古いパソコンが11月下旬に壊れてしまい、それ以前にデジカメで撮った写真をパソコ
ンに移してあった画像データも全部読み出し不可能となりました。
そのため、11月22に日にアップした「上田市美術館・上田証跡公園と別所温泉を訪
ねる①(長野)」の続きも写真が無いのでアップできなくなったと考えておりました。
ところが、新しいパソコンが入ってから、ブログにアップするための画像データのリサ
イズするために以前から使っていたフリーソフト「縮小専用」をダウンロードしたら、そ
の説明文の後に、デジカメからパソコンに移してしまったデジカメのSDメモリの画像デ
ータなどを読み出せるソフトの紹介広告がありました。
さっそくそのソフト「CardRecovery」の試用版をダウンロードして、SDメモリから読
み込ませたら画像が確認できました。パソコンに保存するには有料版(3780円)を購
入する必要があり、購入してパソコンのファイル上に復元することができたので、続きを
以下にアップします。
========================================
2017年11月9日(木)
== 信州の鎌倉・別所温泉の寺社を巡る ==
宿泊した上田駅に近いビジネスホテルを8時50分頃に出て、上田電鉄別所線の始発の
上田駅に行き、9時10分発の下り電車に乗る。
終点の別所温泉駅には9時38分に着いた。
今日も晴天で、昨日の夕方のような冷たい風は治まった。今日は「信州の鎌倉」と呼ぶ
別所温泉の町並みと周辺にある寺社を巡る予定である。
駅を出て、まずは西側山麓にある常楽寺に向かう。300m近く進んだX型交差点際に
将軍塚と呼ぶ小さな盛り土の一角があり、モミジの古木がよい彩り。
塚は、古墳時代後期に築造された周囲10m余り、高さ3m余りの円墳で、この地方の
有力な豪族の墓だとか。
将軍塚はまた維盛(これもり)塚とも呼ばれている。平安時代の安和2(969)年、
信州戸隠山に住む鬼女が妖術を使って近隣を荒らして住民を苦しめていたのを、北向観音
に祈願後に討ち滅ぼした、余吾将軍・平維盛の塚と伝えられているという。
交差点から、西北西に真っ直ぐに伸びるのが常楽寺の参道のよう。その参道を進んで別
所郵便局前を過ぎる。周辺の山並みは紅葉の彩り。
次の交差点の両側に、新しく小さな社殿のよう建造物がある。
「仁王堂」と呼び、常楽寺の表参道に古くからあったのを、平成6(1994)年に往
時のままに復元したらしい。そばの大きな石碑に絡まるツタが色づいていた。
参道を山すそまで進むと、常楽寺の本堂らしいかやぶき屋根が見えてきた。常楽寺の開
山は、別所温泉を開いた慈覚大師と伝えられているとか。古くから学問寺として名高く、
あとで行く北向観音の本坊という。階段を上がって境内に入る。
かやぶき寄棟(よせむね)造りの本堂は、享保末期から元文期(1730年代)の建築
と考えられ、江戸中期後半の特色をよく示したものとして上田市の有形文化財に指定され
ている。庫裡(くり)↓もかやぶき屋根だった。
本堂の前に、「御船ノ松」と呼ぶ長さ18m、幅10.3m、高さ6.2m、樹齢350
年という船ノ形をした見事な松が目につく。
境内のモミジがよい彩りを見せていた。
本堂の左手から裏山に回ると、針葉樹林の下に国の重要文化財に指定されている石造多
宝塔と上田市指定文化財の石造多層塔が並んでいる。
石造多宝塔(中央)は、弘長2(1262)年の造立で全国的にも数少なく、重要文化
財はここと滋賀県の小菩提寺の2基のみという。
石造多層塔は、大正13(1924)年に別所温泉の大島屋旅館裏での水道工事の際に
地中から発見され、その後散逸していたのを昭和56(1981)年に当地に再建したも
ので、鎌倉時代の作と推定されているようだ。
