昨日、カワサキマイスターの恒例夏祭りがあって出かけてきた。
立派なイベントに仕上がっていたし、その内容もバイクの安全運転の要素が随所に盛り込まれていて、非常によかった。
excite と ひょこむ にその様子と感想などアップした。
gooでは、ちょっと観点を変えて、昨日このイベントを実施したカワサキライデングスクール近辺の場所についての昔話に触れてみたい。
カワサキの関係者でもこの経緯をご存知の方は少ないはずである。
ご存知の通り、正門横の2号線に面した1等地である。今はショールームなど整備されて非常にきれいである。
然し、昔はそうでもなかったのである。
今の安全運転コースの場所は、クルマで通勤する従業員の駐車場で確か舗装もされていなかった。
今のような形に長い年月を経て変貌してゆくのだが、何となく関係があったのである。
まず、1980年ごろ私は国内を担当していた。
国内市場でホンダさんを中心に安全運転活動が活発になりかけたころである。
中大型車の対策も暴走族問題などもあって注目されだした。
『中大型車はカワサキさんですよ』と業界でよく言われたものだが、
当時、カワサキの安全運転に関しては、ただただメグロ出身のベテランの秋元さん一人の人力と知識にひとえに頼っていた時代だったのである。
各社に安全運転普及本部が設置されカワサキは前田浩さんが本部長になられた。
事業部の副事業部長でもあった前田さんに、安全運転コースの設置をと耳打ちしたのは私である。
『どこに造る?』とおっしゃるので『門の横の駐車場』と答えた。
これは簡単なようで難しいのである。特に勤労や組合が絡む問題は、普通一般の人が普通にやってもとても実現出きる話ではない。
前田さんが安全運転本部長になられた機会に、何とか強引にトップダウンで動いて貰ったのである。
通勤自動車の駐車場は工場のど真ん中の3研南の空き地に移動したのである。
そして、正門横に安全運転コースを造って、
『一般社会の人の安全運転にも提供する』というコンセプトにしたのである。
そのコンセプト通りに、外から自由に出入りできるようになっている。
そんな経緯で、あの安全コースが出来たのである。
前田さんが居られなかったら、あのコースは出来ていなかったかも知れないと思ったりする。
二度目にあのあたりが改修されたのは、大庭本部長の時である。大庭さんはカワサキオートバイ販売の社長も兼務されていた。
大庭さんは、この社長の職責がお気に入りで熱心であった。そのころ事務所はちょっと離れた玉津にあったのだが、本社だけでも近くに置きたいとこのあたり一帯が候補に上がったのである。
これも普通なら難しい話であった。労働組合の事務所などがあったのである。
この移動などは簡単なようで難しいと思っていたら、大庭さん流でいとも簡単に中央突破で出来てしまったのである。
今のショールームつきのカワサキオートバイ販売の本社社屋が建って、ほぼ現状のような形態に綺麗に生まれ変わったのである。
1985年前後のことである。
私は国内は離れていたが、企画にいて大庭さんのすぐ近くにいたので、よく経緯が解っていたのである。
さらに、この安全コースを使って二輪専門の自動車学校を造ろうと動いたのは、1995年ちょうど10年後の話である。
これは阪神ライデングスクールの有馬さんに手伝って貰って、直接担当したのは私である。
この許認可は33人一般の生徒を試験場に送り込んで、2人滑ったらダメというほんとに難しい関門をくぐって許認可を受けたのである。
一般の受験希望者を指導して、その人たちに受験させるのである。
今大分で言われている様なことは一切なしである。飛び込みで受けに来た人たちと一緒の受験である。
何とか1年でクリアして、私は初代の設置者(校長先生のようなもの)になったのである。
昨日は、そんな思い出いっぱいの場所での、マイスターのイベントであった。
懐かしい人にもいっぱい会えたし、この場所についてこんなことを書いてみる気にもなった。
前田さんも、大庭さんにもお世話になったが、もう故人になってしまわれた。
そんな方たちのお陰で、
当初のコンセプト通りに、一般の人々にも解放された場所として機能しているのである。
