2015年9月20日(日)午後
続カタツムリ歩行の例会が、ゴールのさいたま市緑区寺山の天神社(天満宮)で散会と
なり、午前中回れなかった東北自動車道の西側、見沼代用水西縁との間を南下することに
した。
13時8分に天神社を後にして西へ、300mほどで浦和学院高の正門前を通過する。
浦和学院高は埼玉県内では野球の強豪校として知られ、甲子園出場は夏12回、春10
回を数え、2013年春の第85回記念選抜高校野球大会で優勝している。
ほかに、テニスやハンドボールなどスポーツが盛んで、大学進学や語学教育にも重点を
置き、生徒数は約2,400人で県内有数のマンモス校だという。今日は何か催しがあった
ようで、一般の人の姿も見られた。
浦和学院正門前のT字路を北に入り、少し先の三差路を左折して西へ、県道105号を
横断して照光寺に入る。
本堂前右手前の庭園は、植栽がよく整えられていた。
南側の道を少し西進し、樹木畑の間を南下して背後から上野田の氷川神社の森に入る。
この辺り上野田は、江戸中期から将軍家の保護のもと「野田の鷺山(さぎやま)」とし
て知られるサギの一大繁殖地だった。
氷川神社はこの上野田の鎮守として祭られ、「風土記稿」にも照光寺持と記され、照光
寺と同じ承応年間(1652~5)に勧請(かんじょう)されたと思われるようだ。
県道に出て南に少し、交番に接して正八幡宮があるが、由緒などの記載はない。
次の信号のある十字路の先には成田不動尊があるが、ここも来歴などは分からない。
信号のある十字路を東に進むと、浦和学院高の「L'Arc(ラルク)」と呼ぶ小公園が
あった。
夢と希望の泉(通称 浦学の泉)と呼ぶ大きな石↑を中心に、生徒や教職員、父兄など、
「浦学ふぁみりー」の憩いの場だという。高校にこのような公園のあるところはほかに知
らない。
さらに進み、浦和学院高の校舎と複数のグランドの間を抜けて、城山集落を南に進む。
この辺りには樹木畑が多く、緑が豊富で気持ちよい。
しらさぎ幼稚園の東側に、りっぱな長屋門の民家があった。Aさん宅で、もとは庄屋だ
ったのだろうか…。
しらさぎ幼稚園の南側に回ると、園舎は木をふんだんに使っていることがわかり、幼児
の情操教育には好ましいものと思われた。
再び県道105号の西に回り、少し戻り気味に樹木畑の間を進むと、かやぶきの民家が
残っていた。
その先にあるのが総持院である。山門は2階が鐘楼の鐘楼門になっている。
明るい境内には、彼岸の墓参に来た家族連れが多い。彼岸の入りの今日は、午前中を含
め立ち寄った寺院はどこも、墓参の人の姿が見られた。
蛇足ながら、私は明日、県内小川町の父母の菩提寺へ墓参に行く予定。
墓地の隅には、ヒガンバナが咲き競っていた。
寺の南西側、見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)に接した竹林と背後に
続く斜面林は「見沼龍の森」と呼び、「さいたま緑のトラスト基金」により取得した「緑
のトラスト保全1号地」である。
この辺りは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体となって、最も
見沼らしさを残している埼玉の原風景のひとつだという。
そばの総持院橋を渡り、南に流れる代用水の右岸沿いの遊歩道に回る。遊歩道には、ち
ょうど見頃なヒガンバナがあちこちに見られる。
代用水が右に大きくカーブする流れの西側、ツタなどの雑草地には、昆虫採集をしてい
るらしいグループの姿が見える。
その先で左カーブした左岸段丘上にある国昌寺に、次の国昌寺橋を渡って上がる。
「開かずの山門」と呼ぶ山門には、菊のご紋章がある。江戸時代中期の宝暦(1751
~64)頃の建築で、さいたま市有形文化財である。
欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられていて、棺を担いでこの門をくぐると、龍に中身
を食われて軽くなるという伝説があるらしい。
国昌寺は、天正年間(1573~92)に、見沼区染谷にある常泉寺の第8世住職だっ
た心厳宗智大和尚の開山。二世(中興開山)の大雲文竜は能書家として知られ、後陽成、
後水尾両天皇から3度も召され、宮中で書を指南しているとか。
境内中央には、さいたま市指定天然記念物センダンバノボダイジュがあるが、かなり以
前に来たときより葉の茂り方が少ないように思われた。
、
東側の車道に回って南下し、国道463号の北側にある福寿寺へ。本堂はコンクリート
造りで境内に樹木は乏しく、歴史的な雰囲気は少ない。
今日はここまでとして、国道463号のバイパス大崎バス停に14時57分に着いた。
15時05分発のバスでJR浦和駅に向かう。
(天気 晴、距離 4.6㎞(午前から通しで9㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行
地 さいたま市緑区、歩数(午前から通しで) 19,600)