本堂背後や境内のあちこちで、モミジや落葉広葉樹などが彩りを競っていた。
階段下から、ほぼ等高線上を南に延びる遊歩道を次の安楽寺に向かう。
ススキの並ぶ辺りをすぎると、眼下の別所温泉の町並みが一望でき、開かれた東北東に
は浅間山や高峰高原、湯の丸高原などの展望が広がるようだが、今日は雲が多くて遠方の
山並みは判然としない。
さらに進むと、昭和初期の農民運動の指導者として知られる高倉テルと山本宣治、高倉
テルが上田自由大学の講師の頃の借家の家主であった斉藤房雄の記念碑が並ぶ一角がある。
その前を下って右手に回り、モミジの色づく林間を上がって安楽寺に入る。
安楽寺は天長年間(824~834)に開かれたと伝えられ、鎌倉時代中期には鎌倉北
条氏の外護により禅寺として栄え、多くの学僧を育てていたとか。北条氏滅亡後は寺運も
傾き正確な史料も残らないが、国宝や重要文化財など多くの文化遺産を蔵しているという。
急石段を上がって山門を入ると、鐘楼の奥に本堂が見えてきた。
鐘楼のそばのモミジがひときわ鮮やか。
本堂の右手にある庫裡(くり)↑も重厚な作り。まずは本堂↓に参拝する。
本堂左手の受付で拝観料を払い、背後の山腹を上がると国宝の「八角三重塔」が立って
いる。
いっけん四重塔に見えるが、初重の屋根はひさしに相当する「裳階(もこし)」だとい
う。建立年代は不明だが、当地に守護として信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構え
た鎌倉時代末期(1277~1333)以外には考えられないというのが定説になってい
るようだ。
建築様式は当時の中国・宗(そう)の先進技術だった唐様(からよう)(禅宗様)を用
いていて、八角塔は奈良、京都などにも記録として残されているがそれらは全部失われ、
我が国に残る唯一の八角塔できわめて貴重な遺構とか。長野県で最初に国宝に指定された
という。
本堂前に戻り、山門を出て安楽寺を後にする。次の北向(きたむき)観音に向かう道筋
に黒門がある。
入口側の扁額「祟福山(そうふくざん)」は安楽寺の山号で、門は安楽寺境内の入口に
あたり、寛政4(1792)年に建てられたという。
駅前から延びる通りには「北向観音」の門があり、そこから下って湯川を渡ると両側に
土産物店や喫茶、食堂などが、わずかなエリアに並んでいる。
突き当たりの石段を上がれば北向観音の境内である。北向観音の創建は天長2(825)
年と古く、昔から全国の人々の信仰を集めていて厄除け観音として知られ、芸能人の信仰
も多いとか。
南向きの善光寺(長野市)に参詣したら、北向観音にも参拝しないと片参りになって願
い事がかなわないという。
本堂の左横には、別所五木の一つで夫婦円満の木といわれる「夫婦杉」が立っていた。
北側には、樹齢約1200年と推定され川口松太郎の「愛染かつら」で知られ、縁結び
の霊木として親しまれている「愛染カツラ」の古木がある。
昭和49(1974)年の掲示では、樹高約22m、目通り周囲約5.5m、枝張り約
14mと記されているが、その後落雷があったのか主幹の上部は失われていて、葉の落ち
た今はそう見栄えがよいとも思えない。
境内には不動堂や懸崖(けんがい)造りのお堂、愛染堂などもある。
境内を一巡して参拝を終えて往路の商店街を戻り、湯川の橋際にあった橋本屋というそ
ば店で昼食をしたが、期待した信州そばの味は感じられなかった。
橋の斜向かいに、「大師湯飲泉塔」と呼ぶ飲用できる温泉が流れ落ちていたので飲んで
みた。摂氏46.8℃の硫黄泉だという。
流れに沿ったすぐ上流に、「大師湯」と呼ぶ公衆浴場がある。天長2(825)年に比
叡山延暦寺の座主・円仁慈覚大師が北向観音堂の建立にあたり、好んで入浴されたと伝え
られているとか。入湯料200円を支払い入って暖まる。
