雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ものを金に変えるー2 昔話ー13

2006-12-17 06:35:05 | カワサキ単車の昔話
「ものを金に変える」-2

1976年5月、東南アジアのCKD事業のための調査団を結成し、約1ヶ月インドネシア、イラン,タイ、マレーシア、台湾などの市場調査を行った。

高橋鉄郎さんを団長に、企画、開発、生産、営業、販売の各分野からのメンバーで構成された。
現地の経営のやり方や、市場、販売ネット、取引条件、ユーザーなどの主としてマーケッテングの分野を担当したが、商売のやり方はいろいろあるものだと思った。

一番印象に残っているのは、どの国も資金と回収が大きな要素で、そのためにはどのようなシステムが適切かという観点で考えられていた。

金を出資しているオーナーと、事業を展開している番頭さんとの関係も面白かった。

基本的には、ユーザーに対しては現金売りで利益率は3~5%と低いが,回転で稼いでしまうか、田舎のようにユーザーがそこから離れる恐れの無い場合は分割もするが、アドオンの高い金利で利ざやを稼ぐという両極端であった。
どちらも商売としては、極めて合理的であった。

イランでの話
アラブの商人である。
価格が決まってからその後支払いを考えるのではなく、まず最初にどんな支払い条件かというところから、商売の話はスタートする。

とにかく、「ものをどのように金に変えるか」ということだけに熱心なのである。

修理サービスなどは、殆ど考えておらず「ものが金に変わった後のこと」は専門の修理業者に任すというドライな考えであった。


タイでの話
タイのオーナーは所謂華僑で、二輪のほかにも沢山のビジネスを持っており、それぞれのビジネスに番頭さんがいて商売を仕切っていた。

資料のようなものもデーターも殆どない、そんな状況であった。
番頭さんを相手にいろいろと細かいことを聞いても、もう一つ辻褄のあう答えが出てこない。
そんなデーターを繋ぎ合わせて日本人独特の損益計算をやると、どうも儲かっていないという答えになる。

番頭さんに、商売は儲かっていないのではと聞くと、「そんなことはない。よく儲かっていると思う。」という答え。 「何故?」

曰く、「オーナーから貰う金よりも、オーナーに渡す金のほうが随分と多いから。」
従業員の給料、販促費、その他必要な金は、オーナーから貰う。資料も報告も不要である。使い方もその額も番頭さんの思いのままという。必要と言えばオーナーはくれるそうである。

ただし、ものを売って、それが「現金になったらその時点で、全てオーナーに渡す」仕組みだという。その中からは1円も使うことは出来ない。
現金にならぬ前の状況、例えば手形の段階では未だ番頭の責任範囲で、現金化されるとオーナーに渡すのだという。

このような単純な仕組みだから、幾つビジネスを持っていても番頭に任せて、渡す金よりも受け取る金が多い、儲かる商売はどれかということだけをオーナーは見ていればいいということのようだった。

いずれも「ものを金に変える」商売の本筋と感心した。


ただ、こんなお国柄のところで近代的な生産も伴うCKDビジネスを合弁で展開するのは大変なことであった。

新しいCKDビジネスは殆どの場合、先進国の大学に留学した息子や娘たちを相手に展開されていったのである。


どの国でも、「ものを金に変える」という商売の基本には見事なまでに忠実で徹底していた。
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大リーガー松坂誕生

2006-12-16 06:43:30 | 発想$感想
何日か前、「松坂、日本へ帰ることもあり得る」などと伝えられた時、辣腕のネゴシエーターも困ったものだ、適当に手を打てばいいと思った人は多いと思う。

一転して、昨日流れた松坂のレッドソックス入団記者会見での爽やかな笑顔を見て、本当に良かったと思った人が殆どだろう。

背番号18番のユニホームを手にした時の彼の笑顔も、インタビューの時々に見せた笑顔も本当にスポーツマンらしい、いい笑顔だった。
話の内容も、謙虚さを忘れずまた堂々としたところもあって、アメリカでの第一印象は100%良かったのではないだろうか。

来シーズンの開幕が待ち遠しいが、それまでのキャンプ期間も話題が絶えないことだろう。
アメリカでの松坂人気がどんどん上がって欲しいと願っているし、間違いなくそうなると確信している。


