2013年12月2日(月)
つい先日、30年以上も開けたことの無かった古い紳士靴の空き箱に、中学校卒業
から結婚前後までの古い手紙が入っていたのを見つけました。とって置いても、もう
あの世へ行ってしまった人からの手紙が多いので、シュレッダーで処分を始めました。
ところがその中に「大日本雄辯會講談社 懸賞部」からの薄い封書があり、中を見る
と昭和26年(1951)に、当時のプロ野球選手に往復はがきを出してもらったサ
インが5枚入っていました。
その頃私は中学生で、自分でプレイするのはへたくそでしたが、野球を見たりラジ
オで聞いたするのは大好きで、当時の人気雑誌「少年クラブ」や「野球少年」、今年
83歳で亡くなった従兄弟が購読していた「野球界」や「ベースボールマガジン」、
「ホームラン」といった雑誌を愛読していたのです。
当時はまだテレビ放送も開始前で、ラジオだけが埼玉県中部の田舎村に住んでいた
少年たちの外部からの娯楽といってもよく、年に1~2度隣町の映画館に行ったかど
うかというような生活でした。
その頃多分、少年クラブかほかの野球雑誌に掲載されていた選手の住所を知り、往
復はがきでサインをもらったのを保管していたのでした。
最初の1枚は、今年10月28日に93歳で亡くなられ、今日「お別れの会」が行
われたという、川上哲治(てつはる)さんからのものです。
川上哲治さんは「打撃の神様」と呼ばれ、戦時中から戦後のプロ野球界の大スター
であり、監督としても読売ジャイアンツの黄金時代を築き、プロ野球選手の代表とも
いえる方であることは、多くの皆さんがご存じのとおりです。
主な記録として、選手時代は1938年から1958年までの19年(1943~
45は兵役)間で通算安打2351、通算打率3割1分3厘などの成績を残し、首位
打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、MVP3回などのタイトルや
表彰に輝きました。
ほかに、シーズン打率3割以上12回(歴代3位タイ)、打率ベストテン入り15
回(歴代3位)、8年連続打率3割以上(歴代2位タイ)などのほか、史上初として
は、1イニング2本塁打や逆転サヨナラ本塁打、通算2000本安打を達成されてい
ます。
監督としても、通算14年で優勝11回は歴代最多、うち9年連続優勝・日本一も
プロ野球史上唯一の記録です。
このサインをもらった1951年は、通算打率3割7分7厘の高率で首位打者とな
り、シーズン打率歴代8位の記録となっています。
川上さんが長くなりましたが、ほかの4枚のサインの主についても少しずつ紹介し
ます。
平山菊二さんは、1937年から1949年まで戦役を挟んで巨人軍で活躍した外
野手で、川上哲治、千葉茂さんらと巨人軍の第一期黄金時代を作り上げました。
戦後は、外野フェンスに入る本塁打性の打球をジャンプして捕球したことから「塀
際(へいぎわ)の魔術師」と呼ばれました。
晩年は太陽ホエールズ、太陽松竹ロビンスで1953年まで活躍されました。
主な記録としては、15人目の通算1000試合出場をしており、通算安打912
本、通算打率は2割5分5厘です。
サインにはお礼の言葉が記されていますが、この年、平山選手は春先に足の故障で
欠場していたので、そのお見舞い文を往信に書いたことへの返信ですが、記録を見る
と、この年(1951年)は大洋ホエールズで3試合の出場にとどまっています。
次は藤本英雄さん、1942年に巨人軍に入り、1947年のみ中日に移籍しまし
たが翌年から巨人に戻り、1955年まで通算13年間活躍した大投手です。
主な記録は、1943年に34勝11敗で完投39回、完封19回、勝率7割5分
6厘、奪三振253、防御率0.73などのリーグ記録を樹立し、通算勝率6割9分
7厘と通算防御率1.09は日本プロ野球記録になっています。
主なタイトルは、最高勝率3回、最優秀防御率3回、最多三振奪取2回などに輝き、
1950年6月には史上初の完全試合を達成しました。
ほかに1950年に投手としてシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立し、1976