ちなみに、別所温泉は古くは「七久里(ななくり)の湯」と呼ばれ、平安時代の和歌集
にもその名をとどめているとされる信州最古の温泉。北条氏が別院として使っていたこと
から「別所」の名がついたよう。肌がなめらかになることから「美人の湯」とも呼ばれて
いるとか。
温泉街には、旅館の内湯のほかに大師湯など三つの外湯と三つの足湯、日帰り温泉施設
があり、大師湯のすぐ上流には、もう一つの外湯である「大湯」があった。
こちらの方が建物は新しくて玄関横には「真田幸村公 隠しの湯」碑があり、その下か
ら飲泉が流れ落ちていた。
なお、この文字は「真田太平記」の作者、池波正太郎の揮毫(きごう)だという。
近くには旅館や食堂などがいくつか並んでいた。
少し先で上り坂の道路は右カーブしている。そこから折り返すことにして、駅に向かっ
て下り坂の車道を進むと、真田六文銭の幕の飾られた建物があり、中につるしびなが展示
されていたので入ってみた。
幾つものつるしびなのほか、よろい甲(かぶと)や豪華な衣装などが展示されていた。
家並みが減った辺りには別所温泉センターがあり、別所温泉の紹介、歴史年表、別所温
泉の地層図、温泉街や周辺のジオラマ、発掘された土器などが展示されていた。
さらに駅に向かって並ぶいくつかの店をのぞいたりして緩やかな斜面を下り、14時15
分頃、別所温泉駅に戻る。
駅前広場の線路際に、昭和2(1927)年製造で上田電鉄最初の新造車両のひとつと
いう、モハ5250形電車が保存されていた。
別所温泉駅14時32分発上り電車に乗る。カントリーウオークのメッカともいわれ、
何年か前にグループのメンバーと歩いた塩田平(しおだだいら)の晩秋の展望を、車窓か
ら眺める。上田駅には15時01分に着いた。
上田駅発15時36分の北陸新幹線上り、あさま622号に乗る。隣の長野駅始発の車
内はほとんどが空席だった。
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そのため、11月22に日にアップした「上田市美術館・上田証跡公園と別所温泉を訪
ねる①(長野)」の続きも写真が無いのでアップできなくなったと考えておりました。
ところが、新しいパソコンが入ってから、ブログにアップするための画像データのリサ
イズするために以前から使っていたフリーソフト「縮小専用」をダウンロードしたら、そ
の説明文の後に、デジカメからパソコンに移してしまったデジカメのSDメモリの画像デ
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み込ませたら画像が確認できました。パソコンに保存するには有料版(3780円)を購
入する必要があり、購入してパソコンのファイル上に復元することができたので、続きを
以下にアップします。
========================================
2017年11月9日(木)
== 信州の鎌倉・別所温泉の寺社を巡る ==
宿泊した上田駅に近いビジネスホテルを8時50分頃に出て、上田電鉄別所線の始発の
上田駅に行き、9時10分発の下り電車に乗る。
終点の別所温泉駅には9時38分に着いた。
今日も晴天で、昨日の夕方のような冷たい風は治まった。今日は「信州の鎌倉」と呼ぶ
別所温泉の町並みと周辺にある寺社を巡る予定である。
駅を出て、まずは西側山麓にある常楽寺に向かう。300m近く進んだX型交差点際に
将軍塚と呼ぶ小さな盛り土の一角があり、モミジの古木がよい彩り。
塚は、古墳時代後期に築造された周囲10m余り、高さ3m余りの円墳で、この地方の
有力な豪族の墓だとか。
将軍塚はまた維盛(これもり)塚とも呼ばれている。平安時代の安和2(969)年、