私事で恐縮だが、
今、アメリカにいる3人兄弟の真ん中の孫が、「松坂に似ている」とよく言われているのだが、本人はそれをあまり喜ばないようである。

兄貴がよく「男前だ」とか「かっこいい」と褒めてもらえるのが羨ましいようで、野球の大スターより男前のほうにより興味があって「松坂は男前か」とよく人に聞くそうである。
まだ小学4年生だが、この年頃の男の子にとっても、「男前かどうか」は大きな関心事のようで面白い。

そんなこともあって、大リーガー松坂が成績でも人気でもアメリカ中を沸かせて「松坂に似ている」ことに、誇りを持てるようになればいいと願っている。

顔よりも素質が似ててくれれば一番いいのだが、それは夢に終わりそうである。

かなわぬものが夢,めざすものは目標。 松坂の言葉、なるほど。
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カワサキフアン&Pit Crew

2006-12-15 06:38:53 | カワサキ単車の昔話
http://www.pitcrew.jp/

有難いことだと思うが、昔から熱烈なカワサキフアンは多い。

ブログをやりだしてからも、そんな方に何人も出合った。
一関工業の学生さんと思うが、大島俊さんもそんな一人である。
面識があるわけではない、パソコンの画面の上でお会いしただけである。

「カワサキのバイクが一番です」というツーリングクラブ「FAST RAY]の団長で、そのホームページには1961年のB-7から1985年のGPZ400Rまで懐かしい車を詳しく紹介してくれている。
画面を見ただけで熱烈なカワサキフアンだと直ぐ解る。

生まれは宮城県気仙沼とあった。
気仙沼といえば40年も昔の話だが小野寺さんというカワサキフアンのバイク屋さんがあったなあと、思い出したりした。

そんな大島さんのホームページのお奨めリンクに、「カワサキマニア必見」と題して「Pit Crew」の名があったのでアクセスして見た。


千葉の渡会さんの「Pit Crew]である。

カワサキの販売店には、本当にカワサキが、バイクが、好きな方の経営する店が多いのだが、マニア必見と言うだけあって、ピットクルーのホームページはカワサキで満ち溢れていた。

全てを観た訳ではないが、PDIと称するPre Delivery Inspectionは渡会さんのバイクに対する真面目さだと思うし、カワサキのモトクロスサポートチーム「K-ryz」の活動記録など見ていて楽しかった。

「何故カワサキが好きなのか」という渡会さんのコメントの中に、
井関のタフ50に乗っていたこと(タフ50は昔々カワサキが生産していた井関農機のバイクです)
モトクロスをKX80で始めたこと、
もっと昔の川崎航空機の5式戦闘機(キ100)のことなど、私もはじめて知った。

最後に、「極限すればピットクルー自体がカワサキの熱烈なフアンなのです」とあり感激した。

渡会さんには、現役のころからお世話になり面識もあったので、ご挨拶のメールを打ったら、直ぐ返事が来た。
突然のことでさぞ驚かれたと思う。

ピットクルーの3店舗はいずれもブログをやっておられる。
毎日沢山のコメントなどが入っている。
こんなところにも末端のユーザーとのふれあいを大事にしようとするコンセプトが感じられ好感が持てた。

ブログは双方向の情報発信というが、本当にそうだと実感している今日この頃である。
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ものを金に変えるー1 昔話ー12

2006-12-14 06:29:44 | カワサキ単車の昔話

「ものを金にかえる」-1

1960年代後半、東北の代理店営業を担当していた。
そのころの話だが、営業とはものを売るのが仕事だと思っていたが、「営業とはものを金に変えるのが仕事だ。」と当時、福島にいた蓬田さんが教えてくれた。

二輪車のような商品は、売ることだけならそんなに難しいことではない。
その当時売ってもなかなか、お金に変わらなかったのである。

メーカーー販社ー代理店ー小売店ーユーザーとものは売られて、その逆の流れでお金の回収がなされるのは至極当然で当たり前のことなのだが、それが上手くいかずに立ち往生することが、当時は多かったのである。

特に、代理店以降が難しかった。
当時の販売店は殆どが自転車屋さんで資金力が無かったので、商品の委託販売であった。
商品が店頭に運ばれても売上はたたず、ユーザーに売れた時点でやっと売れたということになる。

東北でのユーザーの支払いは、当時盆払いとか、秋に米が獲れたらとか、直ぐにキャッシュでということではなかった。
販売店からの手形を貰っても、平均サイトが半年というようなものが多く、自宅払いとかいう銀行には持っていけないようなものまであって、商品がなかなか金に変わらないのである。

