2018年9月15日(土)
7~8月は猛暑でウオーキングは夏休み状態だったが9月に入って気温も下がり、2か
月ぶりのカントリーウオークグループの第256回例会に参加した。
集合池はJR八高(はちこう)線の折原(おりはら)駅。久しぶりのウオーキングだが
あいにくの雨。雨具を付けて10時6分に無人の駅を出た。
== 二つの寺を巡って鉢形城公園へ ==
北側の踏切を渡り線路沿いを北へ、大きく実ったクリ畑の先の畑にキジのつがいが。再
度線路を渡り返してすぐの畑にもいた。
立原集落を北西に進み、折原小の東側の実聞寺に入る。無住のようで開放的な境内で、
桜の他は植栽も少ない。
右手の覆屋に「たわし地蔵」が祭られ、背後にはたくさんのたわしが奉納されていた。
雨に濡れる集落を東進して3度目の踏切を越え、少し下って吉定寺に行く。ここも無住
で、境内も実聞寺同様に開放的である。
本堂前の鐘楼に下がる銅鐘は、この地の代官、日下部定好が文禄2(1593)年に自
ら開基したこの寺に寄進したものらしい。
県内では近世以前の銅鐘として貴重で、日下部氏の奉納銘があるなど歴史資料としても
興味深いものとして、県指定史跡になっている。
墓地奥の大ケヤキ下にヒガンバナが咲き出し、県指定史跡の「日下部博貞墓」がある。
博貞は万治元(1658)年生まれ。日下部定好の曾孫、正直の婿(むこ)養子となり、
桑名藩の引き渡し役や長崎奉行を勤め、享保19(1734)年に77歳で病死したとか。
踏切に戻って北へ、道路際になぜかたくさんの石臼が捨ててある。
県道294号を横断し、またまたJR八高線の線路の東に渡ると、すぐ北側に諏訪神社
が祭られている。
この辺りは鉢形城(はちがたじょう)公園の南西部で、諏訪神社は、武州日尾城主(小
鹿野町)の諏訪部遠江守が鉢形城の家老として出仕したとき、信州の諏訪神社を守護神と
して分祀したとのこと。
天正18(1590)年の鉢形城落城で北条の家臣が去った後は、城下の立原の人たち
が鎮守様として崇敬しており、本殿は宝暦年間(1751~64)の造営という。
そばの空堀、御手洗池のほとりにアオサギが立っていた。
ちなみに、鉢形城は戦国期の平山城で関東屈指の名城といわれたが、豊臣秀吉の小田原
城攻めに伴い大軍に攻められ、天正18(1590)年6月に開城された。
鉢形城跡は戦国時代の代表的な城郭跡として国指定史跡となり、現在は堀、土塁、門な
どが復元整備されて鉢形城公園になっている。
園路を北東へ、三の曲輪(くるわ)から二の曲輪の稲荷神社前へとV字状に折り返す。
さらに北東に進んで車道を横切る。
深沢川の深い谷に向かって下る右手に、寄居町天然記念物で樹高18m、根回り6.5m、
樹齢150年と推定され、この3月に「氏邦桜(うじくにざくら)」と命名されたエドヒ
ガンが見事な樹形をみせていた。
谷底に下って橋を渡り、対岸の斜面を上がって「鉢形城歴史館」に入り、鉢形城の歴史
や構造などについて短時間ながら観覧する。
歴史館を出て深沢川の東側を少し北進し、外曲輪の南端付近から西南に下って深沢川を
渡る。
氏邦桜の横を戻って車道を少し北へ、左手(西)の林間を上がって本曲輪の田山花袋
(たやまかたい)碑のそばまで行く。
西側樹間から、眼下に荒川の名勝、玉淀(たまよど)の流れが見下ろせる。
車道に戻って南へ、近くのY字路を右に入る。南西に下る途中からも荒川の流れが見下
ろせた。
鉢形城公園を出て、西側の下郷の集落を進むと、路傍にキバナコスモスやヒャクニチソ
