加邪馬台国の場所がどこであったかの論争は、畿内説と九州説が拮抗し、結論はでていない。その理由は、「魏志倭人伝」の記述が不明確であること。しかし、「決定版 邪馬台国、全解決」(2018年2月言視社刊)の著者、孫栄健氏は、記述が不明確なのではなく、中国の史書特有の筆法で書かれているために、わかりにくくなっているのだと主張する。
孫氏は「中国の歴史執筆者は、その時の権力者にとって都合が悪い真実を書くわけにはいかず、心ならずもその真実を隠蔽せざるを得なかった。一方、中国の史書は代々語り継がれるから、後世の歴史執筆家にはその隠された真実を知ってもらわなくてはならない。そこで彼らは“春秋の筆法”を編み出した。その筆法とは、文を規則的に矛盾させながら、簡潔・微妙な表現によって、その奥に真意を語ること」だと説明する。そして、孫氏は“春秋の筆法”を駆使して魏志倭人伝を読み解き、見事に邪馬台国の所在地を割り出すことに成功した。
さて、『魏志』(倭人伝)、『後漢書』(倭伝)、および『晋書』(倭人伝)によれば、倭は帯方郡から見て東南の方向の海中にあり、外交関係がある国は三十、魏の使節は次の経路を辿った、とある。邪馬台国の所在地に関しては、結論はでていないが、福岡県糸島半島までの行程に関するかぎり諸説とも一致しており、問題点はその先である。
帯方郡→狗邪韓国→対海国(対馬)→一大国 (壱岐)→末蘆国(佐賀県松浦)→伊都国(福岡県糸島)→ 奴国 → 不弥国 →投馬国 → 邪馬台国
一方、『魏志』には戸数について、次の記述がある。
対海国 1,000戸
一大国 3,000
末蘆国 4,000
伊都国 1,000
奴国 20,000
不弥国 1,000
投馬国 50,000
邪馬台国 70,000
その他 ?
合計 150,000 戸以上
一方、『晋書』には「魏の時代に、三十国の通好あり、戸は七万」とあるから、『魏志』の「戸数15万以上」と矛盾する。
これらの矛盾を解決した孫氏の結論は、「邪馬台国とは倭の三十ヶ国の総称であり、その戸数は7万戸、女王国は奴(な)国」である。これまでの通説では、邪馬台国は三十ヶ国の内の一つとしてきたから、孫説は通説と真っ向から対立するユニークな説ということになる。そうなると、投馬国の50,000戸をどう判断するかという問題が生じるが、孫氏は投馬国を倭の三十ヶ国に含めていない、と解せられる。
この奴国とは、後漢書東夷伝には「紀元57年に倭の奴国が朝貢し、光武帝から印綬を授けられた」という記述があることからしても、確実に存在が確認されている国である。そして、魏志倭人伝によれば、奴国は伊都国(糸島半島)と隣接していることもあり、孫氏は奴国の場所を福岡市周辺に比定している。なお、孫氏は魏使の行程について、伊都国までは直線状だが、そこから先は放射線状、と解釈する。
孫氏の論理構成は本書のキモであり、それをここで詳しく説明することは、道義的観点から適切ではないので、省略する。
さて、孫氏は昭和57年(1982年)に「邪馬台国の全解決」という本を出し、当時の古代史学界でもかなり注目されたらしい。しかし、その後はなぜか孫氏の説は取り上げられることなく、現在に至っている。そして、今回の「決定版 邪馬台国の全解決」は35年前の「邪馬台国の全解決」を補足・加筆したものである。
一般に、学界は在野の研究家の意見を軽視する傾向がある。そして、孫氏は古代史学者ではなく、在野の研究家である。こうした事情が、前著「邪馬台国の全解決」がほとんど無視された背景にあったのではないか。
では歴史学界はこの「決定版 邪馬台国の全解決」にどう反応するか。多分黙殺するだろうが、これが邪馬台国論争の有力な説であることは認めざるを得ないだろう。