高見順先生と一緒に、度々北鎌倉駅の柵を乗り越えた。
長い股下の先生は、楽々と柵を乗り越えられた。
森男は通学定期を持っていたが、先生は作家。どこかの大学の非常勤講師か、出版社のアルバイトでもしていたんだろうか。
そんな事しなくてもいいお立場を確保していたはず。
低かった柵の上には、ゴッツイ鉄骨の柵が付け足され、脱獄犯しか乗り越えられなくなった。
前田青邨さんがお出かけの時は、改札口で駅員が恭しくお見送り。切符買ってるのを見たこと無い。
森男ならふんぞり返るのに、青邨さんは優しく挨拶を返していた。
いくら有名だってズルイナと思っていた。
文化勲章受章者には年金と、国鉄無料の特権が付くと知ったのは後のこと。
円覚寺敷地内の青邨邸に鬱蒼と茂っていた木立は伐採されて丸裸。
鎌倉市は旧邸が多過ぎて、この偉大な画家の邸までは手が回らない。
いずれ、岐阜県辺りに移築されるだろう。
隣のガラス絵画伯は、東京まで2等車無賃乗車の常習犯。
ロダンの裸婦像があるのに赤貧。何回目かの奥さんは、左右違う靴を履いて外出。バラックに瑠璃色の瓦を乗せたが代金未払いで、屋根屋に剥がされちゃった。
育ちがいいと言ってたので風采動作は立派で一流画伯。
検札の車掌に「ご苦労さん」と一声かければ、パスしてくれた由。
森男の家の牡丹畑を写生しながら、父にそう自慢していた。
画家の陋屋の跡は、大きな駐車場になっている。
「洗面器」を知らない女子高生はもぐりだった。
異常に記憶力がいいのに、タガの外れた良家の跡取りを、女子高生たちがそう呼んでいた。
満月のような顔をくしゃくしゃにし、綺麗なお弟子さんたちを鑑賞するものだから、親の杵屋なんとか師匠にとっては、営業妨害。
遊学定期を渡されて、銀座辺りに追っ払われていた。
三味線の稽古の無い時は、改札口に陣取って、登下校の女子高生を、洗面器は鑑賞した。女の子にカラカイの声をかけられるのを、無上の楽しみにしていた。
洗面器は、両親が亡くなって急に汚れてしまった。
横浜の富豪が後見人との噂はあったが、電車賃が払えなくなった。
それでも優しい駅員さんたちは、洗面器のフリーパスを黙認した。
洗面器も亡くなって、数奇屋作りの屋敷跡は、駅から1分の分譲墓地になった。
北鎌倉駅は「日本の駅百選」に入ったが、粗末な駅舎は建設当時のまま。そろそろ80歳になる。
人事異動の対象外だったような駅員たちは、とっくに引退。
切符売場も改札口も、完全に機械化されて、駅員は見えない。
それでいて、それだから、無賃乗車の隙は無くなった。
狭い駅の乗降客は格段に増えた。
そして、危険になった。
素敵なお宅ですネ。
時々お邪魔させて頂きます。
小島先生は存じ上げておりますヨ。市長になった先生ですネ。
子供の頃「ね・よ・さ」運動と言うものを提起され、話言葉の語尾に上記のように、ネ・ヨ・サを付けないという運動でした。
直接教わったことはありませんが、家が近かったので、兄がいろいろ直接ご指導を受けていました。