ウ、オミナエシなどが咲き競う。
JR八高線の踏切を越えてすぐ、地図上の田んぼマークの一帯はソバ畑で、秋ソバの花
が咲き出していた。
その先の民家のガレージ前に、自然石に彩色しただるまが二つ並んでいる。
細い流れの橋を渡って上郷集落に入り、昼食地の常光寺には12時23分に着いた。
常光寺は、真言宗智山派の寺で江戸中期の開山。厄除けの不動明王像は、大きさでは日
本の五指に入るとか。
武州寄居七福神の寺で、にこやかな大黒天像は本堂左手にあり、庫裡(くり)前の草地
には大きな清滝不動像が立っている。
地蔵堂横には「しらず地蔵」が祭られ、そばのギンモクセイ↓の芳香を感じながら、地
蔵堂の屋根下を借りて昼食をした。
== 五百羅漢の少林寺から円良田湖へ ==
雨は降り続く中、ミーティングと記念撮影をして13時17分に常光寺を出た。車道を
300mほど西進して北への旧道へ。すぐの空き地にもキジが散歩していた。
小さい流れを越えて雨に煙る上郷集落を西進すると、折原橋の向こうに架かる国道
140号バイパスの末野大橋が近づく。
荒川に架かる折原橋からは、下流に玉淀の流れが、上流側は末野大橋の向こうに玉淀湖
の堰堤が望まれる。
末野交差点で国道140号を横断し、すぐ先で西側の旧道に回る。
北へと緩やかに上がって山腹の緑あふれる少林寺に着き、本堂の屋根下で小休止した。
少林寺は永正8(1511)年の開山で、慶安年間(1648~52)に寺領15石を
与えられているとか。
当寺24世時代の文政9(1826)年から浄財を募り、寺の背後山中に十六羅漢や五
百羅漢の石造などを天保3(1832)年に安置し、信仰の道場として今日に続いている
という。
雨はようやく小ぶりになった。本堂左手からその五百羅漢の並ぶ背後の山道をジグザグ
に上がる。
顔の落ちた羅漢、傾いた羅漢、様々な仕草の羅漢などが続き、斜面の草木と一体化して
歴史が感じられる。羅漢像が終わり峠に着いた。
上り同様に標高差60m前後を下り、周囲を山に囲まれた円良田湖(つぶだらこ)の南
東端に出た。
湖面にはヘラブナ釣り用のデッキが幾つか連なり、数人の釣り人も見える。ようやく雨
も上がった。湖面沿いを北西に少し進んで東屋で小休止した。
さらに進んで湖の西端の堰堤(えんてい)へ。北側には食堂など幾つかの建物が点在す
る。堰堤の西北端には、湖の建設に尽力した「栗原政寛翁之像」の胸像があった。
円良田湖から出る逆川の流れ沿いの車道を南に下る。擁壁のツタが色づき路傍のススキ
も花を見せ、秋の近いことが感じられる。
関根集落まで下ると秩父鉄道の線路が近づく。末野神社際のT字路を右折して西北へ。
雨に濡れたヒガンバナがたくさん咲き競い、カキの実も色づく。
逆川にかかる橋際に「西行戻り橋」の由来が記されていた。西行は秩父への修行に向か
う途中にこの橋で少年少女に会い、彼らが難しい歌をたやすく作ることを知り、自分は恥
ずかしいと戻ってしまったという。
すぐ先の三差路で今日のゴールとなり、皆さんは北側斜面上の↓「かんぽの宿寄居」で
の日帰り入浴に向かう。
明日も予定のある私は直帰することにして別れ、秩父鉄道の波久礼(はぐれ)駅に15時
25分に着いた。
(参加 11人、天気 雨後曇、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 寄居(よりい)、
歩行地 寄居町、歩数 21,800)