立派なイベントに仕上がっていたし、その内容もバイクの安全運転の要素が随所に盛り込まれていて、非常によかった。
excite と ひょこむ にその様子と感想などアップした。
gooでは、ちょっと観点を変えて、昨日このイベントを実施したカワサキライデングスクール近辺の場所についての昔話に触れてみたい。
カワサキの関係者でもこの経緯をご存知の方は少ないはずである。
ご存知の通り、正門横の2号線に面した1等地である。今はショールームなど整備されて非常にきれいである。
然し、昔はそうでもなかったのである。
今の安全運転コースの場所は、クルマで通勤する従業員の駐車場で確か舗装もされていなかった。
今のような形に長い年月を経て変貌してゆくのだが、何となく関係があったのである。
まず、1980年ごろ私は国内を担当していた。
国内市場でホンダさんを中心に安全運転活動が活発になりかけたころである。
中大型車の対策も暴走族問題などもあって注目されだした。
『中大型車はカワサキさんですよ』と業界でよく言われたものだが、
当時、カワサキの安全運転に関しては、ただただメグロ出身のベテランの秋元さん一人の人力と知識にひとえに頼っていた時代だったのである。
各社に安全運転普及本部が設置されカワサキは前田浩さんが本部長になられた。
事業部の副事業部長でもあった前田さんに、安全運転コースの設置をと耳打ちしたのは私である。
『どこに造る?』とおっしゃるので『門の横の駐車場』と答えた。
これは簡単なようで難しいのである。特に勤労や組合が絡む問題は、普通一般の人が普通にやってもとても実現出きる話ではない。
前田さんが安全運転本部長になられた機会に、何とか強引にトップダウンで動いて貰ったのである。
通勤自動車の駐車場は工場のど真ん中の3研南の空き地に移動したのである。
そして、正門横に安全運転コースを造って、
『一般社会の人の安全運転にも提供する』というコンセプトにしたのである。
そのコンセプト通りに、外から自由に出入りできるようになっている。
そんな経緯で、あの安全コースが出来たのである。
前田さんが居られなかったら、あのコースは出来ていなかったかも知れないと思ったりする。
二度目にあのあたりが改修されたのは、大庭本部長の時である。大庭さんはカワサキオートバイ販売の社長も兼務されていた。
大庭さんは、この社長の職責がお気に入りで熱心であった。そのころ事務所はちょっと離れた玉津にあったのだが、本社だけでも近くに置きたいとこのあたり一帯が候補に上がったのである。
これも普通なら難しい話であった。労働組合の事務所などがあったのである。
この移動などは簡単なようで難しいと思っていたら、大庭さん流でいとも簡単に中央突破で出来てしまったのである。
今のショールームつきのカワサキオートバイ販売の本社社屋が建って、ほぼ現状のような形態に綺麗に生まれ変わったのである。
1985年前後のことである。
私は国内は離れていたが、企画にいて大庭さんのすぐ近くにいたので、よく経緯が解っていたのである。
さらに、この安全コースを使って二輪専門の自動車学校を造ろうと動いたのは、1995年ちょうど10年後の話である。
これは阪神ライデングスクールの有馬さんに手伝って貰って、直接担当したのは私である。
この許認可は33人一般の生徒を試験場に送り込んで、2人滑ったらダメというほんとに難しい関門をくぐって許認可を受けたのである。
一般の受験希望者を指導して、その人たちに受験させるのである。
今大分で言われている様なことは一切なしである。飛び込みで受けに来た人たちと一緒の受験である。
何とか1年でクリアして、私は初代の設置者(校長先生のようなもの)になったのである。
昨日は、そんな思い出いっぱいの場所での、マイスターのイベントであった。
懐かしい人にもいっぱい会えたし、この場所についてこんなことを書いてみる気にもなった。
前田さんも、大庭さんにもお世話になったが、もう故人になってしまわれた。
そんな方たちのお陰で、
当初のコンセプト通りに、一般の人々にも解放された場所として機能しているのである。