こんな状況の中で、代理店が沢山ものを売るということは、即多くの資金を寝かすということになるのである。
メーカーは当然量を売ることを望むので、メーカーの意をたいして量を売った代理店は資金繰りに窮し、メーカーの資金援助を受けているうちに自然に系列化の方向を歩むことになったのである。

当時の金利は、日歩2銭とか2銭5厘といった今でいえば高利だから、代理店経営は営業内はクロでも、営業外で赤字になるそんな体質であった。

こんな状況を、身をもって体験したことが、その後同じような状況で販社やメーカー自体が苦境にたったとき役にたったと思っている。

量産事業は数が増えることでのいろいろなメリットが生じるのは事実である。
量が増えるとコストも下がり、売上も利益も増えるのだが、要する資金もリスクも同時に増える。

簡単な理屈だが、なかなか解りにくい面もあって、長い年月遠回りもし苦労もした。

「ものを金に変える大きな仕組みが体質になって」はじめて事業が安定したと思っている。

そんな意味で、旧い時代の旧い体験も無意味ではなかったと思っている。

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ジェットスキー

2006-12-13 06:46:28 | ジェットスキー&KAZE
ジェットスキーはアメリカで産まれて、日本で商品化された。
1975年からアメリカのリンカーン工場で生産が始まり、同時に販売が開始された。

その後10年程は、アメリカで6~7000台の販売が安定して続いたが、440,550ccが出た84年ごろから急激に売れ出した。
丁度二輪車の在庫過多で苦しい時代であったので、カワサキにとっては単車事業そのものの救世主の役割を果たしてくれた。

一挙に25000台と急上昇し、まだ競争相手もなく独占であったので、一挙に利益源の中心商品となったのである。

国内でもその頃から、JJSBAのレース活動が定着し始めた。

国内をはじめ世界への商品展開を図るべく企画部門に新プロジェクトを立ち上げスタートした。
1985年オーストラリアから、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が帰国して専門でその任にあたるころから動きは活発化した。

ジェットスキーはもともと発動機部門で開発されたので、単車のなかには当時は本格的に乗れる人もいない状況であった。
発動機で個人的にレースに出場していた福井昇君がいることが解り、企画部門に参加してもらった。

ヨーロッパも国内も全く経験のない、新商品の展開であったが面白い経験をしなしがらも、着実にプロジェクトは進行した。

鶴谷、福井君(現ジェットスキープラザ明石)を中心に国内では、西武自動車の人たち、カワサキの販売関係では当時のJJSBA会長の苧野さん、藤田孝明君らでこのプロジェクトを成功に導いた。

国内でも、300台であった販売が1000台になり、ピークには7000台までになった。

ソウルオリンピックの開会式当日に、スタジアムの直ぐ横を流れるハンガン(川の名前)で行われたデモンストレーションにオリンピック委員会より正式に招聘を受け、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからの男女のトップライダーたちと日本からもライダー並びに前述のメンバーたちが参加した。
そのチームの団長をさせて頂いたのも私にとっていい思い出である。

ジェットスキーの販売の増加にともなって、単車やオートバイから、CP事業本部、カワサキモータースジャパンなど、事業部の名称や社名の変更が行われた。

二輪とともにジェットスキーにも沢山のいい想い出や、仲間がいる。

また、機会をみてひとつひとつ、ご紹介したい。


(ジェットスキーはカワサキが商品登録をしている商品名です。一般にはPWCーパーソナル、ウオーター、クラフトーと日本では言われています。)




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佐賀のがばいばあちゃん課

2006-12-12 06:44:51 | 樋渡啓祐さんのこと
佐賀県武雄市の「がばいばあちゃん課」の動きが面白い。

島田洋七原作の「佐賀のがばいばあちゃん」は今年映画化され人気を博したが、フジTVがドラマ化を図り、来年1月4日の夜放送される予定である。

当初は関東でロケをする予定であったが、「佐賀が舞台の話を何故佐賀で撮らぬのか」という1通のメールから、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長がロケ地に名乗りを挙げたところから、この話はスタートしている。

武雄市は人口52000人の歴史の旧い小さな温泉町だが、このロケを機会に戦略的、広報的な展開をはじめている。
その動きはとても、市の行政とは思えぬ質の高さであり注目に値する。

