頑固爺はアメリカでの生活が30余年であったため、価値観に普通の日本人と比べて多少ズレがある。最近では、荻生田光一文科大臣の「身の丈」発言と、河野太郎防衛大臣の「雨男」発言に対するマスコミと野党のバッシングにズレを感じたので、今回はこの問題をテーマにしたい。
荻生田文科相の発言はこうだった。「裕福な家庭の子供が回数を受けてウォーミングアップできるというようなことがあるかも知れないが、自分の身の丈に合わせて2回をきちんと選んで頑張ってもらえば・・・」
これにマスコミ各社が噛みついた。その代表として朝日新聞の社説(10月9日)を引用する。「入試には貧富や地域による有利不利がつきまとう。その解消に努めるのが国の責務であり、ましてや不平等を助長することはあってはならない。それなのに、教育行政トップが“身の丈”を持ち出して不備を正当化したのだ。格差を容認する暴言と批判されたのは当然である」
当時、荻生田氏は大臣になったばかりだったから、前任者が作った制度を踏襲する立場で、「各受験者が“身の丈”にあう形で受験してもらいたい」と発言したわけだが、そのどこが間違っているのか。貧富の差や地域による不平等はできるだけ解消するように努めるのが政府の責務であることに異論はないが、不平等は一朝一夕に解消できるものではなく、それで荻生田氏を難詰するのは筋違いである。さらに、そんな不都合な制度ができた時、マスコミや野党はなぜ黙認したのか。
そもそも、国民それぞれが貧富の差や地域差を自覚しつつ、日常生活の方向を選択しているのであって、それが“身の丈”に合った行動である。すなわち、“身の丈”に合った行動は世界共通の普遍的規範なのである。
批判すべき対象は制度そのものであるべきだが、マスコミや野党の矛先はなりたてホヤホヤの大臣に向けられ、バッシングを浴びせたのは理不尽だと考える。
一方、河野防衛相の「雨男」発言に対する批判は論外である。悪天候を押して頑張ってくれた自衛隊員をねぎらうスピーチの中での冗談であって、それで気を悪くする被災者がいるとは思えない。「雨男」発言を批判する人々は、よほど根性がひん曲がっているのではないか。
さて、荻生田と河野両氏が問題発言について謝罪した時、上述の論旨をこのブログに掲載しようと考えた。しかし、冒頭に述べたように、私の価値観は一般日本人とズレているので、ブログ読者の共感は得られないと判断して、私見の開陳は控えた。ところが、11月9日の産経新聞の囲み記事に、門田隆将氏(保守派論壇誌の常連)による私とほとんど同じ趣旨の寄稿文を見つけ、「世の中には私と同じ考えの人もいるんだ」と安堵した。そこで、事件発生後2週間も経ってから、“六日の菖蒲”“十日の菊”であることを顧みず、投稿することにした次第である。
では、冒頭に述べた米国では、このような論議は起きるだろうか。答えはノーである。そのわけは、米国は多民族国家であるため国民の価値観が多様であり、こういう些細なことに対する主観的主張に同調する人は少ないからであある。そして、こうした発言は失言にはならないから、謝罪もない。そもそも、彼らは簡単に謝罪しない。米国には米国の特殊事情があるから、その価値観が普遍的とは言えないが、この件はかなり日本独特の価値観に根差したものだと考える。