信州戸隠山に住む鬼女が妖術を使って近隣を荒らして住民を苦しめていたのを、北向観音
に祈願後に討ち滅ぼした、余吾将軍・平維盛の塚と伝えられているという。
交差点から、西北西に真っ直ぐに伸びるのが常楽寺の参道のよう。その参道を進んで別
所郵便局前を過ぎる。周辺の山並みは紅葉の彩り。
次の交差点の両側に、新しく小さな社殿のよう建造物がある。
「仁王堂」と呼び、常楽寺の表参道に古くからあったのを、平成6(1994)年に往
時のままに復元したらしい。そばの大きな石碑に絡まるツタが色づいていた。
参道を山すそまで進むと、常楽寺の本堂らしいかやぶき屋根が見えてきた。常楽寺の開
山は、別所温泉を開いた慈覚大師と伝えられているとか。古くから学問寺として名高く、
あとで行く北向観音の本坊という。階段を上がって境内に入る。
かやぶき寄棟(よせむね)造りの本堂は、享保末期から元文期(1730年代)の建築
と考えられ、江戸中期後半の特色をよく示したものとして上田市の有形文化財に指定され
ている。庫裡(くり)↓もかやぶき屋根だった。
本堂の前に、「御船ノ松」と呼ぶ長さ18m、幅10.3m、高さ6.2m、樹齢350
年という船ノ形をした見事な松が目につく。
境内のモミジがよい彩りを見せていた。
本堂の左手から裏山に回ると、針葉樹林の下に国の重要文化財に指定されている石造多
宝塔と上田市指定文化財の石造多層塔が並んでいる。
石造多宝塔(中央)は、弘長2(1262)年の造立で全国的にも数少なく、重要文化
財はここと滋賀県の小菩提寺の2基のみという。
石造多層塔は、大正13(1924)年に別所温泉の大島屋旅館裏での水道工事の際に
地中から発見され、その後散逸していたのを昭和56(1981)年に当地に再建したも
ので、鎌倉時代の作と推定されているようだ。
本堂背後や境内のあちこちで、モミジや落葉広葉樹などが彩りを競っていた。
階段下から、ほぼ等高線上を南に延びる遊歩道を次の安楽寺に向かう。
ススキの並ぶ辺りをすぎると、眼下の別所温泉の町並みが一望でき、開かれた東北東に
は浅間山や高峰高原、湯の丸高原などの展望が広がるようだが、今日は雲が多くて遠方の
山並みは判然としない。
さらに進むと、昭和初期の農民運動の指導者として知られる高倉テルと山本宣治、高倉
テルが上田自由大学の講師の頃の借家の家主であった斉藤房雄の記念碑が並ぶ一角がある。
その前を下って右手に回り、モミジの色づく林間を上がって安楽寺に入る。
安楽寺は天長年間(824~834)に開かれたと伝えられ、鎌倉時代中期には鎌倉北
条氏の外護により禅寺として栄え、多くの学僧を育てていたとか。北条氏滅亡後は寺運も
傾き正確な史料も残らないが、国宝や重要文化財など多くの文化遺産を蔵しているという。
急石段を上がって山門を入ると、鐘楼の奥に本堂が見えてきた。
鐘楼のそばのモミジがひときわ鮮やか。
本堂の右手にある庫裡(くり)↑も重厚な作り。まずは本堂↓に参拝する。
本堂左手の受付で拝観料を払い、背後の山腹を上がると国宝の「八角三重塔」が立って
いる。
いっけん四重塔に見えるが、初重の屋根はひさしに相当する「裳階(もこし)」だとい
う。建立年代は不明だが、当地に守護として信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構え
た鎌倉時代末期(1277~1333)以外には考えられないというのが定説になってい
るようだ。
建築様式は当時の中国・宗(そう)の先進技術だった唐様(からよう)(禅宗様)を用
いていて、八角塔は奈良、京都などにも記録として残されているがそれらは全部失われ、
我が国に残る唯一の八角塔できわめて貴重な遺構とか。長野県で最初に国宝に指定された
という。
本堂前に戻り、山門を出て安楽寺を後にする。次の北向(きたむき)観音に向かう道筋