ロケに先立って「がばいばあちゃん課」を新設し、担当を公募して課長に昇格させている。
今、白浜課長以下3人で専門にこのプロジェクトにあたっているが、放送終了と同時に解散するとか。

9月はじめから約1ヶ月のロケには、市が1500万円の予算を組み、一般からも1500万円の協賛金が集まったようである。
1000人を越す市民がロケに協力し市を挙げての熱烈なバックアップは、フジのスタッフ、ロケ隊を感激させている。

「がばいばあちゃん課」の活躍は、時期に合わせた年賀状での宣伝ダウンロードサービスやゴム印サービスなどによる年賀状印刷による広報展開などがある。

ゴム印も印象彫刻部門で現代の名工に選ばれた小林修二氏を使うなど話題性を持たせたり、佐賀県内166郵便局との連携や東京宣伝隊を募集するなど、広く武雄市の枠を超えた活動を展開している。

年賀状は人気沸騰ですでに5万枚を越え、パブリシテイとしても読売新聞、西日本新聞に既に大きく取り上げられている。今後も話題になることは間違いない。
1500万円のもとは十分とれお釣りがきている。何よりも「武雄」のブランドが高質化されているのが大きい。

視聴率90%をめざすとして、12月末には視聴率の主戦場東京でも新たな仕掛けをするという。
若し本当に高視聴率がとれたら、フジTVではシリーズ化も考えるとか。
そうなれば、「佐賀のばあちゃん課」も解散せずにすむかも知れない。


少子高齢化で今後税収の増加は見込めない、人員削減、費用削減も必要だが限度もあるというのが現在の地方行政の置かれた立場である。。
市という従来の行政の枠に捉われず投資的な行政を目指し、新たなヨコ展開の発想を対策の方向とすることは、SNS(ソーシャル、ネットワーク、システム)などの世の流れにも乗っていると言うべきであろう。

タテ型の「頑張ろう型」の発想から、「ソフト思考の柔軟な発想」への転換は行政に限らず民間でも今後の主流となるべきだと思う。

高槻時代からの「樋渡啓祐ファン」として、武雄市の今後のご健闘を祈りたい。
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スポニチ主催のモトクロス

2006-12-11 06:35:34 | M/Cレース
1964年11月8日、和歌山紀ノ川で「第1回西日本モトクロス」が開催された。

「スポーツニッポン主催」のレースで、多分スポーツ紙がモトクロスの主催をしたのは、この西日本シリーズが最初で、ひょっとしたら最後であったかも知れない。

当時まだモトクロスも一般に知られていなかったし、レースについてもライダーの社会的地位も、そんなに高いものではなかった。
カワサキとしもレースに力を入れていたので、出来ることなら一般の人たちに対し、新しいモータースポーツとしての位置づけでモトクロスのPRをしたかったし、レースひいては二輪車のイメージの向上を図りたいと考えた。

64年の秋ごろから、スポニチに働きかけスポニチも乗り気になり、開催の運びとなったのである。

この第1回大会に、星野一義が岡部の名前ではじめてのレース出場を果たしたことは、先日のブログ(11月8日星野がはじめてレース場を走った日)で紹介したが、そんな記念すべき第1回の大会であった。

このシリーズは、65年、66年にも続けて開催され、第5回大会までの記録が残っている。
関西の地元でもあり、カワサキは力を入れたので、優勝の機会も断然多かった。

スポニチに結果が掲載される広告宣伝効果もあり、第3回の加古川大会には、関西のマウンテンライダースはもとより、関東から名門城北ライダースが参加するなど内容の充実した大会に発展していった。

ノービスクラスでは、星野一義、吉村太一が共にデビューした年で、毎大会デッドヒートを二人で展開したのを覚えている。
90ccのレースが出来たころで、BSからも田中隆造など主力メンバーが多数参加した。
カワサキは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部やコンバットの星野をはじめ若手が多数出場した。
関西の地元のライダーたちの登竜門となったと思う。

そのレースの状況と結果は、スポニチ紙面で一般に広く紹介されたので、3年目の
6月には、関西でもモトクロスは定着し、「神戸っ子」や「毎日新聞学芸部」の取材を受けたりもした。

66年11月3日、第5回西日本モトクロスが和歌山県紀ノ川で行われたところまでは、私の記録にあるのだが、翌年からレースの担当を離れ、東北に行ったのでその後どうなったか、定かではない。