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続カタツムリ歩行の例会が、ゴールのさいたま市緑区寺山の天神社(天満宮)で散会と
なり、午前中回れなかった東北自動車道の西側、見沼代用水西縁との間を南下することに
した。
13時8分に天神社を後にして西へ、300mほどで浦和学院高の正門前を通過する。
浦和学院高は埼玉県内では野球の強豪校として知られ、甲子園出場は夏12回、春10
回を数え、2013年春の第85回記念選抜高校野球大会で優勝している。
ほかに、テニスやハンドボールなどスポーツが盛んで、大学進学や語学教育にも重点を
置き、生徒数は約2,400人で県内有数のマンモス校だという。今日は何か催しがあった
ようで、一般の人の姿も見られた。
浦和学院正門前のT字路を北に入り、少し先の三差路を左折して西へ、県道105号を
横断して照光寺に入る。
本堂前右手前の庭園は、植栽がよく整えられていた。
南側の道を少し西進し、樹木畑の間を南下して背後から上野田の氷川神社の森に入る。
この辺り上野田は、江戸中期から将軍家の保護のもと「野田の鷺山(さぎやま)」とし
て知られるサギの一大繁殖地だった。
氷川神社はこの上野田の鎮守として祭られ、「風土記稿」にも照光寺持と記され、照光
寺と同じ承応年間(1652~5)に勧請(かんじょう)されたと思われるようだ。
県道に出て南に少し、交番に接して正八幡宮があるが、由緒などの記載はない。
次の信号のある十字路の先には成田不動尊があるが、ここも来歴などは分からない。
信号のある十字路を東に進むと、浦和学院高の「L'Arc(ラルク)」と呼ぶ小公園が
あった。
夢と希望の泉(通称 浦学の泉)と呼ぶ大きな石↑を中心に、生徒や教職員、父兄など、
「浦学ふぁみりー」の憩いの場だという。高校にこのような公園のあるところはほかに知
らない。
さらに進み、浦和学院高の校舎と複数のグランドの間を抜けて、城山集落を南に進む。
この辺りには樹木畑が多く、緑が豊富で気持ちよい。
しらさぎ幼稚園の東側に、りっぱな長屋門の民家があった。Aさん宅で、もとは庄屋だ
ったのだろうか…。
しらさぎ幼稚園の南側に回ると、園舎は木をふんだんに使っていることがわかり、幼児
の情操教育には好ましいものと思われた。
再び県道105号の西に回り、少し戻り気味に樹木畑の間を進むと、かやぶきの民家が
残っていた。
その先にあるのが総持院である。山門は2階が鐘楼の鐘楼門になっている。
明るい境内には、彼岸の墓参に来た家族連れが多い。彼岸の入りの今日は、午前中を含
め立ち寄った寺院はどこも、墓参の人の姿が見られた。
蛇足ながら、私は明日、県内小川町の父母の菩提寺へ墓参に行く予定。
墓地の隅には、ヒガンバナが咲き競っていた。
寺の南西側、見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)に接した竹林と背後に
続く斜面林は「見沼龍の森」と呼び、「さいたま緑のトラスト基金」により取得した「緑
のトラスト保全1号地」である。
この辺りは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体となって、最も
見沼らしさを残している埼玉の原風景のひとつだという。
そばの総持院橋を渡り、南に流れる代用水の右岸沿いの遊歩道に回る。遊歩道には、ち
ょうど見頃なヒガンバナがあちこちに見られる。
代用水が右に大きくカーブする流れの西側、ツタなどの雑草地には、昆虫採集をしてい
るらしいグループの姿が見える。
その先で左カーブした左岸段丘上にある国昌寺に、次の国昌寺橋を渡って上がる。
「開かずの山門」と呼ぶ山門には、菊のご紋章がある。江戸時代中期の宝暦(1751
~64)頃の建築で、さいたま市有形文化財である。
欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられていて、棺を担いでこの門をくぐると、龍に中身
を食われて軽くなるという伝説があるらしい。
国昌寺は、天正年間(1573~92)に、見沼区染谷にある常泉寺の第8世住職だっ
た心厳宗智大和尚の開山。二世(中興開山)の大雲文竜は能書家として知られ、後陽成、
後水尾両天皇から3度も召され、宮中で書を指南しているとか。
境内中央には、さいたま市指定天然記念物センダンバノボダイジュがあるが、かなり以
前に来たときより葉の茂り方が少ないように思われた。
、
東側の車道に回って南下し、国道463号の北側にある福寿寺へ。本堂はコンクリート
造りで境内に樹木は乏しく、歴史的な雰囲気は少ない。
今日はここまでとして、国道463号のバイパス大崎バス停に14時57分に着いた。
15時05分発のバスでJR浦和駅に向かう。
(天気 晴、距離 4.6㎞(午前から通しで9㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行
地 さいたま市緑区、歩数(午前から通しで) 19,600)
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