宮部みゆき作品で、私がこれまで読んだのは、
・火車
・理由
・模倣犯
です。
特に「火車」は最初の宮部作品で、物凄くショックを受けた作品でした。
オドロオドロしい現実。それを解明してゆく少年のキラキラした感性に救われながら読み進めたように記憶しています。
次に読んだ「理由」は、「火車」の延長として読んだものだったのですがその「群像劇」に圧倒され、以後私の中で「宮部作品=圧倒的な群像劇」というイメージの原点になった作品でした。
「模倣犯」は腸炎で入院中に(^_^;)差し入れで読んだもの。群像劇もさることながら、人間の得体の知れなさのようなものにこれでもかこれでもか、と追いまくられながら単行本2冊一気に読みました。
入院という環境から「宮部作品と向き合う(戦うには)それなりの時間をきちんと確保しなければならないのだ」と感じたものです。
中途半端じゃ読めない。
そうなんです、宮部作品を読むのは一気通貫とでも申しましょうか、時間・場所・食料・気持ちの余裕、そんなものが全部揃っていることが大事なのだ。と。そう心に決めているのです。
というわけで今年の連休ほ、一気通貫「ソロモンの偽証」を読みました。
いや~、分厚い! 1冊軽く700ページはあります。それが3冊! もうねぇ、ほとんど「修行」(^_^;)
1巻に3日、2巻に2.5日、3巻に2日 で「一気に」読み上げました。
2002年から2006年、2007年から2011年にかけて書かれ、2012年に出版された作品で、舞台は1990年。インターネットも携帯電話もスマホもLineもない時代。子供も大人も「自宅の固定電話」や「街なかの公衆電話」でコミュニケーションを取り合い、調べ物は図書館を利用する、(自分的に)なんとも懐かしい時代。校内で転落死した同級生を巡る、中学生たちの物語。その中心に「校内暴力・いじめ」があります。
驚いたのは、現実に2月に起きた川崎の中学生いじめ殺人事件(と言っていいのか)を連想させる描写が其処彼処に見られる事でした。弁護人が被告人の悪行を追い詰めたくだりには、まさに「冬場の冷たい川を泳がせた」との台詞まであるのです。。物語と現実の区別がつかなくなりそうでした。
この物語の救いは、もちろん、勇気を持って学内裁判を開き真実を知ろうとした主人公たちの存在なのかもしれませんが、私には、彼らを取りまき、見守った、常識を持った大人達の存在だったのでは、と思えました。
物語と現実の事件(川崎の事件)の大きな違いは、そこだった気もします。
今は大人が子どもとまっとうに関わることが「フィクション」なのかもしれません。。
大人は勇気を持って子供たちに向き合うべきなんだ、声をかけてあげるべきなんだ。
多分どんなの時代でも。
切ないくらい、そんな気持ちにさせてくれる作品でした。
甘いですかねぇ。
・火車
・理由
・模倣犯
です。
特に「火車」は最初の宮部作品で、物凄くショックを受けた作品でした。
オドロオドロしい現実。それを解明してゆく少年のキラキラした感性に救われながら読み進めたように記憶しています。
次に読んだ「理由」は、「火車」の延長として読んだものだったのですがその「群像劇」に圧倒され、以後私の中で「宮部作品=圧倒的な群像劇」というイメージの原点になった作品でした。
「模倣犯」は腸炎で入院中に(^_^;)差し入れで読んだもの。群像劇もさることながら、人間の得体の知れなさのようなものにこれでもかこれでもか、と追いまくられながら単行本2冊一気に読みました。
入院という環境から「宮部作品と向き合う(戦うには)それなりの時間をきちんと確保しなければならないのだ」と感じたものです。
中途半端じゃ読めない。
そうなんです、宮部作品を読むのは一気通貫とでも申しましょうか、時間・場所・食料・気持ちの余裕、そんなものが全部揃っていることが大事なのだ。と。そう心に決めているのです。
というわけで今年の連休ほ、一気通貫「ソロモンの偽証」を読みました。
いや~、分厚い! 1冊軽く700ページはあります。それが3冊! もうねぇ、ほとんど「修行」(^_^;)
1巻に3日、2巻に2.5日、3巻に2日 で「一気に」読み上げました。
2002年から2006年、2007年から2011年にかけて書かれ、2012年に出版された作品で、舞台は1990年。インターネットも携帯電話もスマホもLineもない時代。子供も大人も「自宅の固定電話」や「街なかの公衆電話」でコミュニケーションを取り合い、調べ物は図書館を利用する、(自分的に)なんとも懐かしい時代。校内で転落死した同級生を巡る、中学生たちの物語。その中心に「校内暴力・いじめ」があります。
驚いたのは、現実に2月に起きた川崎の中学生いじめ殺人事件(と言っていいのか)を連想させる描写が其処彼処に見られる事でした。弁護人が被告人の悪行を追い詰めたくだりには、まさに「冬場の冷たい川を泳がせた」との台詞まであるのです。。物語と現実の区別がつかなくなりそうでした。
この物語の救いは、もちろん、勇気を持って学内裁判を開き真実を知ろうとした主人公たちの存在なのかもしれませんが、私には、彼らを取りまき、見守った、常識を持った大人達の存在だったのでは、と思えました。
物語と現実の事件(川崎の事件)の大きな違いは、そこだった気もします。
今は大人が子どもとまっとうに関わることが「フィクション」なのかもしれません。。
大人は勇気を持って子供たちに向き合うべきなんだ、声をかけてあげるべきなんだ。
多分どんなの時代でも。
切ないくらい、そんな気持ちにさせてくれる作品でした。
甘いですかねぇ。