この「スポニチ主催の西日本モトクロス」が関西のモトクロスの底辺を広げるとともに、一般のひとたちの理解を深めたことで、十分に所期の目的、役割を果たしたと思っている。

当時のスポニチの高田局長や毎日広告の中島さんには、本当にお世話になったこと感謝したい。
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ヴィッセル神戸J1昇格おめでとう

2006-12-10 06:42:42 | スポーツ
ヴィッセル神戸J1昇格おめでとう。

神戸と福岡の入れ替え戦第二戦は、文字通り壮絶な試合であった。
ルールにより1-1の引き分けでも、神戸の昇格が決まる試合で、後半1点を先制したのは神戸だった。

2点を取らぬ限り残留のチャンスのない福岡の反撃が凄まじかった。
それまでの試合運びと全然違う攻撃一辺倒の福岡の攻撃だった。

Kawasakiがスポンサーの神戸を勿論応援していたのだが、神戸は守る一方に追い込まれ、とうとう1-1の同点となった。
ロスタイム4分、更に福岡の攻撃は激しく、本当によく守りきったと思う。

試合終了後の神戸の選手たちの涙が感動的だった。

2ヶ月程前だったか、J2神戸ー徳島戦を見た頃は、神戸の1部昇格は間違いないと思っていたのだが、勝負の世界は解らないものである。終盤の試合をひとつも勝てずに入れ替え戦になってしまった。

来年はJ1の試合で背中にKawasakiを背負ったヴィッセル神戸の活躍を期待したいものである。


実は、昨日はカワサキモータースジャパンの今年最後のコンペがあって、参加した。
雨が心配されたがそれほどでもなく、後輩たちと楽しいゴルフであった。
優勝はOBでチームグリーンの監督もした重本修次郎君が、ベストグロスで優勝した。ちなみに、私は4位だったからまずまず良かった。

このコンペは、現役諸君とOBも若干名いて年に2,3回参加している。飛ばし屋が多く、ブルーテイから打たされる。
スタート時間が早い、6時45分集合未だ暗かった。7時半のスタートだったが、お陰で早く上がれて、家に帰って4時からのサッカーを観ることが出来た。

早起きは三文の得とはよく言ったものである。

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発想の原点(体験)

2006-12-09 05:46:40 | 発想$感想
今年も残り少ない。73年間、生きてきたことになる。

今まで日記を書いたり、記録を残したりしてきたが。それを読み返したりしたことはなかった。
ブログを始めてから、期日を正確に確かめたりするために、日記や資料を引っくり返してみて、忘れていたことも想い出したりした。
整理してみてはじめて、何となく思っていたことがはっきりした。

「分析A」
少年時代   13年  今の韓国のソウルにいた。引揚げ。 戦前。
学生時代   11年  兵庫県で。 勉強より野球に熱中。 戦後。
会社生活   42年  一番永かった。 主として二輪事業。 面白かった。
年金生活    7年  結構面白い。 人間らしく生きれる。

「分析B」
独身時代   30年  戦前、戦後の貴重な体験をした。
結婚生活   43年  いろいろあった。まだ続きそうである。

「分析C」
会社生活   42年

企画、管理  11年    川航、川重  17年   海外主担当  7年
営業      10年    出向期間   25年   国内主担当  35年
第一線、販社 21年

第一線と出向期間が永かった。
行ったりきたり出向は3回。出向が主で川重には手伝いに戻った、逆出向をした、そんな感じだった。
主として国内を担当したが、その経験は海外の担当時、海外の経験は国内に、第一線の経験は企画に、経験はとにかく役に立った。


「発想の原点となっている体験」

償却計算のIBM化    整理、分析。一般企業より10年早かった(1958年)新規の面白さ。
レース            競争の本質。 マシンの重要性。 ライダーとの付き合い。
広告宣伝          コンセプトの重要性。 人の心理。 末端、市場への目線。
東北での代理店営業   仕組みとは。資金繰り、B/S。系列化の問題点。 商品力。
CKD営業          宗教。 日本の常識と世界の常識の差。 誠実は世界に通じる。


「面白かった経験」

レースマネージメント  モトクロス、ロードレース。 ジェットスキーレース。
新流通機構       二輪車の特約店制度。 ジェットスキーの新販売網。
CKD市場開発      タイ、イラン、インドネシア、ナイジェリア、マレーシアなど新規開発。
ソフト会社経営     ユーザークラブKAZE運営。サーキット開発。二輪専門自動車学校設立。