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7~8月は猛暑でウオーキングは夏休み状態だったが9月に入って気温も下がり、2か
月ぶりのカントリーウオークグループの第256回例会に参加した。
集合池はJR八高(はちこう)線の折原(おりはら)駅。久しぶりのウオーキングだが
あいにくの雨。雨具を付けて10時6分に無人の駅を出た。
== 二つの寺を巡って鉢形城公園へ ==
北側の踏切を渡り線路沿いを北へ、大きく実ったクリ畑の先の畑にキジのつがいが。再
度線路を渡り返してすぐの畑にもいた。
立原集落を北西に進み、折原小の東側の実聞寺に入る。無住のようで開放的な境内で、
桜の他は植栽も少ない。
右手の覆屋に「たわし地蔵」が祭られ、背後にはたくさんのたわしが奉納されていた。
雨に濡れる集落を東進して3度目の踏切を越え、少し下って吉定寺に行く。ここも無住
で、境内も実聞寺同様に開放的である。
本堂前の鐘楼に下がる銅鐘は、この地の代官、日下部定好が文禄2(1593)年に自
ら開基したこの寺に寄進したものらしい。
県内では近世以前の銅鐘として貴重で、日下部氏の奉納銘があるなど歴史資料としても
興味深いものとして、県指定史跡になっている。
墓地奥の大ケヤキ下にヒガンバナが咲き出し、県指定史跡の「日下部博貞墓」がある。
博貞は万治元(1658)年生まれ。日下部定好の曾孫、正直の婿(むこ)養子となり、
桑名藩の引き渡し役や長崎奉行を勤め、享保19(1734)年に77歳で病死したとか。
踏切に戻って北へ、道路際になぜかたくさんの石臼が捨ててある。
県道294号を横断し、またまたJR八高線の線路の東に渡ると、すぐ北側に諏訪神社
が祭られている。
この辺りは鉢形城(はちがたじょう)公園の南西部で、諏訪神社は、武州日尾城主(小
鹿野町)の諏訪部遠江守が鉢形城の家老として出仕したとき、信州の諏訪神社を守護神と
して分祀したとのこと。
天正18(1590)年の鉢形城落城で北条の家臣が去った後は、城下の立原の人たち
が鎮守様として崇敬しており、本殿は宝暦年間(1751~64)の造営という。
そばの空堀、御手洗池のほとりにアオサギが立っていた。
ちなみに、鉢形城は戦国期の平山城で関東屈指の名城といわれたが、豊臣秀吉の小田原
城攻めに伴い大軍に攻められ、天正18(1590)年6月に開城された。
鉢形城跡は戦国時代の代表的な城郭跡として国指定史跡となり、現在は堀、土塁、門な
どが復元整備されて鉢形城公園になっている。
園路を北東へ、三の曲輪(くるわ)から二の曲輪の稲荷神社前へとV字状に折り返す。
さらに北東に進んで車道を横切る。
深沢川の深い谷に向かって下る右手に、寄居町天然記念物で樹高18m、根回り6.5m、
樹齢150年と推定され、この3月に「氏邦桜(うじくにざくら)」と命名されたエドヒ
ガンが見事な樹形をみせていた。
谷底に下って橋を渡り、対岸の斜面を上がって「鉢形城歴史館」に入り、鉢形城の歴史
や構造などについて短時間ながら観覧する。
歴史館を出て深沢川の東側を少し北進し、外曲輪の南端付近から西南に下って深沢川を
渡る。
氏邦桜の横を戻って車道を少し北へ、左手(西)の林間を上がって本曲輪の田山花袋
(たやまかたい)碑のそばまで行く。
西側樹間から、眼下に荒川の名勝、玉淀(たまよど)の流れが見下ろせる。
車道に戻って南へ、近くのY字路を右に入る。南西に下る途中からも荒川の流れが見下
ろせた。
鉢形城公園を出て、西側の下郷の集落を進むと、路傍にキバナコスモスやヒャクニチソ
ウ、オミナエシなどが咲き競う。
