鉄道模型の走行会があるというので、アメリカから遊びに来ている孫3人を連れてカワサキワールドを訪ねた。
1度目はカワサキワールドに行った積りが懐かしい田中さんや吉田君に会って事務所で昔話をしてほとんど何も見ずに帰ってきた。
2度目は、昨年夏孫を連れて訪れた。
3度目は、この春フェアのときに
そして、今回は4度目である。
休日でフェアと重なって、圧倒的に子供連れで、どこもいっぱいであった。
バイクも人気だが、鉄道車両はなぜか子供たちには人気が高い。
館内はどこもいっぱいだった。
親子で作る鉄道模型教室なども開催されていて「こばちゃん」は先生役で活躍中だった。
そんなイベントの影響で、カワサキワールドのバイクの会場も、新幹線もバートルもどこもいっぱいの人だった。
4度目ではじめて解ったこと、今までどうしても解らなかったことが解った。
これはどうしても調べておきたかったのである。
それは、カワサキが二輪事業に本格的に進出する直接のきっかけになった、カワサキの初めてのレース青野ヶ原のモトクロスがいつであったかということである。
直接ではないが、私の係りで川合寿一さんが担当していたのだが、日記をひっくり返してもなかなか見つからなかったのである。
それをカワサキワールドの会場で見つけてきた。
そのときの写真とともに1963年5月19日と明確に表示されている。
写真には、このモトクロスの責任者中村治道さんや高橋鉄郎さんの若いころの写真も載っている。
左から、中村、高橋、秋原、多賀井、?、藤森、飯原、藤井、加藤である。
一人だけ名前が解らぬが、あとは後々いろんなことで色濃く関係した人たちばかりである。
この日付がはっきりしたことは、今日の大収穫であった。
この記念すべき日が明確になったので、あといろいろといろんなことが明確になるはずである。
ちなみに、今までなぜ解らなかったのか?
当時の日記は、ちょうど速記の練習をしているころで、1日おきに速記で書かれているのである。
速記は、書くことよりも読むほうが難しい。
長年速記とも離れてしまって、速記の字から、青野ヶ原のモトクロスを見つけることが出来なかったのである。
ひとつ、核になることが解ればその前後の関連は解り易いと思うにである。
霧が晴れた感じである。
1度目はカワサキワールドに行った積りが懐かしい田中さんや吉田君に会って事務所で昔話をしてほとんど何も見ずに帰ってきた。
2度目は、昨年夏孫を連れて訪れた。
3度目は、この春フェアのときに
そして、今回は4度目である。
休日でフェアと重なって、圧倒的に子供連れで、どこもいっぱいであった。
バイクも人気だが、鉄道車両はなぜか子供たちには人気が高い。
館内はどこもいっぱいだった。
親子で作る鉄道模型教室なども開催されていて「こばちゃん」は先生役で活躍中だった。
そんなイベントの影響で、カワサキワールドのバイクの会場も、新幹線もバートルもどこもいっぱいの人だった。
4度目ではじめて解ったこと、今までどうしても解らなかったことが解った。
これはどうしても調べておきたかったのである。
それは、カワサキが二輪事業に本格的に進出する直接のきっかけになった、カワサキの初めてのレース青野ヶ原のモトクロスがいつであったかということである。
直接ではないが、私の係りで川合寿一さんが担当していたのだが、日記をひっくり返してもなかなか見つからなかったのである。
それをカワサキワールドの会場で見つけてきた。
そのときの写真とともに1963年5月19日と明確に表示されている。
写真には、このモトクロスの責任者中村治道さんや高橋鉄郎さんの若いころの写真も載っている。
左から、中村、高橋、秋原、多賀井、?、藤森、飯原、藤井、加藤である。
一人だけ名前が解らぬが、あとは後々いろんなことで色濃く関係した人たちばかりである。
この日付がはっきりしたことは、今日の大収穫であった。
この記念すべき日が明確になったので、あといろいろといろんなことが明確になるはずである。
ちなみに、今までなぜ解らなかったのか?
当時の日記は、ちょうど速記の練習をしているころで、1日おきに速記で書かれているのである。
速記は、書くことよりも読むほうが難しい。
長年速記とも離れてしまって、速記の字から、青野ヶ原のモトクロスを見つけることが出来なかったのである。
ひとつ、核になることが解ればその前後の関連は解り易いと思うにである。
霧が晴れた感じである。