いろんな体験がその後の仕事の上でプラスになった。40才になる前に経験できたことが良かった。
特にマネージメントは応用問題みたいなものだから、上手く経営するためには、何事にも驚かない度胸みたいなのが最も頼りになると思う。本当はそんなに難しいものではない。
よく考えて、やるべきことをちゃんとやれば、問題点は殆ど解決するものである。

若いときに、いろんなことを進んで経験されることをお奨めしたい。
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初期モトクロス戦略ー2 昔話ー11

2006-12-08 06:31:09 | カワサキ単車の昔話
「初期のモトクロス戦略」-2

相馬が原のMFJ第1回全日本モトクロスでは、5位にも入れない散々な成績であった。
マシンもライダーも根本的な強化が求められた。

マシンは技術部門で専門的に対応できたが、ライダーの育成強化は、社外に頼らざるを得なかった。

即戦力としては新たに安良岡健を補強した。
これでジュニアクラスは、山本、歳森、三橋、安良岡、梅津、岡部、と一応の即戦力の頭数は揃った。

若手のライダー育成をカワサキコンバットの三橋、安良岡君に一任することにし、コンバットと別契約を結んだ。
当時としては思い切った内容であったと思う。

月額20万円の運営費で、若手ライダーの人数、選択、宿舎、生活、練習、運搬車など育成費用の一切をコンバットに委託した。
当時のサラリーマンの年収が50万円に満たない時代であったから、月額20万円は相当な額であったと思う。
少々甘かったかも知れぬが、全国からモトクロスを目指す有能なライダーが多数集まった。

三橋の若手に対する指導やしつけは、結構厳しかった。
何人居たのか明確に把握していないが、厚木にアパートの部屋を借りて、多いときは10人に近かったのではないかと思う。

この中のメンバーから星野、栗山、金子などが育ち、木村、西や増田などの更に若手のライダーへと繋がっていくきっかけとなったのである。


ライダーについては、質、量ともに他を圧倒することを目指し、最盛期のレースでは、専用車で運ぶマシンの数は50台にもなったと思う。

契約ライダーは広告宣伝課嘱託とし、レースは販売促進活動と位置づけた。
ライダー契約金は当時の水準以上の十分に優遇されたものであった。

カワサキとしては、「他メーカーに勝てるもの」は、この時期モトクロス以外にはなかったのである。

当時、本社からの開発費で広告宣伝費として特別対策予算が出ていたが、その中から優先し集中してレースに予算を投じていた。
このような特別対策は、250ccのF21Mがデビューし、カワサキのレースが確固として世に認められるまで続いた。

レース初期、最も豊かにレース活動をした時代の「レース戦略」であった。

モトクロスでは 山本隆、星野一義、歳森康師、岡部能夫、梅津。
ロードでは 三橋実、安良岡健、金谷秀夫。
若手として 清原明彦、従野孝司、増田耕治、木村夏也、西。
など次のスターも育った。

懐かしく思い出される。みんな若かった、いい時代であった。









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薔薇

2006-12-07 06:36:56 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
薔薇を育てはじめて、もう5年になるだろう。

今年の秋バラは全然だめだった。

ブログに時間をとり過ぎたため、世話をするのをさぼってしまった。
正直なもので、結果はそのまま現れる。花は咲いたが、咲いただけで全体としての美しさに欠けた。

そんなに玄人ではないが、昨年までは一生懸命熱中した。
剪定と消毒と施肥、水遣りぐらいのことで、そんなに難しい作業ではない。
やるべき時に、ちゃんとやりさえすればいいのだが、今年はそれが出来なかった。

途中から気がついて何とかしようとしたが、何ともならなかった。
60本近くあるので、数が多い分、みすぼらしいとみすぼらしさも目だってしまう。


12月は薔薇栽培のスタート時期である。
今から2月までの冬の手入れで春の薔薇の成果に繋がる。
気分一新、やることをちゃんとやると心に決めた。

土作りと元肥やりがスタートの第一歩である。
今日からスタートした。
半日以上かかって、やっと20本分ばかり終わった。大変だがやりかけると結構面白い。
出来たという充実感もいい。

薔薇のいいところは、一年中何か作業があるということと、花の咲く時期が意外に長いこと。楽しめる期間が長い。
きれいに咲くと本当にきれいだから、近所の方にも褒めて貰える。
それがまた励みにもなる。