年に野球殿堂入りしています。サインしてもらった1951年は15勝7敗でした。
こちらは坪内道典さん、川上選手より2年早い1936年に大東京軍の結成に参加
し、監督兼任選手などで戦前の試合出場はわずかでしたが、戦後は1951年までゴ
ールドスターや中日の外野手として活躍されました。
通算出場1417試合、通算安打1472本、通算打率2割6分2厘、通算盗塁数
344などの記録を持ち、盗塁王に2回なり、1946年には選手兼任監督ながら
25試合連続安打を達成し、最初の通算1000試合出場選手でもあります。
このサインをもらった1951年で引退していますが、その年は2塁打26、死球
14がリーグ最高でした。1992年に野球殿堂入りしています。
最後は大島信雄さん、岐阜商業高校や慶応義塾大学、大塚産業のエースとして活躍
後、1950年に29歳で松竹ロビンスに入団し、前述の藤本英雄投手を押さえてセ
リーグの最優秀防御率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に
も貢献されました。
選手としては1955年までの通算6年でしたが、引退後はラジオやテレビの解説
者として活躍されました。サインをもらった入団2年目の1951年は15勝13敗
でした。
さて最後に、少年クラブの懸賞で当選したのが、「日本最強チーム絵はがき」です。
3枚あったはずが2枚しか残っていないので、絵はがきの帯封に記されている外野
手も思い出していただけたらと思います。
でももう62年も前のことであり、この頃のプロ野球選手をご存じなのは70歳台
後半以上の方だけかもしれませんね…。
ちなみに1951年は、日本が第二次世界大戦の講和条約を調印(9月)、第1回
NHK紅白歌合戦開始(1月)、マッカーサー元帥がトルーマン大統領と対立して連
合国軍最高司令官を解任される(4月)、国鉄桜木町電車火災事故(4月)、民間放
送ラジオ局が開局(9月)などの年でした。
なお、この頃のはがきの値段は2円(往復はがきで4円)です。
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つい先日、30年以上も開けたことの無かった古い紳士靴の空き箱に、中学校卒業
から結婚前後までの古い手紙が入っていたのを見つけました。とって置いても、もう
あの世へ行ってしまった人からの手紙が多いので、シュレッダーで処分を始めました。
ところがその中に「大日本雄辯會講談社 懸賞部」からの薄い封書があり、中を見る
と昭和26年(1951)に、当時のプロ野球選手に往復はがきを出してもらったサ
インが5枚入っていました。
その頃私は中学生で、自分でプレイするのはへたくそでしたが、野球を見たりラジ
オで聞いたするのは大好きで、当時の人気雑誌「少年クラブ」や「野球少年」、今年
83歳で亡くなった従兄弟が購読していた「野球界」や「ベースボールマガジン」、
「ホームラン」といった雑誌を愛読していたのです。
当時はまだテレビ放送も開始前で、ラジオだけが埼玉県中部の田舎村に住んでいた
少年たちの外部からの娯楽といってもよく、年に1~2度隣町の映画館に行ったかど
うかというような生活でした。
その頃多分、少年クラブかほかの野球雑誌に掲載されていた選手の住所を知り、往
復はがきでサインをもらったのを保管していたのでした。
最初の1枚は、今年10月28日に93歳で亡くなられ、今日「お別れの会」が行
われたという、川上哲治(てつはる)さんからのものです。
川上哲治さんは「打撃の神様」と呼ばれ、戦時中から戦後のプロ野球界の大スター
であり、監督としても読売ジャイアンツの黄金時代を築き、プロ野球選手の代表とも
いえる方であることは、多くの皆さんがご存じのとおりです。
主な記録として、選手時代は1938年から1958年までの19年(1943~
45は兵役)間で通算安打2351、通算打率3割1分3厘などの成績を残し、首位
打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、MVP3回などのタイトルや
表彰に輝きました。
ほかに、シーズン打率3割以上12回(歴代3位タイ)、打率ベストテン入り15
回(歴代3位)、8年連続打率3割以上(歴代2位タイ)などのほか、史上初として
