現役の最後のころ、こんな面白いプロジェクトばかりやっていた。
かっこよく言えば 『ソフトの事業化』
平たく言えば 『遊びの事業化』
バイクもジェットスキーも、 遊び道具である。
モノを造るだけの時代は、 もう旧いと思っていた。
今でも、そう信じている。
一生懸命やったら売れたりは決してしないのである。
商品が受け入れられたら、遊んでいても売れるのである。
今、250が遊んでいても売れているこの時期に、一度考えてみてはと思っている。
1991年前後、今から思うと一番活気があって面白かった時代である。
7万台の挑戦もその目標を達成したし、いろんなことをカワサキの国内グループは手がけていた。
91年、いろんなことがあったが、カワサキのサーキット走行専用の4輪スポーツ車の開発とその対策は結局は実現しなかったがその最右翼であったかも知れない。
この年の資料をひっくり返しているとX-11資料がいっぱい出てくるのである。
それだけ力が入っていたのだろう。
このことは一度ブログにも取り上げたことはあるのだが、
自分のためにも一度整理しておこうと思う。
このプロジェクトは、90年4月23日に事業本部の高橋本部長以下の会議で、
『015』という開発コードでスタートされている。
単車のエンジンを使ったサーキット専用のスポーツ走行マシンで、開発が進められることになった。
スポーツ走行、サーキットに関係があることなどから当初から、ケイスポーツシステムが深く関連をすることになった。
約1年の開発期間を経て翌年4月には試作車の完成を見ている。
このプロジェクトに携わった人たちは、エンジン関係はもちろんカワサキのエンジニアたちだが、シャーシーは鈴鹿のウエストレーシングの神谷社長が当初から担当をしてくれた。
ウエストレーシングの神谷さんはJ1600の創始者でもあり会社としても高い技術実績を有していた。
そんな関係もあってマシンテストは元F3チャンピオンの佐々木さんが勤めてくれるなど本格的なメンバーで構成されていた。
試走したサーキットは岡山に出来たばかりのTIサーキットで、ホンダから来られたMFJ関係で面識のあった千々岩さんや国井さんが開発当初からマシンにも非常に情味を持っておられた。
星野インパルの金子豊君やダンロップの京極さんなど日本レース界の錚々たる人たちが相談に乗ってくれたのである。
開発開始から1年半後の91年9月に、TIサーキットの月例会でX-11という名称で発表された。
カーグラフィックの熊谷さんたちも乗られて音も走りも素晴らしいとの評価を受け雑誌にもインプレッション記事が発表されたりしたのである。
そして翌月の10月17日には川崎重工業の最高意思決定機関である経営会議に上程されているのである。
その資料のなかにある仕様の数値は次のようなものである。
ZX1100ccのエンジンを使用、排気量1052cc、最高出力160PS/10500rpm、
全長8000、全巾1640、全高1057、車重409kg
元F3チャンピオン佐々木氏は『限りなくF3に近い性能』と評価している。
コストは490万円ぐらいで、販売価格はまだ未定であったが、翌年当初からの販売を予定していた。
そこまでの記録はあるのだが、それから先あまり記録がないのである。
当時は面白いことがいっぱいあって、このプロジェクトもその『one of them』であったためか、そのあとどうなってしまったのか。
カタログまで作ったのになぜ販売まで至らなかったのか、よく解らないのである。
最近よく思うのだが、『記憶にございません』 というのも満更ウソではないと思うこともしばしばなのである。
日記があるから何とかなっているのである。
その後、92年3月7日の日記に、
『TIで中江先生にX-11を乗せる』と書いている。
そしてそのとき始めて自分でもサーキットをX-11で走っている。
『10000回転のエンジンを私の技量では持て余してしまう。とてもそこまで使い切れない。かって乗ったFJ1600のほうが乗りやすかった。』とエラそうに感想を述べたりしている。
中江先生とは、当時『好感企業の時代』という本を出版されていて、
当時のカワサキの企業活動に興味を持たれて、先方から取材を申し込んでこられたことのある、中央大学教授の中江剛毅先生のことでである。
先生は4輪の国内A級ライセンスも持たれて、世界のサーキットを飛び回っているという面白い方なので、これはこちらから声をかけたのだと思う。
プロジェクトは潰れてしまったが、そのころお付き合いした人とは今でも関係がある。
ハンドルネーム『胡蝶さん』はこのプロジェクトのメンバーの一人である。
彼はまだ現役で昨年賞に輝いたジェットスキーの開発責任者でもある。