に黒門がある。
入口側の扁額「祟福山(そうふくざん)」は安楽寺の山号で、門は安楽寺境内の入口に
あたり、寛政4(1792)年に建てられたという。
駅前から延びる通りには「北向観音」の門があり、そこから下って湯川を渡ると両側に
土産物店や喫茶、食堂などが、わずかなエリアに並んでいる。
突き当たりの石段を上がれば北向観音の境内である。北向観音の創建は天長2(825)
年と古く、昔から全国の人々の信仰を集めていて厄除け観音として知られ、芸能人の信仰
も多いとか。
南向きの善光寺(長野市)に参詣したら、北向観音にも参拝しないと片参りになって願
い事がかなわないという。
本堂の左横には、別所五木の一つで夫婦円満の木といわれる「夫婦杉」が立っていた。
北側には、樹齢約1200年と推定され川口松太郎の「愛染かつら」で知られ、縁結び
の霊木として親しまれている「愛染カツラ」の古木がある。
昭和49(1974)年の掲示では、樹高約22m、目通り周囲約5.5m、枝張り約
14mと記されているが、その後落雷があったのか主幹の上部は失われていて、葉の落ち
た今はそう見栄えがよいとも思えない。
境内には不動堂や懸崖(けんがい)造りのお堂、愛染堂などもある。
境内を一巡して参拝を終えて往路の商店街を戻り、湯川の橋際にあった橋本屋というそ
ば店で昼食をしたが、期待した信州そばの味は感じられなかった。
橋の斜向かいに、「大師湯飲泉塔」と呼ぶ飲用できる温泉が流れ落ちていたので飲んで
みた。摂氏46.8℃の硫黄泉だという。
流れに沿ったすぐ上流に、「大師湯」と呼ぶ公衆浴場がある。天長2(825)年に比
叡山延暦寺の座主・円仁慈覚大師が北向観音堂の建立にあたり、好んで入浴されたと伝え
られているとか。入湯料200円を支払い入って暖まる。
ちなみに、別所温泉は古くは「七久里(ななくり)の湯」と呼ばれ、平安時代の和歌集
にもその名をとどめているとされる信州最古の温泉。北条氏が別院として使っていたこと
から「別所」の名がついたよう。肌がなめらかになることから「美人の湯」とも呼ばれて
いるとか。
温泉街には、旅館の内湯のほかに大師湯など三つの外湯と三つの足湯、日帰り温泉施設
があり、大師湯のすぐ上流には、もう一つの外湯である「大湯」があった。
こちらの方が建物は新しくて玄関横には「真田幸村公 隠しの湯」碑があり、その下か
ら飲泉が流れ落ちていた。
なお、この文字は「真田太平記」の作者、池波正太郎の揮毫(きごう)だという。
近くには旅館や食堂などがいくつか並んでいた。
少し先で上り坂の道路は右カーブしている。そこから折り返すことにして、駅に向かっ
て下り坂の車道を進むと、真田六文銭の幕の飾られた建物があり、中につるしびなが展示
されていたので入ってみた。
幾つものつるしびなのほか、よろい甲(かぶと)や豪華な衣装などが展示されていた。
家並みが減った辺りには別所温泉センターがあり、別所温泉の紹介、歴史年表、別所温
泉の地層図、温泉街や周辺のジオラマ、発掘された土器などが展示されていた。
さらに駅に向かって並ぶいくつかの店をのぞいたりして緩やかな斜面を下り、14時15
分頃、別所温泉駅に戻る。
駅前広場の線路際に、昭和2(1927)年製造で上田電鉄最初の新造車両のひとつと
いう、モハ5250形電車が保存されていた。
別所温泉駅14時32分発上り電車に乗る。カントリーウオークのメッカともいわれ、
何年か前にグループのメンバーと歩いた塩田平(しおだだいら)の晩秋の展望を、車窓か
ら眺める。上田駅には15時01分に着いた。
上田駅発15時36分の北陸新幹線上り、あさま622号に乗る。隣の長野駅始発の車
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