来年までに、若し写真をブログに貼り付けることが出来るようになったら、ブログで披露できるかも知れない。

そんなことを夢見て、冬の作業をさぼらずに、頑張りたいと思う。

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岩城良三さんの思い出 昔話ー10

2006-12-06 06:33:38 | カワサキ単車の昔話
「岩城良三さんの思い出」

「隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず。」

当時のカワサキにとってホンダ、スズキ、ヤマハはまさに大国であった。
訓示の最初に必ずこの言葉から入られた、岩城さん。 常にに強烈なリーダーシップを発揮された。


岩城常務が自ら単車本部長に就任された1965年4月、単車事業本部制がスタートし本格的な単車再建がスタートしたと言っていい。

この時点から販売促進部門はカワサキ自販に全員が出向となった。
広告宣伝とレースを担当していた私もその一員として参加した。

岩城さんはこの年の10月には、カワサキ自販の社長も兼務され、社名もカワサキオートバイ販売となった。

レースや広告宣伝にも非常に関心を示され、具体的な指示も直接受ける機会が多かった。
怒られたことも多かったが怒り方がすっきりしていて、気持ち良かった。

レース運営委員会を設置され、本格的なレース運営が可能になった。

当時の委員会のメンバーは、守田、山田、苧野、堀江、中村、高橋、渡部、大槻、安藤と事業部の主力が顔を揃えた強力なものだった。
事務局を担当したが、下部組織の小委員会には、田崎、水町などのイキのいい若手がいた。

カワ販の社長も兼務された岩城さんは、直ぐ各地の現場を回られ、東北では現地の社長連から仙台に事務所の新設を提案され、「即答をされた」とその時お付で出張していた八木君に聞いた。

「それは、えらいことだな。誰が行くことになるのか。」と彼と雑談していたが、まさか私にお鉢が回って来るとは、思いもしなかった。

その後この話が具体化して決まったとき、岩城さんはわざわざ私の席まで来られて「ご苦労だが」と仰って頂いて本当に恐縮したのを想い出す。

「指揮の一点、譲るべからず。」の教えは、ずっと守ってきた積りである。



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想定の範囲内

2006-12-05 06:40:03 | 発想$感想
若い頃、広報を担当した時期があり、広報についていろいろなことを学んだ。

広報とか、広告の発想は、その後の仕事に実用として大いに役立ったと思っている。
本などでは難しくいろいろ言っているが、「広報的な発想」とは私なりに次のように思っている。


広報とか広告は、「他人がどう思うか」、或いは「どう思ったか」、「その結果どのように行動するだろうか」、或いは「どう行動したか」を確かめてまた次の行動を考える。
確かめるのが、所謂「調査」である。

とにかく、「相手側から物事を考え」、相手側の行動をみて、また次を考える。
同時に、自分の打つ手に相手がどう反応するか、「事前に想定しておくこと」は鉄則である。

市場調査は、自分の「想定の範囲内」であったかどうかのチェックを行うレベルであれば合格で、調査の結果を見ないと想像も出来ないというのでは、行き当たりばったりもいいところである。

ところが、世の中は殆どの場合、自分の側からの発想で動き、広報とは自分の側の発想を「広く報じる」ことぐらいにしか思っていない。
Public Relationを「広報」と訳したところが、間違いの元のような気がする。

「想定の範囲内」はホリエモンがTV会見で連発し一躍有名になった。
もともと、マーケテングの基本的な考え方の一つで、常に「想定の範囲内」であったということは、ホリエモンも普通一般のレベルは間違いなく超えていたのだが。
その後に続く場面までの想定は出来なかったのだろう。


コンセプトの「実現」のための手段として広告、広報はある。

実行と実現は全然違う。
然し世の中は、実行が主で、実現を目指すことは意外に少ない。

目標に向かって努力する、いろんな施策を実行する、そのために予算も組みそれも使う。
これらは全て「実行した」ことには違いないが、コンセプトで目指したことが「実現した」かとは、又別の話である。
あれだけ努力したのだからと弁解するのは敗北を認めることである。

