あの「永遠の処女」原節子が95歳で亡くなっていたことが分かった。
原節子といえば小津安二郎監督であり、森生は、鎌倉を舞台にした小津映画を何本も見ているが、退屈だった。
登場人物の台詞がわざとらしく、嫌いだった。鎌倉原住民は、あんな気取った話し方はしていなかったのである。
原節子は綺麗で、気品があった。ただ、お行儀が良過ぎ神々しいほどで、さほど好きにはならなかった。
それでも、森生が生まれ育った北鎌倉が舞台だったから、小津映画を見たのである。
小津の映画はつまらなかったが、稲垣浩監督作品で原節子最後の出演作「ふんどし医者」は、流石に良くできていて面白かった。
だが、賭博好きで貞淑な妻という役は、相手が芸達者な森繁久彌にしても、原節子には少し気の毒だった。
原節子死去の報道はマスコミに溢れた。朝日新聞は1面に始まりこの数日で天声人語w含め6本も記事を載せた。
中でも27日付け朝刊の文化文芸頁に載った、映画評論家・蓮見重彦氏による追悼文は、原節子の魅力の解説にもなっており、胸を打った。
森生が小津映画の原節子を好きにはなれなかったのは、まだ人生経験が足りない若造だった所為だろう。
この追悼文を読み、数々の報道に接し、もう一度小津作品を見直せば、原節子への思いが変わるかもしれない。
そして成瀬己喜男作品の「山の音」や、黒澤明監督の「白痴」を是非観てみたい。
42歳で引退し、以後鎌倉に隠棲。マスコミを避け通したのは立派である。
小津安二郎との間に何があったのだろうか。TVで誰かが言っていたが、誠に「秘すれば花」である。
懐かしい、当時の北鎌倉風景を画像検索してみたけれど、徒労だった。
故郷の風景は、小津映画にしか残っていないのだろう。
始めの写真は現在の北鎌倉駅手前風景です。以前は線路に沿って素掘りの狭いトンネルがありました。
左手のくぼみには、中国洞門風の赤いトンネルがあり「好々亭」への近道でしたが、戦中戦後は弾薬庫になり、MPが歩哨に立っておりました。
写真は「日本女子プロ将棋協会・天河戦」さまのブログから拝借しました。
下のモノクロ写真は昭和24年当時の北鎌倉駅下りホームです。
映画「晩春」からの写真で、「人生楽しくガンバロー」さまから拝借しました。
現在は屋根が延び、広告看板と自販機がずらりと並んでおります。
「安立清史オフィシャルサイト」さまには、最近の北鎌倉風景があり、赤い洞門も載ってます。
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随分たくさん ご覧になってるんですね
感心しました