JR八高線の踏切を越えてすぐ、地図上の田んぼマークの一帯はソバ畑で、秋ソバの花
が咲き出していた。
その先の民家のガレージ前に、自然石に彩色しただるまが二つ並んでいる。
細い流れの橋を渡って上郷集落に入り、昼食地の常光寺には12時23分に着いた。
常光寺は、真言宗智山派の寺で江戸中期の開山。厄除けの不動明王像は、大きさでは日
本の五指に入るとか。
武州寄居七福神の寺で、にこやかな大黒天像は本堂左手にあり、庫裡(くり)前の草地
には大きな清滝不動像が立っている。
地蔵堂横には「しらず地蔵」が祭られ、そばのギンモクセイ↓の芳香を感じながら、地
蔵堂の屋根下を借りて昼食をした。
== 五百羅漢の少林寺から円良田湖へ ==
雨は降り続く中、ミーティングと記念撮影をして13時17分に常光寺を出た。車道を
300mほど西進して北への旧道へ。すぐの空き地にもキジが散歩していた。
小さい流れを越えて雨に煙る上郷集落を西進すると、折原橋の向こうに架かる国道
140号バイパスの末野大橋が近づく。
荒川に架かる折原橋からは、下流に玉淀の流れが、上流側は末野大橋の向こうに玉淀湖
の堰堤が望まれる。
末野交差点で国道140号を横断し、すぐ先で西側の旧道に回る。
北へと緩やかに上がって山腹の緑あふれる少林寺に着き、本堂の屋根下で小休止した。
少林寺は永正8(1511)年の開山で、慶安年間(1648~52)に寺領15石を
与えられているとか。
当寺24世時代の文政9(1826)年から浄財を募り、寺の背後山中に十六羅漢や五
百羅漢の石造などを天保3(1832)年に安置し、信仰の道場として今日に続いている
という。
雨はようやく小ぶりになった。本堂左手からその五百羅漢の並ぶ背後の山道をジグザグ
に上がる。
顔の落ちた羅漢、傾いた羅漢、様々な仕草の羅漢などが続き、斜面の草木と一体化して
歴史が感じられる。羅漢像が終わり峠に着いた。
上り同様に標高差60m前後を下り、周囲を山に囲まれた円良田湖(つぶだらこ)の南
東端に出た。
湖面にはヘラブナ釣り用のデッキが幾つか連なり、数人の釣り人も見える。ようやく雨
も上がった。湖面沿いを北西に少し進んで東屋で小休止した。
さらに進んで湖の西端の堰堤(えんてい)へ。北側には食堂など幾つかの建物が点在す
る。堰堤の西北端には、湖の建設に尽力した「栗原政寛翁之像」の胸像があった。
円良田湖から出る逆川の流れ沿いの車道を南に下る。擁壁のツタが色づき路傍のススキ
も花を見せ、秋の近いことが感じられる。
関根集落まで下ると秩父鉄道の線路が近づく。末野神社際のT字路を右折して西北へ。
雨に濡れたヒガンバナがたくさん咲き競い、カキの実も色づく。
逆川にかかる橋際に「西行戻り橋」の由来が記されていた。西行は秩父への修行に向か
う途中にこの橋で少年少女に会い、彼らが難しい歌をたやすく作ることを知り、自分は恥
ずかしいと戻ってしまったという。
すぐ先の三差路で今日のゴールとなり、皆さんは北側斜面上の↓「かんぽの宿寄居」で
の日帰り入浴に向かう。
明日も予定のある私は直帰することにして別れ、秩父鉄道の波久礼(はぐれ)駅に15時
25分に着いた。
(参加 11人、天気 雨後曇、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 寄居(よりい)、
歩行地 寄居町、歩数 21,800)
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