「実行力」などとよく言うが実行するぐらいは、権限と予算さえあれば、そんなに難しいことではない。
役所などでは、期末にきっちり予算の実行をおやりになる。

役所に限らず、コンセプトは明確ではないがとにかく実行だけはある、というのが民間でも一般的過ぎると思っている。


「相手の立場で考え」「動向を常に想定し」「実現を図る」事は、簡単なようで本当に難しいことだと思う。
然し、常にこのように発想し続けると体質になり、何事も実現し易くなるものである。

一番大事なのは、「コンセプト」と「その実現」なのである。

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11月のブログ

2006-12-04 09:31:06 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
ブログをはじめて3ヶ月目の11月が終わった。
一応毎日、発信することが出来た。

3ヶ月目に入り幾らかブログの仕組みも解った。

特に興味があったのはアクセス解析である。
所謂マーケッテングにあたるのだが、時間ごとの閲覧数、訪問者数、ページ毎のアクセス数、アクセス元URL,検索ワードなど読者の分析ができる仕組みである。

11月の閲覧数は18495、訪問者数は5774にもなったので、数値の分析もほぼ確かな傾向は、解ると思っている。

どうしてもモーターサイクル関連、特にレースに興味のある方が多いので、若い方も多いと思っている。
旧い仲間たちからも応援コメントなど頂いて励みになっている。

普通一般の方にも興味のある内容をと思っているが、どうしてもM/Cのことが多くなるのは仕方がない。
モーターサイクルの世界の出来事の中から、何か共感して貰えることがあればと思っている。

M/Cの世界や、業界の考え方は、ホンダがリードしたこと、事業展開の舞台が日本よりもむしろ世界であったことなどもあって意外に進んでおり、昔のことでも十分今の世の中に通用することも多いのではないかと思う。

気分転換に、テンプレートを(バックのデザインをそう呼ぶらしいが)200種類も用意された中から、「冬、みかん」という季節に合うものに変えてみた。

12月も私なりの「いろんな想定」をしながら。今年最後の月に望みたい。
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初期のモトクロス戦略ー1 昔話ー9

2006-12-04 06:32:36 | カワサキ単車の昔話
「初期のモトクロス戦略」-1

青野ヶ原でのモトクロスの優勝と上位独占、これがカワサキのレースの歴史のスタートと言っていい。
残念ながら、私には1963年のことというだけで正確な日時は解らない。

当日は雨の水溜りの中を走るレースになり、他メーカーのマシンはみんな止まってしまった中、B8改造のカワサキだけが走り続けて、運よく好成績に繋がったというのである。

このレースにヤマハで出場した山本隆君に先日確かめたので間違いないだろう。

カワサキのライダーとして出場したのは、加藤,飯原君などの社内のテストライダーたちであったことは、先日カワサキワールドの展示写真を見てはじめて知った。


このレースの結果、事業部の士気は上がり、単車再建への決断の大きな要素になるのである。
そしてモトクロスは重要施策と位置づけられた。

神戸木の実から、山本、歳森。 カワサキコンバットから三橋、梅津、岡部、加藤などのライダーを集めてレース活動を開始した。

当時のカワサキは、他のメーカーに勝てるものは何にもなかったので、例えどんなレースでも「勝つこと」が求められたし、勝つことによって地方の代理店も工場サイドも士気が大いに上がったのである。

この目標達成のために、地方のどんな草レースにも、ライダーを分けて派遣した。
殆ど毎週のように、日本各地の勝てそうなレースに出場した。
結果は、連戦連勝で会社の掲示板にも、代理店へのニュースにも派手に宣伝された。

レースに対する知識も少なかったし、みんなが本当に強いのだと信じて疑わなかったと思う。


翌年の春、相馬が原で行われたMFJ第1回全日本モトクロスを前に、当時のレース担当の川合さんが「今度は、城北も来るし困ったな」と言っていたのを思い出す。
何のことか解らなかったが、全日本の結果は入賞はおろか、5位までにも入れなかったのである。

未だ、本当の実力はなかったのである。
ここまでが、レース初期の第1期と言えるだろう。


この相馬が原の結果を踏まえて、マシン開発もライダー育成も、本格的なレース活動へ取り組むことになっていくのである。

然し、今思っても「モトクロス初期、第1期」の広報戦略は、間違っていなかったと思う。
少なくとも代理店を含め身内の人たちの、モトクロスに対する関心は盛り上がったものになった。

連戦連勝のイメージばかりが残って、相馬が原のことなど知らない人が殆どであった。

そして、「モトクロス初期、第2期」へと入っていくのである。

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