は、1イニング2本塁打や逆転サヨナラ本塁打、通算2000本安打を達成されてい
ます。
監督としても、通算14年で優勝11回は歴代最多、うち9年連続優勝・日本一も
プロ野球史上唯一の記録です。
このサインをもらった1951年は、通算打率3割7分7厘の高率で首位打者とな
り、シーズン打率歴代8位の記録となっています。
川上さんが長くなりましたが、ほかの4枚のサインの主についても少しずつ紹介し
ます。
平山菊二さんは、1937年から1949年まで戦役を挟んで巨人軍で活躍した外
野手で、川上哲治、千葉茂さんらと巨人軍の第一期黄金時代を作り上げました。
戦後は、外野フェンスに入る本塁打性の打球をジャンプして捕球したことから「塀
際(へいぎわ)の魔術師」と呼ばれました。
晩年は太陽ホエールズ、太陽松竹ロビンスで1953年まで活躍されました。
主な記録としては、15人目の通算1000試合出場をしており、通算安打912
本、通算打率は2割5分5厘です。
サインにはお礼の言葉が記されていますが、この年、平山選手は春先に足の故障で
欠場していたので、そのお見舞い文を往信に書いたことへの返信ですが、記録を見る
と、この年(1951年)は大洋ホエールズで3試合の出場にとどまっています。
次は藤本英雄さん、1942年に巨人軍に入り、1947年のみ中日に移籍しまし
たが翌年から巨人に戻り、1955年まで通算13年間活躍した大投手です。
主な記録は、1943年に34勝11敗で完投39回、完封19回、勝率7割5分
6厘、奪三振253、防御率0.73などのリーグ記録を樹立し、通算勝率6割9分
7厘と通算防御率1.09は日本プロ野球記録になっています。
主なタイトルは、最高勝率3回、最優秀防御率3回、最多三振奪取2回などに輝き、
1950年6月には史上初の完全試合を達成しました。
ほかに1950年に投手としてシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立し、1976
年に野球殿堂入りしています。サインしてもらった1951年は15勝7敗でした。
こちらは坪内道典さん、川上選手より2年早い1936年に大東京軍の結成に参加
し、監督兼任選手などで戦前の試合出場はわずかでしたが、戦後は1951年までゴ
ールドスターや中日の外野手として活躍されました。
通算出場1417試合、通算安打1472本、通算打率2割6分2厘、通算盗塁数
344などの記録を持ち、盗塁王に2回なり、1946年には選手兼任監督ながら
25試合連続安打を達成し、最初の通算1000試合出場選手でもあります。
このサインをもらった1951年で引退していますが、その年は2塁打26、死球
14がリーグ最高でした。1992年に野球殿堂入りしています。
最後は大島信雄さん、岐阜商業高校や慶応義塾大学、大塚産業のエースとして活躍
後、1950年に29歳で松竹ロビンスに入団し、前述の藤本英雄投手を押さえてセ
リーグの最優秀防御率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に
も貢献されました。
選手としては1955年までの通算6年でしたが、引退後はラジオやテレビの解説
者として活躍されました。サインをもらった入団2年目の1951年は15勝13敗
でした。
さて最後に、少年クラブの懸賞で当選したのが、「日本最強チーム絵はがき」です。
3枚あったはずが2枚しか残っていないので、絵はがきの帯封に記されている外野
手も思い出していただけたらと思います。
でももう62年も前のことであり、この頃のプロ野球選手をご存じなのは70歳台
後半以上の方だけかもしれませんね…。
ちなみに1951年は、日本が第二次世界大戦の講和条約を調印(9月)、第1回
NHK紅白歌合戦開始(1月)、マッカーサー元帥がトルーマン大統領と対立して連
合国軍最高司令官を解任される(4月)、国鉄桜木町電車火災事故(4月)、民間放
送ラジオ局が開局(9月)などの年でした。
なお、この頃のはがきの値段は2円(往復はがきで4円)です。
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