『胡蝶さん』またいいもの造って下さい。
かっこよく言えば 『ソフトの事業化』
平たく言えば 『遊びの事業化』
バイクもジェットスキーも、 遊び道具である。
モノを造るだけの時代は、 もう旧いと思っていた。
今でも、そう信じている。
一生懸命やったら売れたりは決してしないのである。
商品が受け入れられたら、遊んでいても売れるのである。
今、250が遊んでいても売れているこの時期に、一度考えてみてはと思っている。
1991年前後、今から思うと一番活気があって面白かった時代である。
7万台の挑戦もその目標を達成したし、いろんなことをカワサキの国内グループは手がけていた。
91年、いろんなことがあったが、カワサキのサーキット走行専用の4輪スポーツ車の開発とその対策は結局は実現しなかったがその最右翼であったかも知れない。
この年の資料をひっくり返しているとX-11資料がいっぱい出てくるのである。
それだけ力が入っていたのだろう。
このことは一度ブログにも取り上げたことはあるのだが、
自分のためにも一度整理しておこうと思う。
このプロジェクトは、90年4月23日に事業本部の高橋本部長以下の会議で、
『015』という開発コードでスタートされている。
単車のエンジンを使ったサーキット専用のスポーツ走行マシンで、開発が進められることになった。
スポーツ走行、サーキットに関係があることなどから当初から、ケイスポーツシステムが深く関連をすることになった。
約1年の開発期間を経て翌年4月には試作車の完成を見ている。
このプロジェクトに携わった人たちは、エンジン関係はもちろんカワサキのエンジニアたちだが、シャーシーは鈴鹿のウエストレーシングの神谷社長が当初から担当をしてくれた。
ウエストレーシングの神谷さんはJ1600の創始者でもあり会社としても高い技術実績を有していた。
そんな関係もあってマシンテストは元F3チャンピオンの佐々木さんが勤めてくれるなど本格的なメンバーで構成されていた。
試走したサーキットは岡山に出来たばかりのTIサーキットで、ホンダから来られたMFJ関係で面識のあった千々岩さんや国井さんが開発当初からマシンにも非常に情味を持っておられた。
星野インパルの金子豊君やダンロップの京極さんなど日本レース界の錚々たる人たちが相談に乗ってくれたのである。
開発開始から1年半後の91年9月に、TIサーキットの月例会でX-11という名称で発表された。
カーグラフィックの熊谷さんたちも乗られて音も走りも素晴らしいとの評価を受け雑誌にもインプレッション記事が発表されたりしたのである。
そして翌月の10月17日には川崎重工業の最高意思決定機関である経営会議に上程されているのである。
その資料のなかにある仕様の数値は次のようなものである。
ZX1100ccのエンジンを使用、排気量1052cc、最高出力160PS/10500rpm、
全長8000、全巾1640、全高1057、車重409kg
元F3チャンピオン佐々木氏は『限りなくF3に近い性能』と評価している。
コストは490万円ぐらいで、販売価格はまだ未定であったが、翌年当初からの販売を予定していた。
そこまでの記録はあるのだが、それから先あまり記録がないのである。
当時は面白いことがいっぱいあって、このプロジェクトもその『one of them』であったためか、そのあとどうなってしまったのか。
カタログまで作ったのになぜ販売まで至らなかったのか、よく解らないのである。
最近よく思うのだが、『記憶にございません』 というのも満更ウソではないと思うこともしばしばなのである。
日記があるから何とかなっているのである。
その後、92年3月7日の日記に、
『TIで中江先生にX-11を乗せる』と書いている。
そしてそのとき始めて自分でもサーキットをX-11で走っている。
『10000回転のエンジンを私の技量では持て余してしまう。とてもそこまで使い切れない。かって乗ったFJ1600のほうが乗りやすかった。』とエラそうに感想を述べたりしている。
中江先生とは、当時『好感企業の時代』という本を出版されていて、
当時のカワサキの企業活動に興味を持たれて、先方から取材を申し込んでこられたことのある、中央大学教授の中江剛毅先生のことでである。
先生は4輪の国内A級ライセンスも持たれて、世界のサーキットを飛び回っているという面白い方なので、これはこちらから声をかけたのだと思う。
プロジェクトは潰れてしまったが、そのころお付き合いした人とは今でも関係がある。
ハンドルネーム『胡蝶さん』はこのプロジェクトのメンバーの一人である。
彼はまだ現役で昨年賞に輝いたジェットスキーの開発責任者でもある。
『胡蝶さん』またいいもの造って下さい。