らしたであろうと思う。
当時の内地、日本に戻る理由がないのである。
明石も空襲などなかったであろう。
『若しも戦争があったとしてもーーー』
『川崎航空機が明石になかったらーーー』
多分、明石は空襲など受けなかったのではないだろうか?
川崎航空機の飛行機工場があったばっかりに、明石は何度もひどい空襲を受けたのである。
個人的にもそれで、叔父や叔母は「を空襲で亡くしてしまった。
私が生まれた家も爆弾でつぶれ焼夷弾で焼失してしまった。
小学校のころ休みに帰省していて、覚えているだけでもよかったと思っている。
ところが、ひょんなことで川崎航空機と関係が出来て、
そして、その関係で私は川崎航空機に入社したのである。
戦争がなかったら、若し川崎航空機が明石になかったら、
私はカワサキとは何の関係も持たずに、全く違う人生を歩いたに違いない。
昨日、明石公園を歩いて、いろんなことを思い出した。
久しぶりに高校野球の後輩たちを見て、自分の高校時代を、
明石公園の木々の成長を見てこの50年を、
焼け野原であった明石の町も淡路島が隠れるくらいにビルが建った。
カワサキでも、よく単車に配属されたものだとと思う。
発動機か単車か。ここが分かれ道だったように思う。
特に、ハードとしての単車には、そんなに関心もないのだが、
世界を相手に輸出ではなく「事業を展開した」二輪業界に入れたことは本当によかったと思っている。
そして、この業界のトップ企業がホンダであった事は幸いであった。
本田宗一郎さんの事業に対する発想が普通一般の日本企業と完全に差別化されていたことが、
日本企業の嫌な体質のなかではなしに、世界の常識の中で生きることが出来たのが大きいと思っている。
「もしーーーーたら」
結局は運かも知れない。ホントに運よく生きられたと思っている。
『つまるところ、運だな』
昨日から、ずっとこんなこと思っている。
昨日、明石で高校野球を見た。
その後で、明石公園を歩いてみた。
よく遊んだり、散歩したりしたのだが、もうだいぶ昔のことである。。
多分、40年は経っているのではないだろうか。
昨日の感想、一言で言うと『50年も経つと木は大きくなるものだ』
明石公園の鬱蒼とした緑を見てそう思った。
人の人生いろいろである。
1933年、昭和8年生まれ。面白い時代を面白く生きたものだと思う。
こんなに変化の大きかった70年も、歴史にあまり例のないことではないだろうか。
「もしもーーーーたら」
まず、『若しも、戦争がなかったら』
日本も、日本人も、私もみんな全然違う人生を歩いたであろう。
どうなっていたか、想像も出来ないのである。
私は、多分そのまま今のソウルで暮らしたであろうと思う。
当時の内地、日本に戻る理由がないのである。
明石も空襲などなかったであろう。
『若しも戦争があったとしてもーーー』
『川崎航空機が明石になかったらーーー』
多分、明石は空襲など受けなかったのではないだろうか?
川崎航空機の飛行機工場があったばっかりに、明石は何度もひどい空襲を受けたのである。
個人的にもそれで、叔父や叔母は「を空襲で亡くしてしまった。
私が生まれた家も爆弾でつぶれ焼夷弾で焼失してしまった。
小学校のころ休みに帰省していて、覚えているだけでもよかったと思っている。
ところが、ひょんなことで川崎航空機と関係が出来て、
そして、その関係で私は川崎航空機に入社したのである。
戦争がなかったら、若し川崎航空機が明石になかったら、
私はカワサキとは何の関係も持たずに、全く違う人生を歩いたに違いない。
昨日、明石公園を歩いて、いろんなことを思い出した。
久しぶりに高校野球の後輩たちを見て、自分の高校時代を、
明石公園の木々の成長を見てこの50年を、
焼け野原であった明石の町も淡路島が隠れるくらいにビルが建った。
カワサキでも、よく単車に配属されたものだとと思う。
発動機か単車か。ここが分かれ道だったように思う。
特に、ハードとしての単車には、そんなに関心もないのだが、
世界を相手に輸出ではなく「事業を展開した」二輪業界に入れたことは本当によかったと思っている。
そして、この業界のトップ企業がホンダであった事は幸いであった。
本田宗一郎さんの事業に対する発想が普通一般の日本企業と完全に差別化されていたことが、
日本企業の嫌な体質のなかではなしに、世界の常識の中で生きることが出来たのが大きいと思っている。
「もしーーーーたら」
結局は運かも知れない。ホントに運よく生きられたと思っている。
『つまるところ、運だな』
昨日から、ずっとこんなこと思っている。